カロリング・ルネサンス期の建築とは? わかりやすく解説

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カロリング・ルネサンス期の建築

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)

フランク王国」の記事における「カロリング・ルネサンス期の建築」の解説

カロリング朝期になると、カール1世以来カロリング・ルネサンス潮流の中で建築活動活発化した。古代ローマ建築関心持ったカール1世は、ローマラヴェンナにあった聖堂住居から建築資材美術品運び出し晩年住処としたアーヘン持ち込んだ。これらを用いて門楼謁見大広間宮廷礼拝堂学校、浴堂、軍事設備など備えた壮麗な宮殿建設された。この宮殿ローマ時代トリーア建設されコンスタンティヌス1世大帝)のアウラ・パラティナ参考にしたともいわれ、当時詩人は「われらの時代古典文明変容した。革新された黄金ローマこの世再生した」と謳っている。この宮殿の中で現存するのは宮廷礼拝堂のみであるが、直径14.5メートル、高さ30.6メートルドーム戴く八角堂集中プランのこの礼拝堂は、規模でこそ同時代ビザンツ古代ローマ建築及ばないものの、その装飾古代唐草文様柱頭装飾精巧にコピーされており、技術的な確かさは「ルネサンス美術そのもの評されるまた、この宮廷礼拝堂代表されるフランク時代カロリング時代)の教会建築典礼作法との関係から「西構えドイツ語版)(英:Westwork、独:Westwerk、仏:Massif occidental」と呼ばれる新機軸採用された。これは教会西向きに建て、建物西側部分には多層建造物建てられるものであった殉教者聖遺物安置し玄関広間兼ね1階、大アーチ持った広間になっていて、救世主祭壇設けられ2階聖歌隊席のある3階からなり各部分は2つ階段塔で結ばれた反対側の東部分には内陣設けられ使徒たち祀られた。この構成カロリング時代教会モニュメント特徴をなすとともに、「西構え」の多層建築後世ロマネスク建築ゴシック建築教会特徴的な左右に塔を備えたファサード原型となった同じくロマネスク建築ゴシック建築共通する後陣も、その直接的な起源をこのカロリング朝教会建築持っているアーヘン宮廷礼拝堂の「西構え」は後世改築時に失われてしまったが、コルヴァイ修道院聖堂のものが現存し、その姿を見ることができる。 古代ローマから受け継がれ聖堂建築スタイルには、集中式のほかにバシリカ式のものがあった。量的にアーヘン宮廷礼拝堂のような集中プラン建築少数派であり、もっぱらバシリカ式の方が王国各地普及したバシリカ式の普及は、カロリング朝時代聖遺物聖人の遺体一部信仰普及原動力とするもので、聖遺物イタリアからさまざまな方法フランク領内持ち込まれた。イタリアで確立していた聖遺物祀る建築様式としてのバシリカ聖遺物とともに北上し普及した重要な作例としてはサン=ドニ大聖堂ケルン大聖堂挙げられるいずれも当時の姿では現存していない)。

※この「カロリング・ルネサンス期の建築」の解説は、「フランク王国」の解説の一部です。
「カロリング・ルネサンス期の建築」を含む「フランク王国」の記事については、「フランク王国」の概要を参照ください。

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