カロリング家の興隆とは? わかりやすく解説

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カロリング家の興隆(732年ごろ – 768年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:10 UTC 版)

カロリング帝国」の記事における「カロリング家の興隆(732年ごろ – 768年)」の解説

カロリング家の祖であるカール・マルテルは、フランク王でこそなかったものの、王国宮宰として事実上ピレネー山脈以北西ヨーロッパにおける絶対的な権力有していた。彼の時点で後のカロリング帝国版図大部分はすでに形成されており、彼の死後フランク王国版図加えられたのはザクセンロンバルディアスペイン辺境領くらいのものである。 またカール・マルテルは、カロリング帝国中世ヨーロッパ重要な特徴である封建制実力主義体制原型構築した人物でもある。これらは彼の息子、孫の代でさらなる改良加えられていく。さらに彼は、732年トゥール・ポワティエ間の戦いイスラーム勢力キリスト教ヨーロッパ世界へ侵入阻止したという点でも重要な人物である。それまでは、ベルベル人軽騎兵アラブ人重騎兵融合したサラセン軍はおよそ不敗であり、イベリア半島征服した勢いのまま西ヨーロッパ席巻するかのように思われていた。それはキリスト教世界にまだ鐙が伝来しておらず、騎兵力で圧倒的に不利だったためでもある。トゥール・ポワティエ間の戦いでの勝利で、カールマルテル(鎚)の称号得た歴史家エドワード・ギボン著書ローマ帝国衰亡史』の中でカール・マルテル中世最高のプリンス称えたカール・マルテル息子ピピン3世は、ローマ教皇ザカリアス承認のもとで、もはや名ばかり存在だったメロヴィング朝の王を廃位し自らフランク王即位した。彼が死去し、その息子カール1世大帝)の治世始まったのは768年のことである。当初彼は弟のカールマン共同統治していたが、771年カールマン死去してからは広大なフランク王国単独支配するようになった800年カール1世ローマ皇帝として戴冠した

※この「カロリング家の興隆(732年ごろ – 768年)」の解説は、「カロリング帝国」の解説の一部です。
「カロリング家の興隆(732年ごろ – 768年)」を含む「カロリング帝国」の記事については、「カロリング帝国」の概要を参照ください。

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