渤海 (国) 文化

渤海 (国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 14:01 UTC 版)

文化

「国を挙げて内属し、子を遣わして来朝し、命を祗みて章を奉り、礼違う者なし」 (『白氏文集』巻52「渤海王子加官制」)というように、 渤海はに臣従して[61]、何度となく使者を送り、それに付随して留学生を唐へ送り文化を吸収させ、持ち帰らせた。この事により渤海の上層部は儒教的な教養を得、それを元に国政に当たったと思われる。738年には、『唐礼』、『三国志』、『晋書』、『十六国春秋』の書写を唐に願い出るなど、「渤海は晏寧にして遠く華風を慕う」(『文苑英華』巻471「渤海王大彝震に与うる書」)ように、渤海が唐文化に対する強い憧憬を持ち、官司制や地方行政組織、首都上京のように唐の長安城を真似た都城の建設など、唐の制度に倣った律令国家の建設が推進された[61]。また、773年には、「中華の文物を慕う」(『冊府元亀』巻41・寛怒)あまり渤海の人質皇帝の袞竜を盗む事件が起こる[61]。宗教的には仏教の信奉が篤く、首都上京の遺跡からは多くの寺・仏教関係の建物が発見されている。渤海文化は唐の影響が非常に強いが、靺鞨文化の継承もされており、他には高句麗文化の影響も窺える、三つの文化から独自の文化を作り出している。

前述したように日本との通使も行われており、初期は新羅に対する軍事的な牽制の意味合いが強かったが後半になると儀礼的・商業的な意味合いが強くなっていった。実態は別として渤海からの使節を日本は朝貢であると認識しており、日本側は渤海側の使者を大いに歓待をしており、この財政的負担がふくらんだために後期では12年に1回と回数の制限も行われている(遣渤海使)。また、その際に日本との文化交流が積極的に行われている。一例として菅原道真と渤海の使者との間で漢詩の応酬が行われたとの記録がある[62]

首都上京龍泉府は、中央に宮殿、周りに城壁、周囲16kmと、ほぼ平城京と同じ規模である[63]。井上和人は、この都の衛星写真を分析し、平城京造営と同じ物差しを使っているという見解を示した[63]。したがって、上京龍泉府は、長らく中国の長安を真似たものだと思われていたが、平城京の造営は710年、首都上京は755年なので、727年に初めて来日した渤海使が日本から都造りを学んだ可能性がある[63]

教育制度

渤海の教育制度は唐制に倣ったものであったと推察される。日本に派遣された渤海使の随員のなかに大小さまざまな録事官が設けられており、また渤海滅亡後に建国された東丹国に広く博士や助教が設置されていたことから、これら官職に類似するものが渤海にも設置され、それは唐制に類似するものであったことを窺わせる。

また上流階級では女子に対する教育も実施されていた。これは貞恵公主や貞孝公主の墓碑に「女師」の文字があることから推察されている。

これらの教育制度により育成された人材は、一部が唐に留学し、科挙に及第する者を輩出するなど、相当な教育水準を有していたと考えられる。

言語

渤海国の公用語は初め靺鞨語が使用されていた[4]

新唐書』渤海伝には以下の記事がある。

俗謂王曰「可毒夫」、曰「聖王」、曰「基下」。其命爲「教」。

俗称では王(を名付けて)可毒夫、あるいは聖主、あるいは基下といった。(王の)命令を教という[64] — 新唐書、渤海伝
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷219#渤海

ロシアの研究者のエ・ヴェ・シャフクノフ(極東連邦大学英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、渤海語で王をいう「可毒夫」はおそらくツングース系満洲語の「卡達拉」(満洲語: ᡴᠠᡩᠠᠯᠠ᠊、kadala-、カダラ:管理するの意)やツングース系ナナイ語の「凱泰」(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、渤海人靺鞨人の名前の最後に「蒙」の字がついていることがあるが(烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙など)、これは靺鞨語の重要な膠着語尾の一つを示しており、ツングース系民族は氏族を「木昆(満洲語: ᠮᡠᡴᡡᠨ転写:mukūn)」「謀克」と称しているが、「蒙」の音が「木」や「謀」の音と近いことを考えると、この「蒙」の音はその人が属する氏族を表す音節であろうと推測できると述べている[65]

しかしその後、言語の漢化が進んで次第に漢語が公用語となった[66]。漢語が使用された証拠として渤海使が来日したときに春日宅成伊勢興房らのように豊富な入唐経験があり、それらの経験によって培われた実用の漢語に習熟した人物が渤海通訳を務めていたことなどが挙げられ[67]、渤海通訳が使用していた言語である漢語を渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した[68]。渤海を構成する靺鞨人や高句麗人は、それぞれ独自の言語を有しており、このような場合は、優位にたつ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を異なる種族間の共通言語にすることもあり、渤海を建国したのは唐に居住していた靺鞨人であることから、その指導層は漢語が話せたとみられ、これを異なる種族の意思疎通に使用していたと考えられ、漢語には当時異なる言語を話す渤海の人々を納得させるだけの権威があった[68]。その他、渤海国に属する高麗人突厥人契丹人室韋人回紇人などはそのまま自己の言語を使用していた[69]

漢語が公用語であった根拠として以下のことが挙げられる。

  1. 873年3月薩摩に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、はじめ「言語難通、問答何用」という状態であり、日本人と口頭による意思疎通ができず、筆談で自分達は渤海の遣唐使であると示したが、太宰府は「大唐通事張建忠」を派遣して事情聴取をおこない、間違いなく渤海国入唐使であることがあきらかにされた[注釈 3][注釈 4]。これは崔宗佐・大陳潤ら一行が、漢語をもって通訳する大唐通事張建忠の言葉は理解できたこと、つまり崔宗佐・大陳潤ら一行は漢語が話せたということであり、渤海国使人と名乗っている者に対して、また太宰府も朝廷の指示に従い漂着者を「渤海国人」と確認した上で「大唐通事」を遣わし、漂着者を「渤海国人」と認めたにもかかわらず、渤海語通訳者を遣わしておらず、太宰府すなわち朝廷の、漢語は渤海側とも話し合える言語と認めていたこと、漢語は渤海人と通じる言語と認めていたことが分かる[70][71]
  2. 日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され通訳したが、通訳に指名された伊勢興房は862年7月に高岳親王に従い入唐した経歴があり、伊勢興房は高岳親王とともに長安に赴いたが864年10月9日に、高岳親王の命により一人淮南に却廻し、往路のところどころに預けた寄附功徳の雑物を受け取り広州に向かったが、高岳親王を待たずに865年6月に福州から唐商人李延孝の船に乗り、宗叡とともに帰国した。伊勢興房は在唐4年におよび、しかも一人で長安から広州に向かっていることを考慮するならば、伊勢興房は漢語に通暁していたと考えられ、通訳に任命されたのもその能力を買われたからとみられる[72]
  3. 渤海通事に指名された大和有卿の経歴は詳らかではないが、実質的に最後の遣唐使となった承和の遣唐使の漢語訳語に任じられた人物に大和真人耳主がおり、この大和有卿と大和真人耳主は同一人物とみられ、大和真人耳主は839年8月25日に唐から帰国したが、漢語に通暁している人物とみられること[73]
  4. 渤海通訳を養成した秦朝元は『懐風藻』所載の弁正の略伝によると大宝年中に遣唐使に従い入唐した留学僧弁正の子であり、唐で生まれて718年に帰国し、733年には再度入唐判官として渡唐し、玄宗にも謁見したこともあり、秦朝元が唐で出生した事実から漢語に堪能であったことは疑いない。同じく渤海通訳を養成した陽侯真身は『和名類聚抄』『令集解』に引かれている『楊氏漢語抄』が陽侯真身によるものであることから漢語に通暁した人物であると考えられ、このように渤海通訳の師は漢語に通暁した人物であること[74]
  5. 唐の三省に擬して宣詔・中台・政堂の三省が置かれ、政堂省の下に六部が置かれたように渤海は唐の律令制を導入し、律令制国家をめざしたが、それは7世紀末から8世紀初期の国家生成期に靺鞨諸部内の部落と呼ばれる大小の地域に割拠する在地首長である首領を通して百姓=住民を支配し、その支配は靺鞨社会を解体させることなく、適応しやすい形で唐の律令制をはめ込んで再編し、独自の中央集権体制を形成しようとするものであったことから、律令制国家を指向した渤海の支配者層が国家統一の手段として漢語を導入したと考えられること[75]
  6. 春日宅成は、20年近くの間に連続して4回通訳に任命されており、これは記録に残っている限りにおいてなので、実際にはもっと多かったのかもしれないが、春日宅成の経歴からは中国との結びつきが知られる。春日宅成は838年5月7日出航の遣唐使船で入唐し、その後春太郎という中国名を名乗り一行と別行動をとった人物である。春日宅成が帰国の途についたのは847年6月9日であるから約9年間唐に在住したことになる。29回目の来日渤海使は、前回との期間が短すぎるという理由で入京が許されず、日本に対する国書も贈物(珍翫椚謂酒盃など)も朝廷は受け取らなかったが、通訳者だった春日宅成は、贈物について「かつて自分は大唐で数々の珍宝を見てきたが、これほどまでに奇怪なものは見たことがない」と述べており[注釈 5]、このような発言ができるのは、春日宅成が並々ならぬ中国通であり、長期にわたる唐滞在により可能だったためである。春日宅成が優れた漢語話者であり、それゆえ通訳に任命されたことは、渤海使との交渉では漢語が使用されていた蓋然性を示唆している[76]
  7. 扶桑略記』九二〇年(延喜二〇)三月七日「明経学生刑部高名参内。令問漢語者事。高名奏云々。行事所召得、漢語者大蔵三常。即召之於蔵人所。令高名申云。其語能否。奏会。三常唐語尤可広博云々。勅従公卿定申。以三常令為通事。[注釈 6]」とある。これは、対渤海通訳の選定について明経学生である高名を呼び、「漢語」熟達者のことを聞きただし、だれにするかを決めた、ということを述べるものである[77]。明経学生とは、大学寮本科である儒学科の学生のことであり、大学寮は中国文化摂取による中央官僚養成のための教育機関として設置されており、そこで学ばれる外国語は当然漢語である。特に入学当初は専門教官である音博士二人による中国語音たる漢音の授業が、一般基徒教養科目として学生に義務づけられており、漢音教育は中国文化摂取上不可欠のものであるだけに、7世紀末の大学寮設置以来一貫重視された。大学寮における漢語の位置づけや、大学寮の学生たる高名に「漢語」に通じた者は誰かと問うたことや、その高名の言によって大蔵三常が「漢語」=「唐語」通訳に任命された[77]。そして、「何故、渤海使に応対する通訳として漢語に通暁していた人物を任命したのか」という疑問が生じるが、これに対しては、春日宅成や張建忠の検討を踏まえると、大蔵三常が渤海語に(も)通暁していた可能性などに思いを馳せるべきでなく、漢語が日本渤海間の使用言語だったからと答えるべきであり、そもそも、大蔵三常の場合、大学寮の学生を介しての紹介、「漢語」力を問題にしている点など、当初からすべて話題となっているのは漢語力である[77]

一方、相手は渤海なのだから春日宅成渤海語を話したのでないか、という疑問も生じるが、春日宅成の渤海語能力について述べる史書は一つとしてなく、当時の通訳を取り巻く状況を鑑みると、その可能性は極端に低い[78]8世紀から9世紀、唐文化は東アジア諸国に万遍なく浸透しており、日本・渤海・新羅は中国文化摂取に努めており、さらに、日本外交において渤海は中国はもとより新羅よりも軽い存在であり、そのような国際状勢において、中国周辺諸国における最重要外国語は中国語以外にはなく、日本の場合、政治外交文化的に渤海語は中国語はおろか新羅語に比しても低い価値しかなかった[78]。例えば、国家最高の教育機関である大学寮で組織的かつ積極的に行われていたのは中国語音の学習であり、渤海語学習に関して唯一述べる史書も[注釈 7]、当時日本では本格的な渤海語学習が行われておらず、渤海語通訳もいなかったことを思わしめるものであり、さらに、春日宅成が渤海語能力ゆえに通訳に任命されたのなら、それを明示或いは暗示する語句が若干なりとも残されているはずであり、渤海語の必要度及び史書から「春日宅成は渤海語を身につけていたから通訳に任じられた」とは到底言えないことだけは確かである[78]

873年3月薩摩に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行の取り調べに当たり、大宰府には渤海語のできる通訳者がいないため、次善策として「大唐通事張建忠」を派遣した、という解釈も考えうる。日本朝廷773年来朝の第8回渤海使以降、776年来朝の第9回渤海使、779年来朝の第11回渤海使に対して、大宰府に来着するよう要求している[79]。大宰府に来着することを指示しているからには、大宰府に渤海使に対応できる通訳が用意されていたはずであり、渤海人と口語で意思疎通できる人物がいたはずであるが、渤海人と口語で意思疎通できる言語が渤海語であるならば、渤海語通訳者を派遣しなかったのか、という疑問が生じる。この場合、「大唐通事」は渤海語能力も具えていたという解釈も一応は成り立つが、もし張建忠が渤海語能力において派遣されたのであれば、何故張建忠を「渤海(語)通事」と呼ばなかったのか、中国語能力を示す「大唐」は文面に示されているにもかかわらず、渤海語に関する語句が皆無であるという解きがたい疑問が残される[79]。従って、張建忠は渤海語通訳者としてではなく、あくまでも「大唐通事」として派遣されたと解釈するのが妥当であり、「大唐通事」派遣は間接的ながらも大宰府に渤海語通訳者がいなかったことを反映している[79]

810年5月、帰国を目前にした渤海使の一員である首領の高多仏が使節から一人離脱して、越前国にとどまり、亡命した。その後、高多仏は越中国に移されて、史生の羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習した。日本朝廷が渤海語を学習させた意図は、渤海語を母語とする者を師としての通訳養成とみられるが、渤海語通訳養成のためにわざわざ羽栗馬長などを越中国まで派遣し、高多仏から渤海語を学ばせたのかという疑問が生じる[80]

  1. 当時、渤海使の来日は14回に達し、日本からの遣渤海使も14回に達する日本と渤海の密接な交流、当時の日本が渤海使の来日を制限しようとしたが渤海との交流継続の意思は十分あること、日本と渤海の海上交通は比較的安全であることを鑑みると、渤海語が日本渤海間の外交用言語である場合、すでに日本側にはしかるべき渤海語通訳者がいたはずであり、その渤海語通訳者を師として渤海語を学ぶことができたのでないか[80]
  2. 度々の渤海使の来航或いは送・遣渤海使の派遣からして、日本には渤海人から渤海語を学習する機会があるのではないか。第15回渤海使は10月1日来日、次年の5月18日離日、約8か月近く日本に滞在している[80]
  3. 日本朝廷が渤海語通訳者の養成を意図していた場合、渤海へ留学生の派遣もできたはずである。例えば、当時、日本語を学ぶ留学生「新羅学語」が新羅から派遣されていた。従って、その意志さえあれば日本は渤海に渤海語学習者を派遣できたはずである[80]

渤海から個人的に「慕化来(入)朝」してきた場合をも含め、1・2・3の手段による渤海語習得を示唆する史料は一つとしてないが、たまたま記録がなかっただけであると解釈するのも可能であり、1の場合、渤海使の滞在期間は必ずしも長くないため、機会がなかったという解釈も可能であるが、羽栗馬長などを越中国まで派遣して渤海語を学習させた理由は釈然とせず、種々の疑問は「渤海語は日本渤海間の外交使用語であった」という前提に発しており、この隘路を解くには「外交用言語として渤海語は中国語とどのような関係にあるのか」ということにつきる[80]。日本における外国語学習上の必要性或いは日本における外国語教授のあり方或いは日本語と渤海語が外交交渉において使用されていたことを示す史料が存在しないことから、中国語が渤海語よりはるかに上位に位置していたことは確実であるが、日本人官僚の渤海語学習がおこなわれたことや、長期にわたる日本と渤海の外交接触において、必然的に日本と渤海双方に日本語・渤海語に通じた者がでてきたことは疑いなく、正式の外交用言語でなくとも、日本と渤海の外交交渉や交流の場では渤海語が使用されている蓋然性も否定できない[80]。従って、「正式な日本渤海間の外交用言語としては第一に中国語が用いられた。ただし、時に応じて例外的に渤海語が用いられることもあった」=「中国語主、渤海語副」という原則が導かれる[80]

建国当初より、陸続きの隣国であるの影響を直接的・全面的に受けた渤海は、日本以上に中国語は身近であり、重要な言語であったとみられる[81]。日本渤海間の外交交渉において、日本側だけが中国語を外交用言語に使用したとは考えにくいことから、「渤海国側も中国語を用いた、渤海通訳も中国語を用いた」、即ち「日本渤海間の外交用音声言語は中国語であった」と考えざるをえない[81]。日本渤海間の外交交渉において、中国語が使用されていることは、8世紀から9世紀における日本と渤海の交流の言語面において中国語が圧倒的優勢であることを反映するものであり、当時の東アジア情勢は中国を中心に動いていたことから当然の帰結であり、現代国際社会において、英語圏以外の言語を異にする小国間では、しばしばば第三国の言語である英語が使用されるが、8世紀から9世紀における中国語と日本語・渤海語との関係は、現代の英語と英語以外の使用者の少ない系統のあい異なる二つの言語関係に例えることができる[81]

日本渤海間の外交交渉において、音声言語は第一に中国語、時として日本語・渤海語を使用したということと、書記言語漢文即ち中国語であることは矛盾せず、言語において音声言語と書記言語は表裏の関係にあるため当然であり、日本と渤海間における使用言語は中国語であるという結論に達し、書記言語が完全に漢文即ち中国語の領域に属していた8世紀から9世紀の日本・渤海・新羅の東アジア諸国における共通音声言語は中国語であると判断できる[82]。音声言語と書記言語は表裏の関係にあり、当時の日本や新羅のように、音声言語は自国語、正式の書記言語は原則として中国語(漢文)ということは有りうるが、あくまでも自国内に限り、中国文化圏の書記言語を同じくする国家相互間の交流において、書記言語は中国語、音声言語は各国語使用ということは一般的に考え難く[82]、日本と渤海間の使用言語が中国語であることを鑑みると、新羅は渤海と同様に唐に近接する唐の冊封国であることから、新羅と渤海間或いは新羅と日本間でも中国語が使用されていた可能性も有りうる[82]。『続日本紀』によると[注釈 8]新羅語も渤海語と同様にその学習は地方で臨時一時的におこなわれていたようにみられ、新羅語が外交用言語として広くは使用されていないことを示している[82]。これは、中央政府において新羅語は組織的・恒常的に学ばれたこともなければ、その通訳の常置もなかったこと、即ち、日本と新羅間の外交用言語も中国語であることを示唆しており、このことは8世紀から9世紀における東アジアリングワ・フランカが中国語であることを意味し、日本と渤海間の交流における第二言語が日本語・渤海語であると推察されることを鑑みると、東アジアにおける中国以外の国家間、即ち日本・渤海・新羅間においては、日本語・渤海語・新羅語なども時と場合において外交交渉において使用されていたと推察される[82]

日本朝廷は、第21回渤海使、第25回渤海使、第28回渤海使、第29回渤海使などに対して宣命を与えており、これは漢字で書かれているとはいえ、日本語文が外交文書に用いられたことを示している[83]。また、それは日本語音で読み上げられたはずであり、音声言語で外交用言語として日本語が実現されたことを示唆しているが、その程度の使用を、さらに、渤海使が内容を理解できたかどうかも定かではない宣命を、正式な外交用言語と呼ぶのはやや無理とみられる。なお、宣命に対応する漢字表記の渤海語文の存在の報告はない[83]

文字

渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族を統一していく手段として漢語の導入をはかったとみられるが、表記文字としては当時の東アジアで一般的であった漢字を利用しており、1949年に吉林省敦化県六頂山から発見された大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や1980年に延辺朝鮮族自治州和竜県竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主の墓誌などは優れた駢儷体の漢文で書かれ、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒なども漢文で書かれており、王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることから渤海人が漢字を熟知していたことは確実であり[84]、渤海の皇后、公主の墓誌は現在のところ4つ発見されているが全て漢文で書かれており、墓誌は墓碑と異なり、墓のなかに納めることから、文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけであり、それが読者として想定され、皇后・公主の埋葬にたちあう支配層が共通に読めるのが漢字・漢文であった[68]

上京遺跡から出土した文字瓦には、漢字を簡略化した渤海の文字が記録されているが、独自の文字の存在は確認されておらず、同時期にユーラシアで使用されていた突厥文字ウイグル文字、ソクド文字などが渤海で使用された形跡もなく[68]金毓黻は、上京遺跡の瓦に刻された文字を「その(字)体は、とくに異なっていて、海とかかわりがあると思う」として、「これは、日本の漢字の中に『辻』があり、化学の中に『鉀鉀(カリウム)』、『﨨(亜鉛)』などの字があるように、おそらく固有の漢字では用が足りない場合に、別に新しい字を作って、その不便を救ったのである」とし、渤海人自ら「漢字を補充」したとして、「もしこの少数の奇異な字があることによって、ついに渤海人が、別に新しい字を作り、漢字を棄てて用いなかったといえば、それはかえって人を誤解させることになる。契丹と女真は、ともに別に字を作った。しかし、後世にまで長く伝えることができず、したがって間もなくその字を使用しなくなってしまった。渤海は建国した後、唐の文教に染まって、漢字をよく用いたので、別に新しい文字を作る機会が少なかった。そこで契丹と女真を例とすることはできない」と指摘している[85]

エ・ヴェ・シャフクノフは、上京遺址の瓦にある文字を新羅の吏読の方法を採用して創作した独自文字であり、「(この文字は)中国人の漢字に比べて渤海人の言語規範と言語特質にいっそう適応し」、「広い渤海の都邑の民衆が各種貿易の契約や保証を結ぶ際、あるいは公文書にこれらの文字が採用された」が、「漢語と漢字とは主に宮廷内と官吏の狭い範囲でのみ使用された」と主張しているが、朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)は「残念ながら、エ・ヴェ・シャフクノフ氏の説は主観に基づく憶測を免れず、しかも何らかの証拠による自説の証明もできていない」と批判している[86]

各国の研究者は、この上京遺址の瓦に刻された文字について研究を進めているが結論は一致しておらず、現存史料では、国内外の各地で発見され、記録された渤海の文字瓦の文字は、1文字ずつ刻まれ、300字ほどになり、それらの少数の文字と符合を除くと、大多数の文字はみな正式な漢字であり、これらの漢字の大部分は今日使用されている漢字と同一である[87]。しかし奇異で見分けにくい文字がわずかにあり、最新の研究では、この少数の奇異で判読しがたい文字のうち、相当数が俗字と古字と略字であり、俗字では、「&#x#051;」が「興」とあるが、すでに321年の東晋の墳墓のには「&#x#051;」とあらわれているように実際は渤海人の発明した文字ではない[87]。古字では「佛」を「仏」とするが、『正字通』には「古文の佛字、宋の張子賢の言く、京口の甘露寺の鉄鑊に文有り。梁の天監に仏殿を造る」とあるようにこれも渤海人の創造ではなく、略字では「環」や「瓌」を「&#x#003;」と書き、また「鳥」を「」と書くなどの事例や字形が似ているために誤って書かれた文字もあり、「舍」を「舎」と誤った例、「計」を「」と誤った例、「男」を「」や「」と誤った例などがある[88]

渤海人が自らの言語の特殊音や必要性からいくつかの新漢字を作成し、本来の漢字を補充して渤海の言語表現に応えた可能性はあり、その事情は日本人が漢字を使用する過程で作成した特殊な漢字の場合とよく似ており、渤海の末期に日本を訪れた二人の使者は、各々「𪱶(⿴井木)」と「𬑽(⿴井石)」という名前であり、当時の日本はこの文字を理解できず、紀長谷雄は「未だ文字を知らずと雖も、呼びて云う。𪱶は、木ノヅブリ丸(まろ)。𬑽は、石ノザブリ丸(まろ)」と読み、「異国(渤海)の作字なり。当時の会釈を以て之を読む。神妙と謂うべき者なり。異国の人(渤海の使者)聞きて之に感」じたと述べており、まさに渤海人が新たに創造した文字であるが、これらの文字は漢字の系列下あるいはその範囲にある文字であり、これらの文字は他の漢字から離れて単独で使われることがなく、それらの文字を独立の文字とみなすべきでなく、渤海人が創造した本来の漢字を補充する漢字である[89]

ロシアのウスリースクで出土した突厥文字の石刻から、渤海には独自の文字があったとする主張もあるが、朱国忱と魏国忠は「これは真に『蟻を見て象と言う(針小棒大)』ような意見である。実は、その石刻は渤海に来て交易した回鶻人が遺したものである。渤海と回鶻の関係には限界があった。双方はともに領域を接することなく、また隷属・主従の関係もないのに、どうして渤海人が、このようなよく知らない、またいつも見ることのない文字を受容し使用できるのであろうか」と批判している[90]

姓氏

渤海の姓氏は、王家の大氏を含めて57姓であり、渤海の姓氏の構造は、まず渤海王族の大氏、その次は中原から流れた漢人豪族右姓、さらに靺鞨と一部の高句麗貴族の右姓、最後に漢化した靺鞨平民と高句麗平民と中原から流れた漢族平民の庶姓からなり、渤海の姓氏は靺鞨、高句麗、漢族の姓氏からなる[91]。渤海人の姓名には、形容美、叡智への祈願、徳性美への追求、福禄寿への憧憬、儒学仏教への尊崇がみられ、中国の影響を受けている[91]

渤海王国の完成は官制ととどまらず、王都に居住する人々の姓名をも唐風化させ、その変化は王族から臣下の上層部、そして下部から地方社会へと浸透した[92]。姓ばかりでなく、名が靺鞨の固有語音からそれを漢字の好字を採用して、漢訳するか意訳した三文字の姓名に改まった。大祚栄の父の名は乞乞仲象とその音を漢字表記されたが、則天武后から震国公に封ぜられると「大」の姓を名乗ることになり、子の大祚栄はみごとに唐様の姓名である[92]。しかし、まだ名のみは靺鞨の固有語音を守る傾向は消えておらず、大武芸の嫡男は大都利行中国語版といい、都利行とは靺鞨の固有語音であり、大武芸の大臣の味勃計(722年)、大武芸の弟の大昌勃価中国語版725年)などは、まだ固有音の漢字表記の傾向がみられる[92]。この傾向は王族を筆頭とする社会の上層ばかりでなく首領層にもみられ、大首領の烏借芝蒙(725年)や使者の烏那達利(730年)は、烏という靺鞨にみられる一文字姓であるが、名の借芝蒙や那達利のように未音の蒙や利をもつ人物が靺鞨諸族の遣唐使にしばしばみられたように、名にはいまだ固有性を残していた[92]。しかし、741年に渤海の遣唐使の失阿利が黒水靺鞨の阿布利とともに入唐して以後は固有色のある人名は遣唐使のなかにみられず[92]渤海人特有の姓名は消え、唐様の姓名へと統一される[91]

松漠紀聞』にみえる金初の渤海人社会に関する記事に、旧王族である大氏の他に有力氏族として高氏、張氏、楊氏、竇氏、烏氏、李氏の六氏が挙げられている。一方、渤海が存在した同時代の諸史料に登場する有力氏族の姓氏は、最も多いのが大氏、次いで高氏、李氏、王氏、烏氏、楊氏、賀氏と続くが、『松漠紀聞』にみえる張氏と竇氏が渤海時代にはほとんどみえず、渤海時代に多い王氏は『松漠紀聞』に登場しない[93]。張氏は、『金史』張浩伝に本姓は高であり、張浩中国語版の曾祖・張霸の時にに仕えて張氏に改めたことが記されており、金代に活躍した張氏はもとは高氏を称しており、渤海時代に張氏が登場しないのも不思議ではない[93]。竇氏について、金毓黻は『渤海国志長編朝鮮語版』において、渤海時代に比較的多くみえる賀氏の誤りである可能性を指摘している。王氏は、王庭筠をはじめ、金代にも有力氏族として存在するが、王庭筠の墓誌にその祖が太原王氏出身であると記されているように、金代においては渤海人というより漢人として意識されていたために、『松漠紀聞』は、王氏を渤海の有力氏族のなかに数えなかった可能性がある[93]。有力氏族が中国風姓名をもって史料にはじめて登場するのは高氏および李氏が大武芸時代、王氏・烏氏・楊氏が大欽茂時代であるが、大欽茂時代に渤海の支配領域がほぼ定まり、中国文化および中国の制度を導入して国家体制を整備し、かかる状況下で支配者層は中国風の教養を身に着けるとともに中国風姓名を称するようになる。同時期に有力氏族以外で中国風姓名をもつ者は少数であることから、有力氏族のもつ中国風姓名は権威の象徴、あるいは唐の貴族制では、姓によるランク付けがおこなわれており、渤海においてもそれが意識されていた可能性がある[93]

首領

史料の乏しい渤海史研究にとって、国家構造社会構造の解明は至難であるが、注目されるのは、『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条の記事である[94]

渤海国者、高麗之故地也。天命開別天皇七年、高麗王高氏、為唐所滅也。後以天之真宗豊祖父天皇二年、大祚栄始建渤海国、和銅六年、受唐冊立其国。延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。俗頗知書。自高氏以来、朝貢不絶。 — 類聚国史、巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本後紀/卷第四

類聚国史』殊俗部・渤海上に『日本後紀』編者が渤海初期の粟末社会を首領中心に描く記事があり、『続日本紀』の引く渤海使に託した渤海への外交文書に、相手を渤海国王に次いで「官吏・百姓」または「首領・百姓」とする表現などにより、「首領」と呼ばれる存在とその配下の大多数の「百姓」を基礎とした渤海社会の成り立ちが分かる。石井正敏は、『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条記事が『日本後紀』の逸文であること、その編者による渤海新出の条における沿革記事であることを明らかにしたが、この記事は、渤海建国年を決定する情報が含まれているだけでなく、渤海の地方社会構造が記され、渤海史研究にとって最重要史料の一つである[94]。しかし、その読解は難しく、とりわけ「其下百姓皆曰首領。」の一節が難解なため、多くの研究者が読解に挑戦、様々な首領論を展開している[94]。「大村曰都督、(大村は都督と曰い、)、」以下の解釈は意見が分かれており、一つは李龍範(朝鮮語: 이용범東国大学)および金鍾圓(朝鮮語: 김종원英語: Kim Chong-won釜山大学)の解釈であり、大村(長官都督) - 次村(長官刺史) - 其下(長官首領)の三級から成る地方行政組織を説明したものとするが、最後の部分の解釈は、李龍範は、其の下の百姓の長を首領と呼んだと解し、金鍾圓は、其の下の長を百姓が首領と呼んだと解す[95]。もう一つは朴時亨および鈴木靖民の解釈であり、大村 - 次村の二級であり、「其下百姓曰首領。」は、それらの治下にある百姓が都督、刺史を総称して首領と呼んだと解するが、鈴木靖民は、この記事以外の渤海使関係史料から都督、刺史の下位の地方長官として首領が存在することを論じており、この点は李龍範および金鍾圓と意見を同じくする[95]

渤海史研究者は、唐代史料の周辺諸国および周辺諸民族関係記事に頻出する「首領」の用例から、「中国から四夷の首長層を指す語」「いわゆる王にあたる一国・一種族の首長か、それにつぐ有数の首長層ないし政治的支配層を指す中国王朝側の用語であり、かれらは中国からよりその支配領域を府や州として認められ、そのまま都督・刺史に任命される存在[96]」「中国の正史の四夷伝や『冊府元亀』外臣部にはしばしば首領なる呼称が見られるが、これは異民族の長に対して中国側が附した一般的な名称であり、これは渤海あるいは靺鞨に限らない[97][注釈 9]」という理解をしてきた[98]

727年、最初の渤海使が上陸地で大使などを失い、平城京に入った時の代表は「首領」であり、841年の渤海使の構成を宮内庁書陵部蔵壬生家文書の中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)写しにみると、105人中「首領」(大首領)が65人と半数を超え、716年以後の唐への「朝貢使」にも「首領」(大首領)がしばしば加わっている[99]:4。「首領」とは渤海の固有語ではなく国際語としての漢語であり、渤海各地の多様な集団の支配者を指すが、地域集団の多数の住民を組織し、生産物を管理分配して統制し、渤海国に服属して以後も生産経済活動の維持を主とする伝統的な支配秩序をそのまま承認され、外交・交易にも関わったとみられる[99]:4824年藤原緒嗣が渤海使の本質を「実にこれ商旅」と非難して以後は、派遣を12年に1回と制限したが、その後も一行の過半数を首領が占めており、首領たちは自らの支配地で獲得した毛皮などの特産物を交易品として携え、上陸地の北陸など日本海側平城京あるいは平安京の客館などで公私の交易をおこなっており、日本から渤海へ贈られた「回賜品」の大半は首領に与えられることが規定されていたた(『延喜式』大蔵省)[99]:4。渤海から唐への遣唐使は、王族、首領、臣・官吏に分けられ、うち首領(大首領)は8世紀前半までで、以後姿を消すが、この変化は渤海の靺鞨諸部族支配の拡大過程と対応関係にあり、首領たちは地方官制の整備にともない、レベルの官吏への身分上昇を遂げた。渤海は朝貢の最初期から唐に「就市=公的交易」を要請し、毎年、での名馬の交易、鷹鷂の歳貢、王子らによる熟銅の交易などの交易本位の外交を続けたが、その主要な担い手が首領層である[99]:5。渤海政権は首領層の盛んな生産・流通機能を対外的交易活動に包摂、利用し、首領を頂点とする社会秩序・社会経済的組織をもとに、中華式の支配機構や律令制を組み合わせて国家の骨格をつくり、渤海は首領層が荷った交易活動を外交との絡みで活用した国家という一面を特質として指摘できる[99]:7

浜田耕策は、首領とは「種族の頭」の意味に解釈され、種族の構成員間には、擬制的血縁関係を紐帯として結合されていたと推測し[100]、首領にはそれぞれの種族に固有の語音の名称があり、これが中国の統治者や記録者からみれば、「首領」と漢訳される[100]。「首領」の種族語音を音写して種族固有の音を残した表記では、靺鞨諸族の後身に当たる契丹の語音では、「舎利」がこれに相当し、契丹の歴史を叙述した『遼史』巻一一六の「国語解」の「舎利」とは「契丹の豪民の頭巾を要裹する者、牛駝十頭、馬百疋を納むれば乃ち官を給す、名づけて舎利という」とある「舎利」であり[100]、『五代会要中国語版』巻三十・渤海には渤海の建国の祖たる乞乞仲象を「大舎利乞乞仲象」と記録し、舎利とは首領を意味する靺鞨語の音写表記であり、『冊府元亀』巻九七五には、741年2月越喜靺鞨の「部落の烏舎利」が唐に賀正使として派遣されたと記録され、『冊府元亀』九七一にも「其部落与舎利」と記録されており、『新唐書』巻四三下の地理志には、安東都護府に統括された九都督府の一つに舎利州都督府があり、『契丹国志』巻二にも「舎利萴刺」や「萴骨舎利」などと、人名の接尾や接頭にあらわれており、舎利は靺鞨に広くみられる種族語の音写であることが頷ける、と指摘している[100]。これに対して河内春人は、舎利を渤海の在地首長である首領と同音異字であるとする見解があるが、唐は、首領という語句を新羅[注釈 10]および国内の地域集団指導者[注釈 11]に対しても用いており、「舎利」を中国人が「首領」と書きとったとするのは難しい、と指摘しており、『遼史』国語解には、「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。[101]」とあり、契丹に属して家畜を一定数納める者に舎利を授けられたことがわかり、『資治通鑑』長興三年三月条には、「有契丹舎利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称」とあり、舎利は契丹における軍事指導者であることがわかり、契丹や靺鞨において首長を指す言葉は、唐初までテュルク語勇者をあらわすバガトルからくる「莫賀弗」「莫弗」「瞞咄」であり、「莫賀弗」が軍事指導者の意味を有し、舎利も軍事指導者であるならば、同一階層である蓋然性が高く、「莫賀弗」と「舎利」が同一階層であることを示す史料は存在しないが、唐初まで「莫賀弗」と称された首長は、その後、政治的整備から「舎利」という官を有するようになったと考えたい、と述べている[102]

渤海の生業は、高句麗および南部靺鞨は農耕、北部靺鞨諸部族は狩猟が中核であり、北部靺鞨諸部族地域は、『類聚国史』沿革記事にみえる、中央から派遣される支配層「土人」と一般民衆である靺鞨とがわけられ、間接支配がおこなわれていた[103]。こういう形態の場合、「土人」と靺鞨が同族意識をもって融合するのは難しく、渤海建国以来の支配層である高句麗人および南部靺鞨が融合することは有りえても、被支配層である北部靺鞨と高句麗人および南部靺鞨は融合せず、北部靺鞨から反発があった場合、渤海は分裂しかねないが、そのような事態は渤海末期まで発生しておらず、それは、渤海支配層が被支配層である北部靺鞨諸部族の支持を得ていたからであり、「首領制」という渤海独自の在地支配方式に要因がある[103]。「首領制」という用語をはじめて使用したのは鈴木靖民である。鈴木靖民は、首領は靺鞨諸部族の「部落」と呼ばれる地域に割拠する在地首長であり、伝統的な旧来の在地支配権をそのまま承認され、部落成員たる「百姓」を統属、かつ地方官人をはじめとする官僚や外交使節随員にもなった、と理解した。換言すれば、渤海王権は、靺鞨諸部族を支配するにあたり、その在地社会を解体することなく、在地首長を「首領」と名づけて支配権を認め、「首領」を官僚や外交使節随員という形で渤海国家のなかに包摂、国家的に再編成することにより、はじめて人民支配を貫徹することができたのであり、渤海は首領層を媒介にして靺鞨の人々を間接支配し、首領層も利益維持のために呼応した、と考えた[104]鈴木靖民は、こうした渤海国の国家および社会を特徴づける首領の特有のあり方を媒介とした、間接支配体制を「首領制」と呼ぶことを提唱した[103]。河上洋は、高句麗の城支配体制のあり方と『類聚国史』沿革記事にみえる渤海社会のあり方との類似性を指摘し、渤海の地方支配体制は高句麗と継承関係にあると考え、高句麗の在地首長の官「可邏達」が渤海の「首領」に相当すると推定し、渤海は在地勢力を解体することなく、在地勢力に依拠して支配を及ぼしたと主張した[104]。大隅晃弘は、鈴木靖民と河上洋の渤海の在地支配体制理解を支持し、渤海の靺鞨支配の進展と「首領制」の成立を関連づけ、唐あるいは日本との交易によって得られる首領の利益の大きさを指摘し、渤海が交易を独占したうえで首領をその利に与らせたことが渤海王権の支配貫徹の主要因であったとの見解を示した[104]石井正敏は、承和九年来日渤海使がもたらした咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)には、渤海使一行105人の内訳を明記してあり、「使頭(大使)一人、嗣使(副使)一人、判官二人、録事三人、訳語二人、史生二人、天文生一人、大首領六五人、梢工二八人」とあることから、大首領は、小首領といったものとの対称ではなく、首領の美称であろう、と指摘しており、その65人という数値が渤海の州数と一致することから、鈴木靖民は「(首領)支配下の土地からの産物が(日本への)朝貢物となって徴集されたのではなかろうか」「首領が一州につき一人といった割合で選抜され」たのではなかろうかと論じている[105]李成市は、「首領とは、渤海領域内の靺鞨諸部族の中でも在地社会に支配者として君臨する者たちで、渤海王権は彼らを包摂し、これを国家的に再編することによって集権的な支配を可能にしていたと推定されている」と指摘しており、首領が日本への遣使に参加していた背景には、元来、靺鞨諸部族はそれぞれ単独で唐あるいは新羅などの周辺諸地域と交易をおこなっていたが、8世紀半ば以降、靺鞨諸部族は渤海王権に包摂され、対外活動を停止したが[106]、渤海王権に包摂された靺鞨諸部族の活動は渤海の対外戦略に拘束されざるを得なくなり、さらに、渤海は8世紀以降、一貫して新羅とは敵対戦略をとり、新羅との通交を途絶したことにより、狩猟漁撈を生業とし、遠隔交易に従事していた靺鞨諸部族の行動を著しく狭め[106]、地域的に新羅と隣接する南部の靺鞨諸部族にとって、新羅との交易は歴史を有する活動であり、これを補うかのように渤海は、靺鞨諸部族を積極的に唐あるいは日本への遣使に参加させることにより、靺鞨諸部族の従前の権益を保証した、と主張している[106]。金鍾圓(朝鮮語: 김종원英語: Kim Chong-won釜山大学)は、『類聚国史』の記録を在唐学問僧永忠の見聞録の一部とし、高句麗遺民が比較的多い地域では州県制が施行されていたであろうが、靺鞨族が集団で居住する地域では部族制(部族自治制)が施行されていた、とみた[107]。金東宇(朝鮮語: 김동우国立春川博物館英語版)は、渤海の首領を地方官、官僚、そして遣日使の下級随行員の三者に区分し、宣王大仁秀以後、下級随行員のように首領の地位が下落した理由は、中央の首領は政治制度が次第に整備されるにつれ、首領の称号に代わり別の官職名や官爵名で呼ばれ、地方の首領は、その独立的地位に以前よりも制約が加わったからだとした[108]。宋基豪(朝鮮語: 송기호英語: Song Ki-hoソウル大学)は、渤海の首領は中央政府から官職や官品を受けない勢力で、独自性を強く維持していた在地支配者であって、官職体制外にあったとみた[109]。朴真淑(朝鮮語: 박진숙忠南大学)は、首領は現地人である都督と刺史のもとに置かれた存在であって、地方民を統治する一定の権利を付与された地方の末端官吏とし、都督・刺史および県丞と同じく、首領もまた中央より任命されたであろうとみた[110][111]朴時亨は、百姓は「一般にいう庶民」であり、首領は「特別な現任官職のない、いわば後世における朝鮮の『両班』にあたる」と主張している[112][113]。張博泉と程妮娜は、百姓のなかにあって、土人と靺鞨人の地位には差があり、「首領」とは、氏族長あるいは部落長を指し、都督および刺史とは、「首領」の上位の地方長官のことであり、一般に都督および刺史らは品階身分の貴族であった、と指摘している[114][115]

李成市は、渤海を独自のエスニック・アイデンティティ(民族意識)をもつ高句麗人と靺鞨からなる多民族国家とする見解を示したうえで、渤海は、従来より独自の対外交易をおこなっていた靺鞨諸部族を包摂するにあたり、独自外交を遮断する代わりに、在地首長である首領を渤海の対唐および対日使節団に恒常的に参加させることにより、対外交易の便宜および安全を供与して靺鞨諸部族を懐柔し、靺鞨に対する対外通交の管理こそが渤海の国家支配の要諦であるとし、対外通交は単に経済的行為であるばかりか政治支配の根幹に関わり、渤海の対日遣使団である渤海使760年代を境に経済目的化しているようにみえるのも、こうした渤海の靺鞨諸部族支配のあらわれであると主張した[104]李成市の「首領制」は、渤海の北部靺鞨諸部族支配の進展と渤海使の経済目的化の時期とが重なること、渤海使の使節団の過半数を首領が占めており、日本からの回賜総量の半分以上が首領にわたること、狩猟および漁撈民はその生産物を農耕民との交換の必要性があることから交易民でもあること、渤海と同様に東夷諸族の世界に建国した高句麗および新羅も多民族状況を有し、自律性のある諸民族を統合する原理として中国文明を導入したこと、日本海側の靺鞨がその前身の一つである以来の遠隔地交易民であること、渤海国の衰退期に新羅国境付近の靺鞨が独自に新羅との交易を求めたこと、渤海滅亡後における旧渤海領域の女真族高麗王朝と活発に交易したことなどを根拠としており、この仮説に従うならば、渤海は交易保証ができている間は、北部靺鞨諸部族の安定支配ができたことになる[103]古畑徹は、「首領制を基礎とする多民族国家としての渤海という捉え方は、この地域における民族と国家のあり方の歴史的変遷のなかに位置づいていて、非常に説得力のあるものになっている。いいかえれば、渤海の首領制は、李氏によって東夷諸族の大きな歴史の流れのなかに位置づけられたことで、渤海の国家社会を理解するうえでの最も有力な仮説に成長したと評してよかろう」と述べている[104]

石井正敏は、「其下百姓皆曰首領」を「其ノ下ノ百姓ヲ、ミナ首領ト曰フ」と訓じて、「百姓」を百官=役人の意とし、都督・刺史という村長の下の役人=靺鞨人首長を首領と総称した、という解釈を提示し、首領制を支持している[116]。一方、李成市が強調する在地首長自体が渤海使の一員となって来日したとすることには否定的であり、渤海使の史料に登場する首領は、日本の遣唐使でいえば、知乗船事、造舶都匠、船師、水手長、船匠柂師挟杪射手などに該当し、幹部クラスより下の下級役人の総称と解し、首領は在地首長層の総称だけでなく、中央政府および地方政府をとわず下級官人層の汎称ではないかという理解を提示しており、首領の国家交易団への再編を渤海の国家支配の要諦とみなす首領制論には批判的である[116]古畑徹は、「この石井氏の論理展開は確かに見事であるが、氏自身が述べるように、日本では『百姓』の語は一貫して普遍的被支配身分の呼称として使用され、役人の意味に解する同時代事例がないという大きな欠陥が存在する。石井氏は『類聚国史』渤海沿革関係記事の『百姓』を渤海における用例とみる可能性も指摘するが、日本の人々に対して渤海の『首領』を解説する文章に渤海独自の用語が使われ、これについて何の説明もないというのはいかにも不自然である。その意味で、この石井氏の解釈も未だ決定打とはいえない」と評している[116]

森田悌は、「首領」について、二度にわたって論じているが、前説と後説では見解が異なり、前説は、咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)にみえる「六十五人大首領」記事から、首領を渤海使水手と解し、水手は一般に百姓=庶民であることから、首領はその本義を離れ、渤海内で百姓クラスを指す用語に変質したと考え、「其下百姓皆曰首領」記事を、「ソノ下ノ百姓ヲ皆、首領ト曰フ」と訓じ、百姓=首領と解し、換言すれば、百姓=一般庶民説であり、首領制論とは対立する[117]。後説は、「其下百姓皆曰首領」記事を、百姓=首領と解する見解は維持するが、渤海に編戸制がおこなわれており、複数の自然家族から成るを統率する戸主は庶民階層に属することを根拠にして、首領=戸主という新見解を提示し、戸口部曲および奴婢が属する大組織と解し、官吏と解さない点を除けば、首領=戸主説は首領制論の社会構造に近い[117]。また、咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒における首領の解釈にも若干の変更を加え、水手をはじめ船内諸役に従事する者という見解を示している[117]古畑徹は、前説を「『大首領』を水手と解する点などに問題が残り、渤海史研究者の大方の賛同は得られなかった」、後説を「首領=戸主説と船内諸役に従事する者との関係が不明瞭で、論理自体にわかりにくい点が多く、依然として渤海史研究者からはほとんど賛同が得られていない」と評している[117]石井正敏は、「そもそも首領=水手とすることに問題があるのではなかろうか。すなわち遣日本使の首領を水手とすると、明らかに船員を意味する梢工がすでに二八人も乗り込んでいるので、一行一〇五人のうち九三人(約九割)もが操船関係者で占められてしまうことになる。非官人層が九割を占める国家使節というものが考えられるであろうか。首領をすべて民間から徴用された水手とすることには疑問がある」と評している[105]

渤海は、在地社会の部落長を「首領」に任命、在地社会の部落の中心となる大規模部落に都督あるいは刺史中央から派遣、統轄したとみられるが、河上洋は、渤海は領域支配にあたり、およびをおいたが、これは高句麗の城支配を継承しており、行政機構であると同時に軍団組織でもあり、その基礎は靺鞨の部落あるいは高句麗の城邑であり、渤海の府および州は、中国とは異なる部落および城邑そのものであり、渤海の在地の首長層は「首領」を与えられることにより、在地社会における支配権を認められ、渤海の支配体制に組み込まれた、と主張しており[118]、高句麗の地方統治組織と渤海の地方統治組織の類似性を指摘している。高句麗の地方統治組織は、大城 - 城 - 小城から成り、大城と城には中央から各々褥薩朝鮮語版、処閭近支が長官として派遣されているが、『類聚国史』に記されている渤海の地方体制と比較した場合、大城(長官=褥薩朝鮮語版) - 城(長官=処閭近支)の関係は、そのまま大村(長官=都督) - 次村(長官=刺史)の関係と相似しており、さらに、中国史料では、高句麗の褥薩は都督に、高句麗の処閭近支は刺史に比定しており、このことも褥薩、処閭近支と渤海の都督、刺史が同様の性格であったことを示している、と主張している。河上洋は、「刺史から下の対応関係ははっきりしないが、高句麗の小城におかれた可邏達が渤海の首領に、縣令に比定された婁肖がそのまま渤海の縣令に当てはめられるのではないか。ただそうすると高句麗の可邏達は長史に比定されているから、渤海においては中国風に長史とすべき官にわざわざ首領なる呼称を当てているのが問題になる。一つの解答として、これは都督、刺史が高句麗人であるのに対し、在地の首長層の多くが靺鞨人から成ることの反映と考えられる。つまり、種族の相違からそのまま長史とはせずに先に述べた中国での用例を意識して首領という呼称を附したのだろう」と主張している[119]。また、河上洋は、唐の第一次高句麗出兵において、唐は高句麗の白巖城朝鮮語版を降した際、城をそのまま巖州として州の刺史に白巖城主である孫伐音を任命しており、高句麗滅亡後、大城 - 城 - 小城から成る高句麗の地方統治組織はある程度は温存されていたのではないか、と推測し[119]、高句麗人住地における大城 - 城の関係にあたる靺鞨人住地の大村 - 次村の関係について、靺鞨の各部落には各々部落長がおり、独自活動をおこなっていたが、なかには、突地稽中国語版を長とする厥稽部のような軍事行動の際に他部落を統率する有力部落が存在し、渤海はこうした有力部落に都督あるいは刺史を派遣して周辺の小部落を統轄させ、靺鞨の部落長に「首領」与え、都督および刺史の指揮下におき、高句麗の城支配体制を継承した渤海は城支配体制を靺鞨の住地に対しても及ぼしたのではないか、と指摘し[120]天顕元年三月に契丹康黙記韓延徽蕭阿古只などが渤海の長嶺府中国語版を攻略し、それについて、『遼史』巻七三・粛阿古只伝は、鴨淥府から七千の兵が派兵され、契丹軍と交戦したことを記しており[注釈 12]、渤海の府および州が各々独自の軍団を組織していたことが窺える、としている[121]

金毓黻は、「首領、為庶民之長。亦庶官之通称也。謹案、日本逸史謂渤海都督・刺史以下之百姓、皆曰首領。百姓者別於庶民。金代有猛安千夫長・謀克百夫長之制。即以軍制部勒庶民而為之長。渤海之首領制、即猛安・謀克之制之所自出也。出使鄰国大使以下之属官亦有首領。其位次在録事・品官之下。亦与金代之謀克相等。故首領者亦庶官之称也。」と述べており[122]、「百姓ハ庶民トハ別ナリ」とし、「大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。」の一節は、「都督・刺史の下の百姓をみな首領と曰う」と理解している。そして、「百姓者別於庶民」は、「庶民之長」としていることを参考にすれば、百姓は基本的に庶民の意味であるが、『類聚国史』記事の百姓はただの庶民ではなく、庶民のなかから選ばれて庶民を統轄し、地方支配機構の末端に連なる者であり、首領と呼ばれた、の意味と理解しており、『類聚国史』記事の百姓=首領=庶民の長となる。また、首領は遣外使節の下級の役人などにもみえることから「庶官之通称」であるとし、金代の社会組織・軍事組織猛安・謀克の祖形としている[112]


  1. ^ 朱・魏 1996, p. 248朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)は「文献に記録されている言語は未詳であって、その全体を究明することは難しい。わずかに『新唐書』渤海伝および『旧五代史』渤海靺鞨などの史書に、渤海では王を『可毒夫』と呼び、王に対面する時は『聖』と呼び、上表する時は『基下』と書くとあるが、この『聖』は明かに漢語からの借用語である。ソ連(ロシア)の学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、『可毒夫』とはおそらく満洲語の『卡達拉』(管理するの意味(ᡴᠠᡩ᠋ᠠᠯ᠊/kadala-))やナナイ語の『凱泰』と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う。また、渤海人と靺鞨人の名前には最後に『蒙』の字の一音節を持つ『烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙』などの例がある。この『蒙』の音は靺鞨語の中で重要な膠着語尾の一つであることが知られる。ツングース語系の各民族は氏族を『木昆』『謀克』と称するが、『蒙』の音が『木』や『謀』の音と近いことを考えると、この『蒙』の音は、その人が属する氏族を表す音節であろうと推測できる。当時、靺鞨語が国家の公用語であり、広汎に使用されていたことは間違いない」と述べている。
  2. ^ 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42頁。"八一〇年(弘仁元)五月、帰国を目前にした渤海使の一員であった首領の高多仏が使節団から一人離脱して、越前国にとどまることになった。いわば亡命である。高多仏はその後、越中国に移されて、史生の羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習することになったが、この高多仏が教習した渤海語とは、いったいどのような言葉であったのだろうか。『新唐書』渤海伝に、「俗に王を謂いて、可毒夫と曰う。聖主と曰う。基下と曰う」と、王の俗称、つまり固有の呼び方があったことを伝えている。このことは渤海には、独自の言語が存在したことを示しているといえよう。そもそも言語と密接な関係にあるのが民族であるが、渤海は高句麗の遺民や粟末あるいは白山靺鞨などを糾合して樹立された多民族国家である。とすればまずは高句麗語が話されていたことは想像に難くないが、粟末靺鞨や白山靺鞨の前身ともいうべき挹婁や勿吉について、『魏志』東夷伝挹婁条には、「その人の形夫余に似る。言語、夫余、句麗と同じからず」とあり、また『北史』勿吉伝にも「勿吉国は高句麗の北にあり。一に靺鞨と曰う。…言語、独り異なる」とあることから、靺鞨の言語は周辺諸民族ときわだって異なっていたのであろう。したがって靺鞨諸部もその構成民族とする渤海では、靺鞨語が話されていたことになる。しかも渤海が領域を拡大していく過程で、越喜や鉄利・払涅などの北方の靺鞨諸部を征服し多くの部族を内包しており、靺鞨語とはいえ、地域や伝統によって差異、つまり方言などもあったものといえよう。いわば渤海は、高句麗語をはじめ多様な靺鞨語が話される多重言語の世界であったのである。以上のような理解に立つならば、在地の首長である首領の高多仏が教習した渤海語とは、こうした靺鞨語ではなかったかと思われる。"。 
  3. ^ a b 波戸岡旭『渤海国の文学—日渤応酬詩史概観』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、67頁。"渤海国は靺鞨族を主体とし高句麗人・漢人・突厥人・契丹人・室韋人・回紇人など多くの民族がいたらしいが、建国当初は靺鞨語を公用語とした。しかし政治機構をはじめとしてもろもろの制度・文化が唐風化されて行くうちに、漢語が公用語となっていった。また、渤海は高句麗の文化・文学を継承したが、高句麗の文化・文学はすでに唐風化されていたものである。そして更に渤海建国の後も唐風化されつつ大いに栄えた。但し、大使に文官が任命されるようになったのは、第六回朝貢使からである。"。 
  4. ^ a b 上田雄『渤海使の研究』明石書店、2001年12月27日、126頁。ISBN 978-4750315072。"可毒夫について、朱国忱・魏国忠の『渤海史』では『ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、「可毒夫」とはおそらく満州語の「卡達拉カダラ」(管理するの意)やナナイ語の「凱泰カイタイ」と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う』と紹介している。また石井正敏は可毒夫とは『仏陀の対音であろう(稲葉岩吉『増訂満州発達史』)とする見解もあるが、あるいは全くの憶測に過ぎないが、原語で「大王」のごとき意味をもっていたものではなかろうか。識者のご教示をまちたい。』と、している。"。 
  5. ^ 劉毅『渤海国の族源について-中国・日本・朝鮮関連史料の考察-』國學院大學〈国学院雑誌〉、1997年7月、60頁。 劉毅(遼寧大学)は「渤海国の風俗について、『新唐書』渤海伝に、「俗謂王曰可毒夫、曰聖王、曰基下。其命爲教。王之父曰老王、母太妃、妻貴妃、長子曰副王、諸子曰王子。」とあり、王を可毒夫と称する風俗のあることが知られる。この可毒夫と呼ぶ用語については、ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)氏の研究によれば、可毒夫とはおそらく満州語の卡達拉(管理するの意味)や、ナナイ語の凱泰(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、この可毒夫を仏陀の対音であろうと説く学者もある。いずれにしても、可毒夫と呼ぶ用語が朝鮮についての歴史文献である両唐書の高句麗伝、百済伝、新羅伝には、見られないことは事実である。これこそ、渤海人の出自が高句麗人ではなかった反証であろう」と述べている。
  6. ^ 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42-43頁。"八七三年(貞観一五)五月に、肥後国天草郡に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、大宰府の遣わした大唐通事の張建忠の取り調べを受け、渤海の入唐使であることが判明した。このことは崔宗佐らが、唐語=漢語を話せたことを示している。もっとも崔宗佐らは入唐使であるから、唐語を話せたのは当然ともいえるが、渤海人が唐語を話したことの微証にはなるであろう。また一九四九年に吉林省敦化県の六頂山から発見された渤海第三代王大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や、一九八〇年、延辺朝鮮族自治州和竜県の竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主墓誌などをみると優れた駢儷体の漢文で書かれていることや、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒などが漢文で書かれ、また王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることを想起すると、渤海人が漢字を熟知していたことは確かである。もとより漢字を使用していたことが、ただちに唐語を話し言葉として使っていたとはいえないが、渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族や民族集団を統一していく手段として、漢語の導入をはかったのであろう。日本へ派遣された渤海使たちも、唐語で日本人と意思の疎通をはかっていた。だからこそ春日宅成や伊勢興房、また、大蔵三常のように、豊かな在唐経験に裏打ちされた唐語に秀でた人物が渤海通事に任じられたのである。"。 
  7. ^ 古畑 2017, p. 89-90 古畑徹は「渤海が国家の意思を表現し、記録を遺すのに使用した文字は、漢字である。独自の文字の存在は確認できないし、同時期にユーラシアで使用されていたほかの文字(突厥文字、ウイグル文字、ソクド文字など)が国内で使用された形跡もない。記録を残すのに漢字が使用されたことを証明するのが、墓誌である。渤海の墓誌は、現在、四つ発見され、いずれも皇后・公主のもので、漢文で書かれている。墓誌は、墓の外に立てる墓碑と違い、墓のなかに納めてしまう。そのため、その文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけで、それが読者として想定されている。ということは、皇后・公主の埋葬に集まる支配層の人々が共通に読めるのが、漢字・漢文だったということである。文字文化という点でみれば、渤海が漢字文化圏に属すことは明白である。それだけでなく、渤海の支配層は漢語で会話ができたとみられる。それを窺わせるのが、日本と渤海との外交交渉の共通言語が漢語だった点である。日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され、通訳をした。この渤海通事の使用言語が漢語であり、渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した。そもそも渤海を構成する高句麗人や靺鞨諸族は、それぞれ独自の言語を有しており、渤海は多重言語世界であったとみられる。このような場合、優位性を持つ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を相互の意思疎通のための共通言語にすることもある。渤海の場合、建国集団は、唐領域内に居た高句麗人・靺鞨人の混成集団であったから、その指導層は漢語が話せたはずで、これを異なる種族間の意思疎通に使っていたと思われる。そのあり方が、その後の多様な種族の吸収にあたって有効に機能し、そのまま継続したのであろう。一方、渤海に独自言語が存在したことも、『日本紀略』弘仁元年(八一〇)五月丙寅条に、越中国の史生と習語生を渤海人高多仏に師事させて『渤海語』を習得させたという記事があるから、間違いない。ちなみにこの高多仏は、渤海使の一員として来日したが、脱出して日本に残り、越中国に安置された者である。ともかくも、渤海には、漢語と『渤海語』という二種の共通言語があったと想定され、なかでも漢語は支配層による公用語的位置にあったとみられる。漢語には当時、異なる言語を話す渤海領域内の人々を納得させるだけの権威があったのであろう」と述べている。
  8. ^ 浜田 2000, p. 127-128 浜田耕策は「渤海の遣日本使の一行は、日本側との意思疎通のために、文字言語では漢文の外交文書等を交換していた。しかし、音声言語はどうであったか、交渉記録にはこれに関する言及はない。双方の音声言語になんら支障がなかったかのようである。そこに通事が仲介して中国語で対話したからであろう」と述べている。
  9. ^ 元来は700年建国説が有力であったが、鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。
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  121. ^ 河上洋 1983, p. 212
  122. ^ 金毓黻『渤海国志長編』文海出版社、681頁。 
  1. ^

    官有宣詔省、左相、左平章事、侍中、左常侍、諫議居之。中台省、右相、右平章事、内史、詔誥舎人居之。政堂省、大内相一人、居左右相上;左、右司政各一、居左右平章事之下、以比僕射;左、右允比二丞。左六司、忠、仁、義部各一卿、居司政下、支司爵、倉、膳部、部有郎中、員外;右六司、智、礼、信部、支司戎、計、水部、卿、郎准左;以比六官。中正台、大中正一、比御史大夫、居司政下;少正一。又有殿中寺、宗属寺、有大令。文籍院有監。令、監皆有少。太常、司賓、大農寺、寺有卿。司蔵、司膳寺、寺有令、丞。冑子監有監長。巷伯局有常侍等官。(『新唐書』渤海伝)
    官職(は次のようになっている)。宣詔省には左相(長官)・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中台省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、(その下に)左右司政が各一人、左右平章事の下に配置される。これは(唐制の左右)僕射に相当する。左右允は(唐制の)二丞(左丞と右丞)に当たり、左(允)六司は忠・仁・義部(の三部を統率し)、おのおの一人の卿(長官)が配属され、これ(左右允)は司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳(の三)部があって、(それぞれ)部(の長官)は郎中で、員外(郎)もあった。右(允)六司は智・礼・信(の三部を統率し)、その支司に戎・計・水(の三)部があり、(その長官)卿郎は左(允)に準ずるもので、(いずれも唐制の)六官(部)に相当する。中正台には大中正(長官)が一人置かれ、(これは唐制の)御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には(それぞれ長官に当たる)大令がいた。文籍院(の長官)は監令といい、監にはすべて少(監)が属していた。太常(寺)・司賓(寺)・大農寺(の長官)は卿である。司蔵(寺)・司膳寺(の長官)は令で、(次官は)丞といった。冑子監(の長官)は監長といわれた。また、巷伯局には常侍(長官)等の官(名)があった[36]


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷219#渤海

  2. ^

    北鎭奏 狄國人入鎭 以片木掛樹而歸 遂取以獻 其木書十五字云 寶露國與黑水國人 共向新羅國和通。(『三国史記』巻十一・新羅本紀・憲康王十二年条)

    北鎮奏す、「狄国人、鎮に入り、片木を以て樹に掛けて帰る。遂に取り以て献ず」と。其の木、一五字を書して云う、「宝露国と黒水国人、共に新羅国に向きて和通せんとす」と[42]


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三國史記/卷11

  3. ^

    廿七日庚寅。先是。大宰府言。去三月十一日。不知何許人。舶二艘載六十人。漂着薩摩國甑嶋郡。言語難通。問答何用。其首崔宗佐。大陳潤等自書曰。宗佐等。渤海國人。彼國王差入大唐。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)五月二七日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第廿三

  4. ^

    八日庚午。先是。大宰府馳驛言。渤海國人崔宗佐。門孫。宰孫等漂着肥後國天草郡。遣大唐通事張建忠覆問事由。審實情状。是渤海國入唐之使。去三月着薩摩國。逃去之一艦也。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)七月八日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第廿四

  5. ^

    廿五日甲午。渤海國使楊中遠等。自出雲國還於本蕃。王啓并信物不受而還之。大使中遠欲以珍翫玳瑁酒盃等。奉獻天子。皆不受之。通事園池正春日朝臣宅成言。昔徃大唐。多觀珍寳。未有若此之奇恠。(『日本三代実録』八七七年(元慶元)六月二五日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第卅一

  6. ^

    明経学生刑部高名参内。令問漢語者事。高名奏云々。行事所召得、漢語者大蔵三常。即召之於蔵人所。令高名申云。其語能否。奏会。三常唐語尤可広博云々。勅従公卿定申。以三常令為通事。(『扶桑略記』九二〇年(延喜二〇)三月七日)

  7. ^

    渤海使首領高多佛脱身留越前國。安置越中國給食。即令史生羽栗馬長并習語生等就習渤海語。(『日本紀略』八一〇年五月二七日)

  8. ^

    乙未。令美濃。武藏二國少年。毎國廿人習新羅語。爲征新羅也。(『続日本紀』天平宝字五年一月九日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第廿三

  9. ^
    開元十三年、安東都護薛泰請于黑水靺鞨內置黑水軍。續更以最大部落爲黑水府、仍以其首領爲都督、諸部刺史隸屬焉。中國置長史、就其部落監領之。 — 旧唐書、巻一九九下、靺鞨伝
    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:舊唐書/卷199下#靺鞨
  10. ^
    敕雞林州大都督新羅王金興光。賀正謝恩兩使續至。再省來表。深具雅懷。卿位總一方。道踰萬里。託誠見於章奏。執禮存乎使臣。雖隔滄溟。亦如面會。卿既能副朕虚巳。朕亦保卿一心。言念懇誠。毎以嗟尚。況文章禮樂。粲焉可觀。德義簪裾。浸以成俗。自非才包時傑。志合本朝。豈得物土異宜。而風流一變。乃比卿於魯衛。豈復同於蕃服。朕之此懷。想所知也。賀正使金義質及祖榮相次永逝。念其遠勞。情以傷憫。雖有寵贈。猶不能忘。想卿乍聞。當甚軫悼。近又得思蘭表稱。知卿欲於浿江寘戍。既當渤海衝要。又與祿山相望。仍有遠圖。固是長策。且蕞爾渤海。久已逋誅。重勞師徒。未能撲滅。卿毎疾惡。深用嘉之。警寇安邊。有何不可。處置訖因使以聞。今有少物。答卿厚意。至宜領取。春暮已暄。卿及首領百姓並安好。遣書指不多及。 — 文苑英華、巻四七一、勅新羅王金興光書第二首
  11. ^
    煬帝即位、入為武候驃騎將軍、以嚴正聞。後數歲、黔安首領田羅駒阻清江作亂、夷陵諸郡、民夷多應者、詔榮擊平之。遷左候衛將軍。從帝西征吐谷渾、拜銀青光祿大夫。遼東之役、以功進位左光祿大夫。 — 隋書、巻五十、郭栄伝
    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:隋書/卷50#郭榮
  12. ^
    頃之、已降郡縣復叛、盜賊蜂起。阿古只與康默記討之、所向披靡。會賊遊騎七千自鴨淥府來援、勢張甚。阿古只帥麾下精銳、直犯其鋒、一戰克之、斬馘三千餘、遂進軍破回跋城。

    已に降りし郡縣復た叛し、盗賊蜂起す。阿古只、康歎記とこれを討ち、向う所披靡せしむ。たまたま賊の遊騎七千、鴨淥府より来援し、勢張ること甚し。阿古只、麾下の精鋭を帥いて直ちに其の鋒を犯し、一戦してこれに克つ。斬馘すること三千餘。遂に軍を進めて回跋城を破る。 — 遼史、巻七三
    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:遼史/卷73





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