カロリング朝の分王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 15:54 UTC 版)
「ネウストリア」の記事における「カロリング朝の分王国」の解説
748年、ピピン3世短躯王と宮宰カルロマンは、彼らの弟であるグリフォへネウストリアに属する12の県を与えた(中心地はル・マン)。この政策はドゥカトゥス・セノマンニクス(ducatus Cenomannicus)またはメーヌ公(Duchy of Maine)と名付けられた。これはネウストリアのレグヌム(regnum)が9世紀になって代わりの名前となった。 名称としてのネウストリアは、『セーヌ川とロワール川の間の土地』という意味に置いて用いられた。これはレグヌム(王国)としてカール大帝から長子カール(en)へ790年に与えられた。この時、王国の首長都市には、小カールの宮廷として作られたル・マンが現れてきていた。カロリング朝のもと、ネウストリア王の首領たる義務は、ブルトン人に対してフランク王国の宗主国たる地位を守ることにあった。 817年、フランク王ルイ1世敬虔王はネウストリアを自らの長子ロタール1世へ授けた。しかし、831年にロタールが反乱を起こすに伴い、彼はネウストリアを次男のアキテーヌ王ペパン1世へ与え、838年にペパンが死ぬと、シャルル2世へ与えた。アキテーヌとともにネウストリアは、シャルルの西フランク王国の主要な部分を形成した。この王国は、843年のヴェルダン条約により皇帝から削られていた。856年にルイ2世吃音王を即位させると、シャルル2世はル・マンにあるネウストリア支配権を長子へ贈る伝統を続けた。ルイ2世はブルターニュ王エリスポエ(en)の娘と結婚した。そして、フランク人有力者の同意を得たブルトン人王朝からレグヌムを授けられた。この一風変わったネウストリアの協力関係は、当時のイル・ド・フランスとパリを明らかに除外することでどのようにネウストリア王とブルトンとの隔たりが縮められたかを強調した。中央にいるシャルル2世とは遠く、エリスポエとは近かったためである。ルイ2世は、父親によってネウストリア王に任命された最後のフランク王であった。息子のために分王国を創設する慣習が、のちのカロリング朝では減っていった。
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