カロリング家の興隆(732年ごろ – 768年)
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カロリング家の祖であるカール・マルテルは、フランク王でこそなかったものの、王国の宮宰として事実上ピレネー山脈以北の西ヨーロッパにおける絶対的な権力を有していた。彼の時点で後のカロリング帝国の版図の大部分はすでに形成されており、彼の死後にフランク王国の版図に加えられたのはザクセン、ロンバルディア、スペイン辺境領くらいのものである。 またカール・マルテルは、カロリング帝国と中世ヨーロッパの重要な特徴である封建制と実力主義体制の原型を構築した人物でもある。これらは彼の息子、孫の代でさらなる改良を加えられていく。さらに彼は、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラーム勢力のキリスト教ヨーロッパ世界への侵入を阻止したという点でも重要な人物である。それまでは、ベルベル人の軽騎兵とアラブ人の重騎兵が融合したサラセン軍はおよそ不敗であり、イベリア半島を征服した勢いのまま西ヨーロッパを席巻するかのように思われていた。それはキリスト教世界にまだ鐙が伝来しておらず、騎兵力で圧倒的に不利だったためでもある。トゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利で、カールはマルテル(鎚)の称号を得た。歴史家のエドワード・ギボンは著書『ローマ帝国衰亡史』の中でカール・マルテルを中世最高のプリンスと称えた。 カール・マルテルの息子ピピン3世は、ローマ教皇ザカリアスの承認のもとで、もはや名ばかりの存在だったメロヴィング朝の王を廃位し自らフランク王に即位した。彼が死去し、その息子カール1世(大帝)の治世が始まったのは768年のことである。当初彼は弟のカールマンと共同統治していたが、771年にカールマンが死去してからは広大なフランク王国を単独で支配するようになった。800年、カール1世はローマ皇帝として戴冠した。
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