カロリング・ルネサンス期の建築
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「フランク王国」の記事における「カロリング・ルネサンス期の建築」の解説
カロリング朝期になると、カール1世以来のカロリング・ルネサンスの潮流の中で建築活動も活発化した。古代ローマの建築に関心を持ったカール1世は、ローマやラヴェンナにあった聖堂や住居から建築資材や美術品を運び出し、晩年の住処としたアーヘンに持ち込んだ。これらを用いて門楼、謁見用大広間、宮廷礼拝堂、学校、浴堂、軍事設備などを備えた壮麗な宮殿が建設された。この宮殿はローマ時代にトリーアに建設されたコンスタンティヌス1世(大帝)のアウラ・パラティナを参考にしたともいわれ、当時の詩人は「われらの時代は古典文明に変容した。革新された黄金のローマがこの世に再生した」と謳っている。この宮殿の中で現存するのは宮廷礼拝堂のみであるが、直径14.5メートル、高さ30.6メートルのドームを戴く八角堂の集中式プランのこの礼拝堂は、規模でこそ同時代のビザンツや古代のローマ建築に及ばないものの、その装飾は古代の唐草文様や柱頭装飾が精巧にコピーされており、技術的な確かさは「ルネサンス美術」そのものと評される。 また、この宮廷礼拝堂に代表されるフランク時代(カロリング時代)の教会建築は典礼の作法との関係から「西構え(ドイツ語版)(英:Westwork、独:Westwerk、仏:Massif occidental」と呼ばれる新機軸が採用された。これは教会を西向きに建て、建物の西側部分には多層建造物が建てられるものであった。殉教者の聖遺物を安置し、玄関広間も兼ねる1階、大アーチを持った広間になっていて、救世主の祭壇が設けられた2階、聖歌隊席のある3階からなり、各部分は2つの階段塔で結ばれた。反対側の東部分には内陣が設けられ、使徒たちが祀られた。この構成はカロリング時代の教会モニュメントの特徴をなすとともに、「西構え」の多層建築は後世のロマネスク建築やゴシック建築の教会に特徴的な、左右に塔を備えたファサードの原型となった。同じくロマネスク建築とゴシック建築に共通する後陣も、その直接的な起源をこのカロリング朝の教会建築に持っている。アーヘンの宮廷礼拝堂の「西構え」は後世の改築時に失われてしまったが、コルヴァイの修道院聖堂のものが現存し、その姿を見ることができる。 古代ローマから受け継がれた聖堂建築のスタイルには、集中式のほかにバシリカ式のものがあった。量的にはアーヘンの宮廷礼拝堂のような集中式プランの建築は少数派であり、もっぱらバシリカ式の方が王国の各地に普及した。バシリカ式の普及は、カロリング朝時代の聖遺物(聖人の遺体の一部)信仰の普及を原動力とするもので、聖遺物はイタリアからさまざまな方法でフランク領内へ持ち込まれた。イタリアで確立していた聖遺物を祀る建築様式としてのバシリカは聖遺物とともに北上し普及した。重要な作例としてはサン=ドニ大聖堂やケルン大聖堂が挙げられる(いずれも当時の姿では現存していない)。
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