故事
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さ行
塞翁が馬
国境の近くにあった塞(とりで)の近くに住んでいた翁(老人)は、何よりも自分の馬をかわいがっていた。その馬は、周りからも評判が立つほどの駿馬だったが、ある日突然、蜂に刺された拍子に飛び出してしまう。一向に帰ってこない馬の様子に、周りからは翁に同情するほどだったが、翁は「これがきっかけで何かいいことが起こるかも知れない」とだけ言って、我慢強く待ち続けた。すると、どうだろうか。しばらくして、その馬が別の白い馬を連れ帰ってきたのだ。しかも、その白馬も負けず劣らずの優駿で、周りの者は口々に何と幸運なことかと囃し立てたが、翁は「これがきっかけで、別の悪いことが起こるかもしれない」と自分を戒め、決して喜ばなかった。
それから、かわいがっていた息子がその白馬から落ちて、片足を挫いてしまった。周りはまた同じように慰めの言葉を掛けたが、翁はまた同様に「いいことの前兆かも知れない」と告げる。それからしばらくして、隣国との戦争が勃発した。若い男は皆、戦争に駆り出されて戦死した。しかし息子は怪我していたため、徴兵されず命拾いした。そして、戦争も終わり、翁は息子たちと一緒に末永く幸せに暮らしたという[12] 。
このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、人間万事塞翁が馬などと使われる。
宰相殿の空弁当
先んずれば将ち人を制す
秦朝末期、各地で起きた反乱は鎮圧されるどころか増大していた。ここで会稽の県令殷通は「先んずれば将ち人を制す(他の人より先に事を始めれば、その主導権を握れるだろう)」と、反乱軍が押し寄せる前に事を起こす決意をしたことに因む。ちなみにこの後殷通は、一緒に反乱を起こそうと誘った会稽の実力者項梁に殺害された。 [13]
三顧の礼
死屍に鞭打つ
四面楚歌
守株
ある男が農作業に勤しんでいると、目の前を跳ねていた兎が切り株に当たってそのまま死んだ。彼は喜んで、思わぬ獲物を家族に見せると、家族は「高く売れる」と皆声を揃えて喜んだ。すると、男は明日からは木を伐ってこつこつと稼ぐのはやめにして、兎を待って一攫千金を稼ぐことを策略する。そして、ありとあらゆる木を切り倒して、来る日も来る日も兎が死ぬのを待ちわびた。ところが、そんな偶然など滅多に起こるはずもなく、いつしか男は周りの笑いものにされ、そして自分が耕していた田畑は荒れに荒れてしまい、以前にも増して貧乏になってしまったという[14]。
このことから、物事はいつもうまく行くものではないという教訓からすなわち古いやり方ばかりで、進歩がない、または、偶然を当て込むような愚かなことをする、という意味となった。今日、日本では株を守りて兎を待つということわざになっている。また童謡の『待ちぼうけ』は、この故事を下敷きにしたものである。
酒池肉林
城下の盟
『春秋左氏伝』の故事。敵に本拠地近くまで攻め込まれ、その城門の下で屈辱的な降伏条約を結ぶこと[15][16]。
少年老いやすく学なりがたし
食指が動く
『春秋左氏伝』の故事。
鄭の子公が霊公を訪ねる途中、子公の人差し指が動いたのを同行者が見て「ご馳走にありつける前兆」と言った。「食指」とは人差し指のことである。
このことから、物を欲しがったり興味を持ったりする意味となった。
助長
宋の国の男が、自分で植えた苗の成長が遅いので心配になって、毎日畑へ通い世話を続けたが、一向に成長する気配がない。そこで男は苗の成長を助けてあげようと、一つずつ苗の先を上に引っ張った。疲れて家に帰った男はそのことを家族に話した。それを聞いた息子があわてて家を飛び出し、畑へ向かうと、やはり苗の根が土から浮き、弱って枯れてしまっていた[17]。
このことから助長は、物事の生長を助けようとして、余計に害を与えてしまうこと、という意味に使われるようになったが、今日では単に「第三者が物事を助けること」という意味でも使われる。
水魚の交わり
推敲
折檻
前漢の成帝時代は王氏による腐敗政治に染まっていて、治安が乱れていた。中でも自らを学者と騙る張禹という男が政治に介入し、丞相の地位をいいことに日々贅の限りを尽くしていた。そんな状況を見かねた臣下の朱雲はある日、意を決して成帝に「自分が国と帝の将来のため、張禹の首を刎ねる」と発言する。しかし、そのことが帝の逆鱗に触れ、彼は打ち首を命じられた。だが、彼は諫死をも覚悟して檻(欄干)にしがみつき、しがみついた檻が折れてしまうほど必死に進言を続けた。この状況を一部始終見通していた側近の辛慶忌はその朱雲の真意に心打たれ、彼が本当に国のことを思ってこのような無礼を蒙ったのだと、涙ながらに陛下に申し立て、同時に彼の罪を赦すよう歎願した。すると、辛のような大人にまでそのような態度を執られては流石の成帝も改心し、善政を尽くすよう決心した。同時に自らへの戒めとして、折れた欄干をそのままにしておくよう部下に伝えたという[18]。
以上の説話から、この話の元々の意味は目上の人に対して、強く諫めることであり、檻とは欄干、手すりのことである。しかし、後に派生して”厳しく叱る"という意味になり、今日では"体罰を交えて懲らしめること”という意味に捉えられるようになった。
糟糠の妻
宋襄の仁
漱石枕流
孫楚という男は、ある日友人(王済)に相談を持ちかけた。自分は役人だが、俗世間の煩わしさにほとほとうんざりしており、竹林の七賢のような、俗世間を離れた暮らしをしたいと持ちかけ、思わず「石に漱ぎ、流れに枕す」ような暮らしをしたいと告げた。すると友人が笑って、「それを言うなら、石に枕し、流れに漱ぐ(すなわち、石を枕にして、水の流れで口を漱ぐような自然と一体になった暮らしをすること)じゃないか」と突っ込まれる。すると、学問にプライドを持っていた男は思わず、「いや、それで間違っていない。石に漱ぎとは石で歯を磨いて、流れに枕するとは、俗世間の煩わしさも含め、全て水で洗い流すことだ」と言い張った[19]。
そこから、常に意地っ張りなことを漱石枕流、「石に漱ぎ、流れに枕する」というようになった。明治時代の作家、夏目漱石の名前もこの故事に因むといわれている。
- ^ 『荘子』 秋水
- ^ “「井の中の蛙大海を知らず」には実はポジティブな続きがあった! /毎日雑学”. ダ・ヴィンチ. KADOKAWA (2020年10月9日). 2020年12月30日閲覧。
- ^ 『後漢書』列伝11・邳彤伝
- ^ 『後漢書』列伝9・耿弇伝
- ^ 『歴代名画記』 巻七 梁
- ^ Wikiquoteの中国のことわざに、水衡記を典拠とする記述があります。
- ^ 『列子』 説符篇
- ^ 『列子』 天瑞篇
- ^ 『戦国策』 燕策
- ^ 『晋書』 車胤伝
- ^ 『孟子』 魏恵王 上
- ^ 『淮南子』 巻十八 人間訓
- ^ 『史記』項羽本紀
- ^ 『韓非子』 五蠧篇
- ^ 『春秋左氏伝』桓公12年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 春秋左氏伝(日本語訳)八二頁
- ^
春秋左氏傳 桓公. 春秋左氏傳/桓公#桓公十二. - ウィキソース.
- ^ 『孟子』 公孫丑 上
- ^ 『漢書』 朱雲伝
- ^ 『晋書』 孫楚伝
- ^ 『詩経』 小雅 鶴鳴編
- ^
世說新語 黜免. 世說新語/黜免#2.. - ウィキソース.
- ^ 『荘子』 斉物論
- ^ 『列子』 黄帝篇
- ^ 『戦国策』 楚策 - 楚の宣王に対して家臣の江乙が話したたとえ話。他国が令尹(宰相)の昭奚恤を恐れるのは、実際は楚王の軍を恐れるゆえと説明するため。
- ^ 『荘子』徳充符より
- ^ 『春秋左氏伝』成公十年より
- ^ 『無門関』「六則」
- ^ 『戦国策』「燕策」より
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