渤海 (国) 国際関係

渤海 (国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 14:01 UTC 版)

国際関係

唐との関係

大祚栄が震国を建国した当初は、武則天夷狄から収奪する方策を執っていたためと対立していた。そのため当初は突厥新羅との通好による唐の牽制を外交方針の基本にしていたが、唐の中宗が即位すると、張行を派遣・招慰し両国の関係改善の転機をもたらした。大祚栄もこの招慰を受け入れ、王子を唐に入侍させ、唐に従属する政治的地位を確認した。713年には唐は大祚栄を「左驍衛員外大将軍渤海郡王」に封じ、同時に渤海は羈縻体制下に入る、その後は「渤海国王」と「渤海郡王」と冊封の官称に変化はあったが、原則として唐の滅亡までこの関係は維持された。

招慰を受けた渤海は質子の制度に基づき、子弟を唐に遣している。大祚栄の嫡子であった大門芸が派遣されたのが初見であるが、渤海からの質子は単なる人質としてではなく、皇帝の謁見、賜宴を受け、時には皇太子の加冠や謁陵、時節の朝儀などに列席するなどの待遇を受け、また唐にて客死した場合は位階の追贈や物品の下賜を受けるなどの良好な待遇を受けている。これは渤海との関係が良好であったためと考えられる。

この他渤海は唐の藩属として定期的に方物を献上し朝貢を行っていた。朝貢の際には「土貢」を献上すると同時に国内状況を奏上していた。この他、元旦や各節句に「賀正使」と献礼の使節を派遣した。これらの使節はほぼ毎年の派遣が記録に残されており、また1年に2~3度も使節派遣を行っていることが知られており、渤海は自治政権を確立すると同時に、羈縻体制下での外交関係を継続していた。

渤海は、唐文化の移入に努め、遣唐使を派遣するとともに留学生を送り、唐の学問を学ばせており、国内でも唐の官制を模した三官六省の組織を作り上げ、律令体制を導入している。一方、唐とは異なる独自の年号を使用するなど、唐と一定の距離を置く側面も見られる[40]:1

なお唐滅亡後は、渤海は中原王朝との外交関係を継続している。

突厥との関係

698年の渤海(当時は「震」)建国当初は東突厥の躍進期に当たっており、営州の反乱の後、東突厥第二可汗国の第2代阿史那默啜を支援し契丹を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を東突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は東突厥の属国としての地位を甘受することになり、東突厥から派遣される吐屯(トゥドゥン)により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。

その後唐との関係が改善され、唐が大祚栄を冊封するに至ると東突厥との関係が疎遠となったが、大武芸が即位し唐と対立した際、東突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に東突厥と断交している。

734年、東突厥は渤海に使者を派遣し、契丹の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て東突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後、東突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、745年回紇により東突厥は滅亡した。

契丹との関係

渤海建国に当たっては営州の反乱と契丹の反唐活動により、大祚栄が独立する契機を生じたことから、両者には特別な関係が存在していたと推測される。720年が渤海に対し契丹及びへの攻撃を打診した際に、唐の冊封体制下の渤海は出兵の義務を有していたにもかかわらず、これを拒否していることからも推測されるものである。

しかし唐との関係が改善されるに反比例し、渤海と契丹の関係は冷却化の一途を辿った。それは渤海後期に扶余府一帯に契丹の侵入を防ぐべく常備軍を駐留させた記録からも窺えるものである。当然渤海は契丹人の反逆者の亡命を受け入れるようになり、契丹王室の轄底が渤海へ亡命した記録などもある。それでも『新唐書』で渤海の風俗を「高麗、契丹と略等し」と表現されるように文化的な親密さは相当なものであり、両者の経済的、文化的な交流は持続され、それは契丹道と称される重要な対外交通路の地位を占めていた。

渤海末年、渤海の勢力は衰退し、926年には契丹人による国家、により滅ぼされ、その故地には東丹国が建国された。

新羅との関係

最大領域時代の渤海国と新羅

698年に震国が建国された際に新羅はかつての百済全土及び高句麗の一部を領有すると共に、北進政策を採用して渤海の安定を脅かすようになった。またその渤海はと対立しており、唐の脅威を抑え、同時に新羅の北進を牽制するため新羅に接近する政策を採用した。当初は新羅の藩屏と称し、新羅の五品の官職である大阿を授位されている。しかしその後渤海と唐の関係が好転するに従い、渤海と新羅の関係は変質し、大武芸の時代になると高句麗の故地の回収が目標となり両国関係は緊張、それは721年に新羅が北辺に長城を築城したことに現れている。

渤海と唐が「登州の役」で対立した際、新羅は唐の出兵の求めに応じ渤海を攻撃したが、悪天候に阻まれ新羅軍は大損害を蒙っている。この出来事は新羅の北進政策を抑制すると共に、唐と新羅の対立を政治的に解消させる効果をももたらした。新羅はこの功績により唐から寧海大使の地位を与えられ、浿江以南の高句麗の故地統治を正式に承認させることに成功したが、同時に渤海を牽制する役割をも担うこととなり、渤海と新羅は厳然と対立することとなった。

新羅との対立という状況に際し、渤海は日本と通好することで新羅を背後から牽制することを画策した。安史の乱に際し、渤海は日本と共同して新羅挟撃を計画したが、これは藤原仲麻呂の乱により計画が頓挫したことで、軍事的解決の姿勢を放棄し、以降は政治的解決を模索するようになる。新羅側から790年一吉(7品)の伯魚を、812年(9品)の崇正を渤海に派遣していることは、政治的な安定を模索した結果であり、新羅道の発展を創出することになる。

この良好な関係も、大仁秀が即位して渤海の領土拡張を目指すようになると、再び両国の均衡は崩壊することになる。826年には新羅の憲徳王浿江に300里の長城を築城したことからも情勢の変化を読み取ることができる。

次に両国の関係が好転するのは10世紀の契丹の勃興という外的要因による。渤海は契丹に対抗すべく新羅との和解を図る。しかし当時の新羅は国勢が衰退し、既に後三国の時代に入っており、軍事的に渤海を支援し契丹に対抗する力は無く、そればかりか渤海の苦境に乗じ浿江以北への侵攻を行った。新羅は一面で渤海に同調するそぶりを見せ、反面に使者を送り方物を献じるという二面性の外交を展開した。遼が王都の忽汗城を包囲した際には、新羅は渤海に出兵し、更にこの軍功により耶律阿保機により褒賞を受けている。

新羅と渤海は没交渉であり、史料上では全時代を通じて新羅から渤海へ2回の使節の派遣が確認されるだけであるが、韓国では記録が逸失したに過ぎないという主張もあるが、李成市は「そうした解釈の余地はほとんどない」として以下の2つの理由を挙げている

  1. 新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の長人記事(渤海 (国)#新羅人の渤海認識)は、8世紀から9世紀の新羅・渤海国境付近の政策と新羅人の渤海人に対するイメージを象徴しており、渤海人に対する異形のイメージと新羅が渤海国境付近に強大な軍事施設である西北の浿江鎮典、東北の関門を設置したことから、新羅と渤海に頻繁な交渉を推定することはできない[41]
  2. 渤海衰退期から新羅と渤海の国境付近で靺鞨族が出没・交易を求めた歴史があり、886年に渤海所属の2つの部族が新羅の北鎮に対して、直接の接触を避けながら、文字を記した木片を持って通交を申し出る事件があり[注釈 2]、日常的な交渉があるならば、このような形式の申し出は有り得ず、新羅と渤海の没交渉を反映しており[43]、敵対する新羅国境付近の靺鞨族を管理・統制することは渤海の国家存立に係る事案であり、族(後の靺鞨族)は古来より魚類・毛皮を遥か中国内陸部まで、もたらす遠隔交易を生業とする狩猟・漁労の民であり、渤海の対外交易は、これらを生業にする靺鞨族の交易を国家的に編成したのであり、靺鞨族を包摂・統合した渤海王権は新羅と隣接する靺鞨族の他地域との交易を管理・統制することは政治的安定とって必須であり、従って、渤海滅亡後に高麗と旧渤海人と過剰な交渉がの建国まで展開されるなど渤海衰退期からの新羅と渤海国境付近の交渉活発化は、渤海の衰退・滅亡によってもたらされた現象であることが推察される[43]

渤海の存続期間全体を俯瞰するに、渤海と新羅の両国は対立の歴史と捉える事が可能である。

新羅人の渤海への認識

田中俊明李成市古畑徹によると、8世紀の記録には、新羅人が新羅の東北境の住民である渤海人のことを、黒毛で身を覆い、人を食らう長人、ととらえていたことをうかがわせる記述があり、この異人視は渤海・新羅両国の没交渉からくる恐怖感を示し、それだけの異域であったことの証左であり、新羅および渤海の辺境地帯の地域住民に対して、これだけの異域観がみられることから、渤海・新羅両国の乖離した意識は明確であり、渤海・新羅の同族意識はうかがいようもないと指摘している[44]。長人記事とは、『新唐書』巻二二〇・東夷伝・新羅、『太平広記』巻四八一・新羅条の以下の記事である[45]

新羅、弁韓苗裔也。居漢樂浪地、橫千里、縱三千里、東拒長人、東南日本、西百濟、南瀕海、北高麗。(中略)長人者、人類長三丈、鋸牙鉤爪、黑毛覆身、不火食、噬禽獸、或搏人以食、得婦人、以治衣服。其國連山數十里、有峽、固以鐵闔、號關門、新羅常屯弩士數千守之。

新羅(中略)東は長人を拒つ。(中略)長人なる者は、人の類にして長三丈、鋸牙鉤爪、黒毛もて身を覆う。火食せず、禽獣を噬う。或いは人を搏え以て食らう。婦人を得て、以て衣服を治めしむ。其の国、連山数十里、峡あり。固むるに鉄闔を以てし、関門と号す。新羅、常に弩士数千を屯し之を守る[46] — 新唐書、巻二二〇・東夷伝・新羅
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷220#新羅
新羅國、東南與日本鄰、東與長人國接。長人身三丈、鋸牙鉤爪、不火食、逐禽獸而食之、時亦食人。裸其軀、黑毛覆之。其境限以連山數千里、中有山峽、固以鐵門、謂之鐵關。常使弓弩數千守之、由是不過。

新羅国(中略)東(北)は長人国と接す。長人の身は三丈、鋸牙鉤爪、火食せず。禽獣を逐いて之を食らう、時に亦た人を食らう。其の軀を裸にし、黒毛もて之を覆う。其(新羅)の境限は連山数千(十)里を以てす。中ごろ山峡有り、固むるに鉄門を以てし、之を鉄関と謂う。常に弓弩数千をして之を守らしむ、是に由りて過ぎず[41] — 太平広記、巻四八一・新羅条
中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:太平廣記/卷第481#新羅

李成市は、「関門」或いは「鉄関城」は新羅東北の井泉郡に位置しており、そこには「炭項関門」乃至は「鉄関城」という軍事施設があり、そこに隣接する東の集団は渤海領域民以外にはあり得ず、長人は井泉郡以北の渤海人とみて間違いなく、長人は新羅辺境の軍事的緊張に密接に関係しており、長人の異形、食人描写からみて、長人が恐怖の対象となっており、長人の人間とは異なる身体的特徴、食人描写、人間の女性を捕らえて衣服を作らせるという記事は異形異類の伝承であり、一般的に異民族は、人間と異なる身体的特徴をもつ異形とされ、敵対者は或いは自らの理解を越えたコスモロジーを持つ人は、人間でなく動物或いは妖怪の類であることが指摘され[47]18世紀の『択里志』は朝鮮半島東北について以下記しており、朝鮮半島東北の厳しい自然環境は、飲食・衣類の欠乏に及んでおり人々は犬の毛皮をまとっており、長人記事の「黒毛もて身を覆う」や「婦人を得て、以て衣服を治めしむ」内容は、18世紀に至っても衣服の類が欠乏していた朝鮮半島東北部の実情を仮託して創作されたとみなすこともでき、長人は、朝鮮半島東北の人々の習俗に根ざし、日常的な没交渉と軍事的緊張が加味されて醸成された新羅人の幻影の所産であり、「新羅人にとって国境を接する渤海人とは、異形であり、恐怖の対象」「渤海人を恐怖の対象とするにいたった両者の長期間にわたる没交渉と軍事的緊張が、こうした説話の醸成に深くかかわっていた」と指摘している[48]

以北、山川危険にして、風俗勁悍なり、土寒く地痩せ、穀は惟だ粟麦のみ、粳稲少なく、綿絮無し、土人は狗皮を以て冬を禦ぐ、性飢寒を堪えること一に女真の如し、山に貂參饒く、民は貂參を以て南商の綿布と換え、方に衣袴を得んとす、然るに富厚に非ざる者は能わざる也[48] — 択里志

李孝珩(朝鮮語: 이효형釜山大学)は、「李成市は『新唐書』長人傳承記事を分析して、渤海と新羅の間に交渉がなかったことを明らかにした」と評している[49]

との関係

(ウイグル)は鉄勒諸部の一つであり、バイカル湖南方で遊牧を中心に生活していた。8世紀半ばに東突厥を滅ぼし、またを支援して安史の乱を平定するなどの軍事活動を行うと同時に、経済活動も活発に行われ、渤海とは経済・文化方面での交流が行われていた。回商人の足跡は上京府以外にも、率賓府のような辺境地域でも遺物から認められ、古ウスリーク城からは突厥文字が刻字された回人の遺跡が、沿海州のチャピゴウ河岸の渤海寺院跡から出土した景教の陶牌からも回人の渤海に於ける活動を示している。しかしその文化・経済交流も840年回鶻(回)の政権崩壊により消滅した。

黒水靺鞨との関係

渤海建国当初は黒水靺鞨諸部は独立した勢力を有しており、またとの対立と、周辺諸部に対する支配強化を推し進める渤海は黒水靺鞨に対し懐柔策を採用した。当初は突厥の支配を受けていた黒水靺鞨であるが、次第に突厥の支配を脱し唐へ帰属する路線への転換を図った。722年に首長の倪属利稽が朝見し、勃利州刺史に冊封され黒水府を設置するに至ると、唐と黒水靺鞨による渤海挟撃を危惧した大武芸は黒水靺鞨に出兵している。

大欽茂が即位すると唐との大幅な関係改善が見られ、必然的に黒水靺鞨との緊張状態の緩和を見るに至った。大仁秀の時代になると、渤海により海北諸部の討伐が行われ、黒水靺鞨は渤海に服属し、独自に唐に朝見を行うことはなくなったが、渤海の統治に対する反乱が発生し、黒水靺鞨中心部に渤海の行政機構を設置し、直接統治を行う事は最後まで実現しなかった。

渤海末期の9世紀になると、黒水靺鞨は新羅との連盟を模索するなど自立の道を探るようになり、また渤海の衰退により黒水靺鞨に対する統治が弱体化したことで、最終的には渤海の従属的地位を脱し、924年には後唐に使節を送るようになった。

日本との関係

大武芸神亀4年(727年)に日本に使者を派遣してきたことから、日本と渤海との交渉が始まる。渤海にとってこの交渉は、日本と結びつくことによって、対立していた黒水靺鞨新羅を軍事的に牽制することを狙ったものであり[40]:1に対抗するため奈良時代から日本に接触した。唐から独立した政権を確立した渤海であるが、大武芸の時代には唐と対立していた。その当時の周辺情勢は黒水部は唐と極めて親密な関係にあり、新羅もまた唐に急速に接近しており渤海は国際的な孤立を深めていた。この状況下、大武芸は新羅と対立していた日本の存在に注目した。727年、渤海は高仁義ら[50]を日本に派遣し日本との通好を企画する。この初めての渤海使は、大使の高仁義らは往路で死亡、生き残った高斉徳ら8名が出羽国から上京し、12月に聖武天皇に拝謁した。この年引田虫麻呂ら62名を送渤海客使として派遣するなど軍事同盟的な交流が形成された。しかし渤海と唐の関係改善が実現すると、日本との関係は軍事的な性格から文化交流的、商業的な性格を帯びるようになり、その交流は926年渤海滅亡時までの200年間継続した。

日本海側の、金沢敦賀秋田城などからは渤海との交流を示す遺物が発掘されている。

日本の朝廷は、渤海が「自身は高句麗の後身である」と名乗ったことから、かつて滅亡前後に辞を低くして日本に遣使してきた高句麗との関係を想起し、結果、渤海を自分より下位の朝貢国とみなした[40]:1。日本と渤海の関係は、表面的には日本が上位・渤海が下位であり、渤海は朝貢国の立場を甘んじて受けていた[40]:5。ただし、時代によってその態度は微妙に異なっており、宝亀延暦年間には日本側の国書から高句麗とのつながりを示す文言が消えて、代わりに自尊的な表現が出現し、唐風文化に対する関心が高かった弘仁年間には渤海が唐風文化の積極的摂取に努めていることを評価し、日本の天皇が渤海の王に親しみを抱いていることを示すものになっている[51]。また、初期の頃は渤海使の帰国に合わせて遣渤海使を返使として派遣するのが恒例であったが、宝亀年間以降はその原則が崩れてきたこともあり、渤海使は国書と共に中台省牒を持参し、日本側も遣渤海使に国書と太政官牒を持たせるようになった[52]

渤海は日本に対して朝貢をしたが、当時の日本の国力では、毎年の朝貢に対して回賜を行う能力は無く、天長元年(824年)に、渤海に対して使者派遣の間隔を12年に1度にするという制限が設けられた。日本海沿岸諸国にこの制限を通達した文書には、「小の大に事へること、上の下を待すること、年期・礼数、限り無かるべからず」と、大国が小国との交渉に制限をつけるのは当然のことだと、かなり高圧的に述べている[40]:4。しかし、渤海使はこの12年に1度という約束を平気で破って、数年おきに使者を派遣しており、その目的は朝廷との国交にあるのではなく、到着地の日本海沿岸でおこなう密貿易の利益にあったとみられる[40]:4。渤海は年期違反に際して、「日本を慕う気持ちが強すぎて、派遣間隔が空いてしまうことに耐えられない」「かつては無制限の使者派遣が認められていた」という2点を強く主張し、日本としても、自分を慕ってやってくると言っている渤海を無下にもできず、「大国のトップである天皇は、渤海に憐れみを示すべき」という考えに基き、渤海の無理な主張を受け入れることも度々あった[40]:5

咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の)の写しによれば、渤海使は105人の人員で構成されており、105人の内訳は、使頭1人(政堂省左允・賀福延)、嗣使1人(王宝璋)、判官2人(高文暄、烏孝慎)、録事3人(高文宣、高平信、安寛喜)、訳語2人(季節憲、高鷹順)、史生2人(王禄昇、李朝清)、天文生1人(晋昇堂)、大首領65人、梢工28人である。渤海使の圧倒的多数を占める首領とは、渤海の在地社会に支配者として君臨する靺鞨諸部族の首長であり、渤海王権は靺鞨諸部族の首長を包摂、国家的に再編成することにより、渤海の国家集権的支配を可能とし、渤海は靺鞨諸部族の首長を制度的組織化、日本外交に恒常的に参画させた[53]。『延喜式』大蔵省賜蕃客例条に規定される渤海使の構成員と回賜品は、渤海王(30疋、30疋、300絇、綿300屯)、大使(絹10疋、絁20疋、糸50絇、綿100屯)、副使(絁20疋、糸30絇、綿各70屯)、判官(絁各15疋、糸各20絇、綿各50屯)、録事(絁各10疋、綿各30屯)、訳語(絁各5疋、綿各20屯)、史生(絁各5疋、綿各20屯)、首領(絁各5疋、綿各20屯)であり、首領たちは渤海使として来日すると回賜品が与えられ、分量は渤海に対する回賜総量の半分を占めた[53]

新唐書』渤海伝は「大暦中、二十五來、以日本舞女十一獻諸朝」と記し、唐の大暦年間(766年~779年)に渤海国が日本の舞女11人を唐に献上したことを伝えている。

日本は渤海との交渉に関連する記録が非常に多く、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』などの歴史書は渤海が存在していた同時代の史料であり、さらに木簡金石文などが相当数あり、渤海史研究に重要な一次史料を多く保有している。渤海と日本との外交関係は渤海が34回(35回とする説もある)、日本が13回使者を派遣している[54]。『三国史記』には、を除けば、新羅の歴史の中で、日本との公式交渉は10回しか残しておらず、これだけでも渤海と日本の緊密性は証明されて余りある[55]


  1. ^ 朱・魏 1996, p. 248朱国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所渤海研究室)は「文献に記録されている言語は未詳であって、その全体を究明することは難しい。わずかに『新唐書』渤海伝および『旧五代史』渤海靺鞨などの史書に、渤海では王を『可毒夫』と呼び、王に対面する時は『聖』と呼び、上表する時は『基下』と書くとあるが、この『聖』は明かに漢語からの借用語である。ソ連(ロシア)の学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、『可毒夫』とはおそらく満洲語の『卡達拉』(管理するの意味(ᡴᠠᡩ᠋ᠠᠯ᠊/kadala-))やナナイ語の『凱泰』と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う。また、渤海人と靺鞨人の名前には最後に『蒙』の字の一音節を持つ『烏借芝蒙、己珎蒙、慕思蒙』などの例がある。この『蒙』の音は靺鞨語の中で重要な膠着語尾の一つであることが知られる。ツングース語系の各民族は氏族を『木昆』『謀克』と称するが、『蒙』の音が『木』や『謀』の音と近いことを考えると、この『蒙』の音は、その人が属する氏族を表す音節であろうと推測できる。当時、靺鞨語が国家の公用語であり、広汎に使用されていたことは間違いない」と述べている。
  2. ^ 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42頁。"八一〇年(弘仁元)五月、帰国を目前にした渤海使の一員であった首領の高多仏が使節団から一人離脱して、越前国にとどまることになった。いわば亡命である。高多仏はその後、越中国に移されて、史生の羽栗馬長と習語生らに渤海語を教習することになったが、この高多仏が教習した渤海語とは、いったいどのような言葉であったのだろうか。『新唐書』渤海伝に、「俗に王を謂いて、可毒夫と曰う。聖主と曰う。基下と曰う」と、王の俗称、つまり固有の呼び方があったことを伝えている。このことは渤海には、独自の言語が存在したことを示しているといえよう。そもそも言語と密接な関係にあるのが民族であるが、渤海は高句麗の遺民や粟末あるいは白山靺鞨などを糾合して樹立された多民族国家である。とすればまずは高句麗語が話されていたことは想像に難くないが、粟末靺鞨や白山靺鞨の前身ともいうべき挹婁や勿吉について、『魏志』東夷伝挹婁条には、「その人の形夫余に似る。言語、夫余、句麗と同じからず」とあり、また『北史』勿吉伝にも「勿吉国は高句麗の北にあり。一に靺鞨と曰う。…言語、独り異なる」とあることから、靺鞨の言語は周辺諸民族ときわだって異なっていたのであろう。したがって靺鞨諸部もその構成民族とする渤海では、靺鞨語が話されていたことになる。しかも渤海が領域を拡大していく過程で、越喜や鉄利・払涅などの北方の靺鞨諸部を征服し多くの部族を内包しており、靺鞨語とはいえ、地域や伝統によって差異、つまり方言などもあったものといえよう。いわば渤海は、高句麗語をはじめ多様な靺鞨語が話される多重言語の世界であったのである。以上のような理解に立つならば、在地の首長である首領の高多仏が教習した渤海語とは、こうした靺鞨語ではなかったかと思われる。"。 
  3. ^ a b 波戸岡旭『渤海国の文学—日渤応酬詩史概観』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、67頁。"渤海国は靺鞨族を主体とし高句麗人・漢人・突厥人・契丹人・室韋人・回紇人など多くの民族がいたらしいが、建国当初は靺鞨語を公用語とした。しかし政治機構をはじめとしてもろもろの制度・文化が唐風化されて行くうちに、漢語が公用語となっていった。また、渤海は高句麗の文化・文学を継承したが、高句麗の文化・文学はすでに唐風化されていたものである。そして更に渤海建国の後も唐風化されつつ大いに栄えた。但し、大使に文官が任命されるようになったのは、第六回朝貢使からである。"。 
  4. ^ a b 上田雄『渤海使の研究』明石書店、2001年12月27日、126頁。ISBN 978-4750315072。"可毒夫について、朱国忱・魏国忠の『渤海史』では『ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)の研究によれば、「可毒夫」とはおそらく満州語の「卡達拉カダラ」(管理するの意)やナナイ語の「凱泰カイタイ」と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろう、と言う』と紹介している。また石井正敏は可毒夫とは『仏陀の対音であろう(稲葉岩吉『増訂満州発達史』)とする見解もあるが、あるいは全くの憶測に過ぎないが、原語で「大王」のごとき意味をもっていたものではなかろうか。識者のご教示をまちたい。』と、している。"。 
  5. ^ 劉毅『渤海国の族源について-中国・日本・朝鮮関連史料の考察-』國學院大學〈国学院雑誌〉、1997年7月、60頁。 劉毅(遼寧大学)は「渤海国の風俗について、『新唐書』渤海伝に、「俗謂王曰可毒夫、曰聖王、曰基下。其命爲教。王之父曰老王、母太妃、妻貴妃、長子曰副王、諸子曰王子。」とあり、王を可毒夫と称する風俗のあることが知られる。この可毒夫と呼ぶ用語については、ロシアの学者のエ・ヴェ・シャフクノフ(英語: E. V. Shavkunovロシア語: Эрнст Владимирович Шавкунов)氏の研究によれば、可毒夫とはおそらく満州語の卡達拉(管理するの意味)や、ナナイ語の凱泰(カイタイ)と関係があり、その本来の意味は年長の管理者の意味であろうという。また、この可毒夫を仏陀の対音であろうと説く学者もある。いずれにしても、可毒夫と呼ぶ用語が朝鮮についての歴史文献である両唐書の高句麗伝、百済伝、新羅伝には、見られないことは事実である。これこそ、渤海人の出自が高句麗人ではなかった反証であろう」と述べている。
  6. ^ 酒寄雅志『コラム 渤海国文化点描』大修館書店〈月刊しにか〉、1998年9月、42-43頁。"八七三年(貞観一五)五月に、肥後国天草郡に漂着した渤海人崔宗佐・大陳潤ら一行は、大宰府の遣わした大唐通事の張建忠の取り調べを受け、渤海の入唐使であることが判明した。このことは崔宗佐らが、唐語=漢語を話せたことを示している。もっとも崔宗佐らは入唐使であるから、唐語を話せたのは当然ともいえるが、渤海人が唐語を話したことの微証にはなるであろう。また一九四九年に吉林省敦化県の六頂山から発見された渤海第三代王大欽茂の次女である貞恵公主の墓誌や、一九八〇年、延辺朝鮮族自治州和竜県の竜頭山から発見された貞恵公主の妹の貞考公主墓誌などをみると優れた駢儷体の漢文で書かれていることや、来日した渤海使がもたらした王啓や中台省牒などが漢文で書かれ、また王文矩や裴頲をはじめとした渤海使の多くが優れた漢詩を残していることを想起すると、渤海人が漢字を熟知していたことは確かである。もとより漢字を使用していたことが、ただちに唐語を話し言葉として使っていたとはいえないが、渤海は広大な支配領域に割拠する多くの民族や民族集団を統一していく手段として、漢語の導入をはかったのであろう。日本へ派遣された渤海使たちも、唐語で日本人と意思の疎通をはかっていた。だからこそ春日宅成や伊勢興房、また、大蔵三常のように、豊かな在唐経験に裏打ちされた唐語に秀でた人物が渤海通事に任じられたのである。"。 
  7. ^ 古畑 2017, p. 89-90 古畑徹は「渤海が国家の意思を表現し、記録を遺すのに使用した文字は、漢字である。独自の文字の存在は確認できないし、同時期にユーラシアで使用されていたほかの文字(突厥文字、ウイグル文字、ソクド文字など)が国内で使用された形跡もない。記録を残すのに漢字が使用されたことを証明するのが、墓誌である。渤海の墓誌は、現在、四つ発見され、いずれも皇后・公主のもので、漢文で書かれている。墓誌は、墓の外に立てる墓碑と違い、墓のなかに納めてしまう。そのため、その文章を見るのは埋葬に立ち会う人々だけで、それが読者として想定されている。ということは、皇后・公主の埋葬に集まる支配層の人々が共通に読めるのが、漢字・漢文だったということである。文字文化という点でみれば、渤海が漢字文化圏に属すことは明白である。それだけでなく、渤海の支配層は漢語で会話ができたとみられる。それを窺わせるのが、日本と渤海との外交交渉の共通言語が漢語だった点である。日本に渤海使がくると、日本では渤海通事が指名され、通訳をした。この渤海通事の使用言語が漢語であり、渤海使はこれを再度の通訳を介することなくそのまま理解し会話した。そもそも渤海を構成する高句麗人や靺鞨諸族は、それぞれ独自の言語を有しており、渤海は多重言語世界であったとみられる。このような場合、優位性を持つ種族の言語を共通言語とする方法もあるが、外部の権威ある言語を相互の意思疎通のための共通言語にすることもある。渤海の場合、建国集団は、唐領域内に居た高句麗人・靺鞨人の混成集団であったから、その指導層は漢語が話せたはずで、これを異なる種族間の意思疎通に使っていたと思われる。そのあり方が、その後の多様な種族の吸収にあたって有効に機能し、そのまま継続したのであろう。一方、渤海に独自言語が存在したことも、『日本紀略』弘仁元年(八一〇)五月丙寅条に、越中国の史生と習語生を渤海人高多仏に師事させて『渤海語』を習得させたという記事があるから、間違いない。ちなみにこの高多仏は、渤海使の一員として来日したが、脱出して日本に残り、越中国に安置された者である。ともかくも、渤海には、漢語と『渤海語』という二種の共通言語があったと想定され、なかでも漢語は支配層による公用語的位置にあったとみられる。漢語には当時、異なる言語を話す渤海領域内の人々を納得させるだけの権威があったのであろう」と述べている。
  8. ^ 浜田 2000, p. 127-128 浜田耕策は「渤海の遣日本使の一行は、日本側との意思疎通のために、文字言語では漢文の外交文書等を交換していた。しかし、音声言語はどうであったか、交渉記録にはこれに関する言及はない。双方の音声言語になんら支障がなかったかのようである。そこに通事が仲介して中国語で対話したからであろう」と述べている。
  9. ^ 元来は700年建国説が有力であったが、鳥山喜一の研究により698年建国説が定説化している。
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  1. ^

    官有宣詔省、左相、左平章事、侍中、左常侍、諫議居之。中台省、右相、右平章事、内史、詔誥舎人居之。政堂省、大内相一人、居左右相上;左、右司政各一、居左右平章事之下、以比僕射;左、右允比二丞。左六司、忠、仁、義部各一卿、居司政下、支司爵、倉、膳部、部有郎中、員外;右六司、智、礼、信部、支司戎、計、水部、卿、郎准左;以比六官。中正台、大中正一、比御史大夫、居司政下;少正一。又有殿中寺、宗属寺、有大令。文籍院有監。令、監皆有少。太常、司賓、大農寺、寺有卿。司蔵、司膳寺、寺有令、丞。冑子監有監長。巷伯局有常侍等官。(『新唐書』渤海伝)
    官職(は次のようになっている)。宣詔省には左相(長官)・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中台省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、(その下に)左右司政が各一人、左右平章事の下に配置される。これは(唐制の左右)僕射に相当する。左右允は(唐制の)二丞(左丞と右丞)に当たり、左(允)六司は忠・仁・義部(の三部を統率し)、おのおの一人の卿(長官)が配属され、これ(左右允)は司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳(の三)部があって、(それぞれ)部(の長官)は郎中で、員外(郎)もあった。右(允)六司は智・礼・信(の三部を統率し)、その支司に戎・計・水(の三)部があり、(その長官)卿郎は左(允)に準ずるもので、(いずれも唐制の)六官(部)に相当する。中正台には大中正(長官)が一人置かれ、(これは唐制の)御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には(それぞれ長官に当たる)大令がいた。文籍院(の長官)は監令といい、監にはすべて少(監)が属していた。太常(寺)・司賓(寺)・大農寺(の長官)は卿である。司蔵(寺)・司膳寺(の長官)は令で、(次官は)丞といった。冑子監(の長官)は監長といわれた。また、巷伯局には常侍(長官)等の官(名)があった[36]


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:新唐書/卷219#渤海

  2. ^

    北鎭奏 狄國人入鎭 以片木掛樹而歸 遂取以獻 其木書十五字云 寶露國與黑水國人 共向新羅國和通。(『三国史記』巻十一・新羅本紀・憲康王十二年条)

    北鎮奏す、「狄国人、鎮に入り、片木を以て樹に掛けて帰る。遂に取り以て献ず」と。其の木、一五字を書して云う、「宝露国と黒水国人、共に新羅国に向きて和通せんとす」と[42]


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:三國史記/卷11

  3. ^

    廿七日庚寅。先是。大宰府言。去三月十一日。不知何許人。舶二艘載六十人。漂着薩摩國甑嶋郡。言語難通。問答何用。其首崔宗佐。大陳潤等自書曰。宗佐等。渤海國人。彼國王差入大唐。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)五月二七日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第廿三

  4. ^

    八日庚午。先是。大宰府馳驛言。渤海國人崔宗佐。門孫。宰孫等漂着肥後國天草郡。遣大唐通事張建忠覆問事由。審實情状。是渤海國入唐之使。去三月着薩摩國。逃去之一艦也。(『日本三代実録』八七三年(貞観一五年)七月八日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第廿四

  5. ^

    廿五日甲午。渤海國使楊中遠等。自出雲國還於本蕃。王啓并信物不受而還之。大使中遠欲以珍翫玳瑁酒盃等。奉獻天子。皆不受之。通事園池正春日朝臣宅成言。昔徃大唐。多觀珍寳。未有若此之奇恠。(『日本三代実録』八七七年(元慶元)六月二五日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:日本三代實錄/卷第卅一

  6. ^

    明経学生刑部高名参内。令問漢語者事。高名奏云々。行事所召得、漢語者大蔵三常。即召之於蔵人所。令高名申云。其語能否。奏会。三常唐語尤可広博云々。勅従公卿定申。以三常令為通事。(『扶桑略記』九二〇年(延喜二〇)三月七日)

  7. ^

    渤海使首領高多佛脱身留越前國。安置越中國給食。即令史生羽栗馬長并習語生等就習渤海語。(『日本紀略』八一〇年五月二七日)

  8. ^

    乙未。令美濃。武藏二國少年。毎國廿人習新羅語。爲征新羅也。(『続日本紀』天平宝字五年一月九日)


    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:續日本紀/卷第廿三

  9. ^
    開元十三年、安東都護薛泰請于黑水靺鞨內置黑水軍。續更以最大部落爲黑水府、仍以其首領爲都督、諸部刺史隸屬焉。中國置長史、就其部落監領之。 — 旧唐書、巻一九九下、靺鞨伝
    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:舊唐書/卷199下#靺鞨
  10. ^
    敕雞林州大都督新羅王金興光。賀正謝恩兩使續至。再省來表。深具雅懷。卿位總一方。道踰萬里。託誠見於章奏。執禮存乎使臣。雖隔滄溟。亦如面會。卿既能副朕虚巳。朕亦保卿一心。言念懇誠。毎以嗟尚。況文章禮樂。粲焉可觀。德義簪裾。浸以成俗。自非才包時傑。志合本朝。豈得物土異宜。而風流一變。乃比卿於魯衛。豈復同於蕃服。朕之此懷。想所知也。賀正使金義質及祖榮相次永逝。念其遠勞。情以傷憫。雖有寵贈。猶不能忘。想卿乍聞。當甚軫悼。近又得思蘭表稱。知卿欲於浿江寘戍。既當渤海衝要。又與祿山相望。仍有遠圖。固是長策。且蕞爾渤海。久已逋誅。重勞師徒。未能撲滅。卿毎疾惡。深用嘉之。警寇安邊。有何不可。處置訖因使以聞。今有少物。答卿厚意。至宜領取。春暮已暄。卿及首領百姓並安好。遣書指不多及。 — 文苑英華、巻四七一、勅新羅王金興光書第二首
  11. ^
    煬帝即位、入為武候驃騎將軍、以嚴正聞。後數歲、黔安首領田羅駒阻清江作亂、夷陵諸郡、民夷多應者、詔榮擊平之。遷左候衛將軍。從帝西征吐谷渾、拜銀青光祿大夫。遼東之役、以功進位左光祿大夫。 — 隋書、巻五十、郭栄伝
    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:隋書/卷50#郭榮
  12. ^
    頃之、已降郡縣復叛、盜賊蜂起。阿古只與康默記討之、所向披靡。會賊遊騎七千自鴨淥府來援、勢張甚。阿古只帥麾下精銳、直犯其鋒、一戰克之、斬馘三千餘、遂進軍破回跋城。

    已に降りし郡縣復た叛し、盗賊蜂起す。阿古只、康歎記とこれを討ち、向う所披靡せしむ。たまたま賊の遊騎七千、鴨淥府より来援し、勢張ること甚し。阿古只、麾下の精鋭を帥いて直ちに其の鋒を犯し、一戦してこれに克つ。斬馘すること三千餘。遂に軍を進めて回跋城を破る。 — 遼史、巻七三
    中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:遼史/卷73





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