restoration
「restoration」とは・「restoration」の意味
「restoration」は英語で、「修復」「復元」「回復」などの意味を持つ言葉である。建物や芸術作品、環境などが破損や劣化した状態から元の状態に戻すことを指す。また、健康や秩序の回復にも用いられる。「restoration」の発音・読み方
「restoration」の発音は、/rèstəréɪʃən/である。アクセントは「re」の部分に置かれ、その他の音節は短く発音される。「restoration」の語源・由来
「restoration」は、ラテン語の「restauratio」から派生した英語である。ラテン語の「restauratio」は、「再建」や「修復」を意味し、英語においても同様の意味を持つ。「restoration」の類語
「restoration」の類語には、「recovery」、「reparation」、「rehabilitation」、「renewal」などがある。それぞれ微妙なニュアンスの違いがあり、状況に応じて使い分けることが望ましい。「restoration」を含む用語・関連する用語
「RESTORATION 通販」とは
「RESTORATION 通販」は、ファッションアイテムや雑貨などの修復やリメイクを行った商品をインターネットを通じて販売するサービスである。例えば、古着のTシャツをリメイクした商品や、ドンキホーテで販売されている修復用の製品などが該当する。「restoration」の使い方・例文
1. The restoration of the old building took several years to complete.(古い建物の修復には数年かかった。) 2. The museum is currently undergoing a major art restoration project.(その美術館では現在、大規模な美術品修復プロジェクトが進行中である。) 3. The government is working on the restoration of the natural environment in the affected area.(政府は被災地の自然環境の回復に取り組んでいる。) 4. The patient's health showed significant improvement after the restoration therapy.(患者の健康状態は、回復療法の後、大幅に改善された。) 5. The restoration of the damaged painting was a challenging task for the conservator.(損傷した絵画の修復は、修復専門家にとって難題であった。) 6. The company is focusing on the restoration of its reputation after the scandal.(その企業は、スキャンダルの後、評判の回復に注力している。) 7. The city is planning a restoration project for the historic district.(その都市は、歴史地区の修復プロジェクトを計画している。) 8. The restoration of the old documents required specialized techniques.(古い文書の修復には、特殊な技術が必要であった。) 9. The community is working together to support the restoration of the local park.(地域社会は、地元の公園の回復を支援するために協力している。) 10. The restoration of the damaged ecosystem is a long-term process.(損傷した生態系の回復は、長期的なプロセスである。)王政復古
王政復古(おうせいふっこ、英語: restoration)は、共和制や武家支配などによって支配の座を追われていた君主制が再び旧体制を復活させることを指す[1]。通常はイングランドにおける共和政崩壊後のチャールズ2世の即位、フランスにおけるナポレオン1世没落後のルイ18世の即位、日本の明治維新、以上三つのいずれかを指すことが多い[1]。
ヨーロッパ
イギリス(イングランドおよびスコットランド)
ジェームズ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリザベス | チャールズ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゾフィー | チャールズ2世 | メアリー | ジェームズ2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョージ1世 | ウィリアム3世 | メアリー2世 | アン | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ハノーヴァー朝) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1642年にイングランドで清教徒革命が起こった。革命の指導者オリバー・クロムウェルは1649年にチャールズ1世を処刑し、王政が廃止された。議会派はクロムウェルを護国卿に任命したが、その死後に護国卿を継承した子のリチャード・クロムウェルには政治力が無く、自ら辞任を申し出た。そのため、議会はチャールズ1世の子チャールズ2世に王権を返還し、1660年にステュアート朝が復活した。
フランス
(ブルボン朝) アンリ4世1 | |||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ13世2 | |||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ14世3 | (オルレアン公) フィリップ1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ | |||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ | (スペイン王) フェリペ5世 | ||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ15世4 | (スペイン | ||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ | |||||||||||||||||||||||||||||||
ルイ16世5 | ルイ18世6 | シャルル | |||||||||||||||||||||||||||||
ルイ17世 | □ | (オルレアン朝) ルイ | |||||||||||||||||||||||||||||
アンリ5世 | |||||||||||||||||||||||||||||||
1792年8月10日、フランス革命政府は国王ルイ16世を逮捕し王権を停止。翌1793年に国民公会がルイ16世の処刑を議決しギロチンで処刑した。以降フランスは共和政となった。
軍人であったナポレオン・ボナパルトは、革命後の混乱と武功を背景に、ブリュメール18日のクーデターによって統領政府の第一統領として実権を掌握。1804年5月の元老院決議、同年11月の国民投票を得て「フランス人民の皇帝」としてボナパルト朝を開闢した(フランス第一帝政)。1812年のロシア戦役での大敗により転機が生じ、第六次対仏大同盟の前に大敗を喫し、1814年3月のパリ陥落に至る。ナポレオン1世はフォンテーヌブロー条約によって退位し、エルバ島へ追放された。
諸外国の利害の不一致や内外の混乱を前に、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール元外相の画策により、ルイ16世の弟ルイ18世が1814年憲章を公布してブルボン朝を復興した。翌1815年、ナポレオン1世はエルバ島を脱出し、3月にパリに入城して復位する。ルイ18世は再び国外へ亡命するが、ナポレオン1世がワーテルローの戦いで敗北して失脚(百日天下)すると、帰国した。1824年にルイ18世は崩御し、王弟シャルル10世が即位した。しかし反動政治によって、1830年に七月革命によって廃され、ルイ・フィリップが即位してオルレアン朝が成立したが、1848年に二月革命によって王政は廃止された。
ナポレオン1世の甥であるルイ・ナポレオンは、二月革命による王制廃止後に帰国し、同年12月に知名度、資金力、両王党派(正統王朝派とオルレアン派)の支持により大統領に当選する。1852年1月、1852年憲法を制定して独裁体制を樹立し、同年12月に国民投票を経て皇帝即位を宣言した(第二帝政)。外交的成功により支持を受けたが、メキシコ出兵の失敗を経て、1871年に普仏戦争で完敗を喫し、退位を余儀なくされた。
ナポレオン3世退位後の選挙でパリ以外の選挙区で王党派が勝利、王党派のパトリス・ド・マクマオンが大統領に就き、両王党派もジャンポール伯アンリ・ダルトワ(シャルル10世の孫。アンリ5世と称す)を擁立することで話が着き、事実上王政復古が完了した状態にまでこぎ着けた。しかし、当のジャンポール伯が即位の条件として要求されたフランスの三色旗の受け入れを頑なに拒否した結果、千載一遇のチャンスを逃し水泡と化した。ジャンポール伯の頑迷さに失望したレジティミストと、利害の一致で手を組んだだけのオルレアニストはジャンポール伯の死後にパリ伯フィリップ(ルイ・フィリップの孫。フィリップ7世と称す)の擁立を考えるも、1883年にジャンポール伯が亡くなった時、既に共和制容認論が世論に広がっており、選挙で共和派に敗北し王政復古の望みは潰えた。
以後、フランスには共和政が定着し、今日に至る。
スペイン
1873年2月に王制が廃止されて共和政(第一共和政)が短期間敷かれていたが、1874年12月に最初の王政復古が行なわれて共和制が廃止された。
1931年の自治体選挙で共和主義派が勝利したのを受けてボルボン朝のアルフォンソ13世が退位、第二共和政が成立した。
しかし政情は安定せず、スペイン内戦の後にフランシスコ・フランコの独裁体制(フランコ政権)が1939年に固まった。フランコ自身は王政復古を望んでいたが、王位継承権者であるバルセロナ伯フアンがフランコ体制を支持せず、フランコ自身が首相と摂政を兼ねる総統に就任して全権を掌握する独裁体制が続いた。その後、1967年にバルセロナ伯の息子フアン・カルロスが国王候補に指名され、1975年にフランコが死去するとブルボン朝による二度目の王政復古が行なわれた。
ポルトガル
1580年、ポルトガル王国はエンリケ1世を最後にアヴィス王朝の男系が断絶し、姻戚関係にあったフェリペ2世(母がポルトガル王女イサベル、妃が同マリア・マヌエラ)が首都リスボンを陥落させ、スペイン王国との同君連合を成立させた。
1640年のポルトガル貴族の叛乱を皮切りに、アヴィス王朝の支流であるブラガンサ家(アヴィス朝初代国王ジョアン1世の庶子アフォンソが祖)のジョアン4世が推戴され、1660年のイングランド王政復古の影響も受けつつ、1668年のリスボン条約によりスペインからの独立(ブラガンサ家の正統性の承認、植民地の回復)を果たした。
一連の戦争は『喝采戦争』と呼ばれていたが、19世紀に『王政復古戦争』の名が付いた。
ギリシャ
ギリシャ王国では1923年に総選挙で共和派が勝利した。翌1924年12月の国民投票で共和制への移行が決定し、国王ゲオルギオス2世は亡命した。しかし汚職の横行と世界恐慌の影響で政治的に行き詰まり、1935年11月3日の国民投票で王政復古が決定した。
その後、1967年にパパドプロス大佐のクーデターによって国王コンスタンティノス2世が追放され、1973年に共和制の復活が宣言され、翌1974年12月の国民投票でも承認された。
アジア
日本
- 建武の中興
元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒して政権を奪還し、建武の新政を始めた。天皇親政の官僚国家の樹立が目指され、関白・摂政の廃止、雑訴決断所以下各部局の新設、国司・守護の併設などの統治機構整備が行われた。延喜・天暦の治への復古を理想としたが、武士階級の反発を招いて短期間で崩壊した[2]。
- 明治維新
江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の大政奉還を受け、慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇より王政復古の大号令と呼ばれる天皇親政宣言が発せられた。その中で(1)(慶喜の)将軍職辞職を勅許、(2)江戸幕府の廃止、摂政・関白の廃止と総裁、議定、参与の三職の設置、(3)諸事神武創業のはじめに基づき、至当の公議をつくすことが宣言された[3]。
同日開かれた小御所会議で慶喜の辞官と納地の返還を命じられたことで、朝廷軍と幕府軍の武力衝突(戊辰戦争)が生じたが、翌年までに朝廷軍が勝利し、その間の明治元年1月15日(1868年2月8日)に各国公使に王政復古が通告され、中央政府機構の整備が行われた[3]。神武創業を掲げて古代王制への復古を理想とした。[3]。
中国
辛亥革命後の1917年(民国6年)に、清朝の廃帝である愛新覚羅溥儀が、再び皇位に復帰した。この時に、溥儀の治世で使われた元号である宣統が再使用され、年表記が「民国6年」から「宣統9年」に変更された。この溥儀の復位は張勲復辟と呼ばれている。しかし溥儀の復辟は12日間で撤回され「民国6年」に戻った。
カンボジア
1970年3月17日、当時の国王ノロドム・シハヌークが外遊中に、ロン・ノルによるクーデターによって王制が打倒され、クメール共和国が樹立。以後、民主カンプチア、ヘン・サムリン政権、カンボジア内戦等の激動の歴史を経て、国民議会総選挙により1993年に立憲君主制を採択。シハヌークが国王に復位し、王制復古が実現した。
ネパール
1951年
ネパール王国のゴルカ朝(シャハ朝)では、1846年以来ラナ家が独裁権力を掌握して宰相を世襲し、シャハ家は名目のみの王家となっていた。1950年、トリブバン国王はインドに亡命。宰相モハン・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナはトリブバンの孫で3歳のギャネンドラを国王に擁立するが、これは周辺諸国の承認を得られなかった。
1951年2月、トリブバン国王はインドから帰国すると、104年間にわたるラナ宰相家による支配の終わりを宣言した。なお、廃位されたギャネンドラは50年後の2001年に発生したネパール王族殺害事件後に復位することになる。
2005年
2005年2月1日、ギャネンドラ国王は、シェール・バハドゥル・デウバ首相を解任、議会を無期限解散し、国王による直接統治(国王親政)を宣言。立憲君主制から絶対君主制への「復古」を行った。しかしこれは反独裁運動の高まりを招き、2006年4月に親政は終焉する(ロクタントラ・アンドラン)。
旧王族が権威・権力を再度得た例
政体としての王政復古に至らないが、旧王族が権威または権力を再度得た事例に、以下がある。
- ルーマニア国王 ミハイ1世
- 1927年に即位、王位継承権を放棄していた父の帰国により、1930年に退位。1940年に復位したが実権を行使できず、第二次世界大戦には枢軸国側で参戦したため、ソ連の占領を免れず、ルーマニア社会主義共和国の成立に際し、1947年12月に退位し亡命した。亡命中にブルボン=パルマ家のアンヌ・アントワネットと婚姻し、個人的に西側諸国王室との人脈を築く。共産党政権崩壊後の1997年に市民権を得、2001年からは共和国政府により住居や生活費の保証を受けるとともに、公式に「陛下」の敬称で呼ばれた。2017年に逝去。
- ブルガリア国王 シメオン2世
- 第二次世界大戦中の1943年に即位、1946年にブルガリア人民共和国成立に際し、国外へ亡命。共産党政権崩壊後の1996年に帰国し、2001年から2005年までブルガリア共和国首相に就任した。
王政復古の動き
ポルトガル
ジョアン4世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アフォンソ6世 | ペドロ2世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョアン5世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョゼ1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリア1世 | ペドロ3世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ジョアン6世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ペドロ4世 (ブラジル皇帝ペドロ1世) | ミゲル1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(ザクセン=コーブルク=ゴータ家) フェルナンド2世 | マリア2世 | (ブラジル皇帝) ペドロ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
ペドロ5世 | ルイス1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カルロス1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルイス・フィリペ | マヌエル2世 | マリア・フランシスカ | ドゥアルテ・ヌノ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドゥアルテ・ピオ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ポルトガル王国(ブラガンサ王朝)では、1826年にジョアン6世が崩御すると、実質的な長男であったブラジル皇帝ペドロ1世が継承権を持ったが、彼は王位を辞退し、娘のマリア王女を王位につけようとした。そのため、ペドロ1世の弟であるミゲル1世と対立し、1828年にポルトガル内戦が勃発した。最終的にミゲル1世が敗北し1834年に追放された。以後、女王マリア2世の子孫が王位に就いていたが、1910年に王政が廃止され、追放された。最後の国王マヌエル2世には、子孫はいない。
こうした経緯から、王政復古支持者もミゲル1世の子孫を支持するミゲリスタと、ブラジル皇帝ペドロ1世の子孫を支持する立憲派に分裂していた。しかし、ミゲル1世の孫ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサは、マヌエル2世から立憲派王位請求者の地位を引き継ぎ、さらにブラジル皇帝ペドロ1世の子孫であるマリア・フランシスカと婚姻したことから、ブラガンサ家の王位請求者はドゥアルテ・ヌノ次いで、その子であるドゥアルテ・ピオ・デ・ブラガンサに一本化されている。
1950年になって、ポルトガル共和国は1834年と1910年の追放令を撤回し、ドゥアルテ・ピオの帰国が叶った。2019年、ポルトガル議会に、ドゥアルテ・ピオに国家の儀礼的代表の地位を与える法律案が提出された[4] 。
ブラジル
ブラジルは、過去、帝国だった。最後の皇帝ペドロ2世の子孫は、今でもブラジル国内に住んでおり、ブラジル国民の中には、ペドロ2世の子孫の皇位復活運動を展開している者もいる。保守傾向の社会民主党議員の中にも、帝政復活を支持する議員がいる。1993年、ブラジルでは統治形態に関する国民投票が行われ、3分の2が共和制を選択する一方、13.2%は君主制を選択した[5]。2018年現在のブラジル帝室の長はペドロ・カルルシュである。
脚注
- ^ a b 世界大百科事典 王政復古 (コトバンク)
- ^ 百科事典マイペディア 建武新政 (コトバンク)
- ^ a b c 百科事典マイペディア 王政復古 (日本) (コトバンク)
- ^ Espada, Maria Henrique (2019年6月19日). “D. Duarte tem direito a lugar no protocolo de Estado? Ainda falta muito… [Does Dom Duarte have the right to a place in the protocol of the state? Still a long way to go...]” (ポルトガル語). Sábado 2020年11月23日閲覧。
- ^ PAUL KIERNAN (2016年6月26日). “ブラジル、混乱解決の切り札は「王制復活」?”. ウォール・ストリート・ジャーナル 2020年10月12日閲覧。
関連項目
重祚
重祚(ちょうそ)とは践祚(せんそ)を重ねること[注釈 1][1]。つまり退位した君主が再び践祚して君主になること。「じゅうそ」とも言う。
日本の天皇
重祚した天皇は2人。退位した皇極天皇が重祚して斉明天皇に、退位した孝謙天皇が重祚して称徳天皇に成っている。
皇極天皇の場合は、子の中大兄皇子(天智天皇)の政治的思惑による時間稼ぎである。孝謙天皇の場合は自身の政治的思惑から皇位を譲った皇子(淳仁天皇)を廃位して重祚している。
後醍醐天皇は元弘の乱によって隠岐に配流となり、代わって光厳天皇(現在では北朝天皇とされている)が即位したものの、後に隠岐を脱出し帰京した後醍醐天皇によって光厳天皇の在位は否定された。光厳天皇の治世を挟んでの後醍醐天皇の前後2回の治世を重祚とみるかどうかは諸説がある。北朝を正統とする立場であっても、後醍醐天皇を重祚とするかどうかは歴史書によって異なり、光厳天皇の治世をはさんだ後醍醐天皇の重祚と見てこれを2代分に数える歴史書と、重祚とみなさず前後あわせて1代と数える歴史書とが併存している。一方、南朝を正統とする立場においては、隠岐に配流となっていた期間も後醍醐天皇の在位は継続しており重祚ではなく、光厳天皇の在位は無かったことになっている。ただし光厳天皇は建武政権においても上皇として処遇されていた。
明仁が2019年4月30日に退位し皇室典範制定後初の上皇となったが、天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3条により、皇位継承権を有しないので重祚できない。
中国の皇帝
中国では、7世紀末から8世紀始めの、唐における武則天登位、建国(武周)の前後において、中宗・睿宗が即位後に武則天により退けられた。晩年の武則天による譲位で中宗が皇帝に復位し、中宗の後に睿宗が復位している。
また、明の英宗が土木の変でオイラト軍に囚われると、朝廷では弟の景泰帝を帝位につけ、帰還後の英宗は幽閉していた。後に奪門の変の結果、英宗は再度即位している。明の皇帝は一世一元の制があるため、元号を冠して呼ぶのが習いであるが(永楽帝など)、英宗は第6代と第8代の重祚を行い、元号を2つ使ったため廟号で英宗と称されることが多い。ただし、元号を用いて正統帝、天順帝と呼ぶ場合もある。
清朝の宣統帝は辛亥革命で退位した後に満洲国の皇帝に即位したが、形式上も実質的にも中国の支配をしていたわけではない(表向きには「満洲民族が独立国を作った」という形)ため、これは一般には重祚とみなされない。また、満洲国以前に清朝の再興と宣統帝の復位の企てがあったが、これは張勲復辟と呼ばれる。
朝鮮の王
朝鮮では、13世紀末から14世紀半ばの高麗が元の従属国化された時期に、元の宮廷の意向によりしばしば王位を王世子に譲らされたり復位させられたりした。このため、宮中の混乱と元への依存が深まり、王朝衰退の要因となった。
ベトナムの皇帝
ベトナムでは、16世紀の黎朝後期に東京鄭氏の傀儡の淵皇帝・黎神宗が重祚している。
その他
通常は重祚と呼ばれることはないが、その他の国々においても類例がある。
- 紀元前1世紀ユダヤのハスモン朝の王ヨハネ・ヒルカノス2世は、紀元前67年の即位直後に兄弟のアリストブロス2世のクーデターに敗れ退位する(紀元前66年)が、家来のアンティパトロス(後のヘロデ大王の父)は、彼を担いでローマのポンペイウス将軍とアリストブロス2世を攻撃して倒し、紀元前63年にヨハネ・ヒルカノス2世はもう一度王座についた。
- 15世紀のスウェーデンにおいて、カール8世は宰相から王位に登ったが、クリスチャン1世や反対派の貴族・教会との抗争により2度追放を受け、2度復位した。
- 17世紀末から18世紀初めのポーランド=リトアニアにおいて、アウグスト2世とスタニスワフ1世が王位を争い、結果として交互に2度王位についた。
- 18世紀のスペイン・ブルボン朝初期において、フェリペ5世が幼い息子ルイス1世に一旦譲位した後、ルイスの夭逝により復位した。
- 第一次世界大戦期のギリシャ王国において、コンスタンティノス1世が次男のアレクサンドロス1世に譲位して自身は亡命したが、アレクサンドロスの早世後に復位が認められた。ただし、その後再び退位・亡命している。
- 20世紀前半のルーマニア王国において、王位継承者であった父の継承権放棄と国外逃亡によってミハイ1世が王位につくものの、父が3年後に帰国しカロル2世として王位につき、ミハイは退位させられた。その10年後にカロルは退位・亡命し、ミハイが復位した。
- カンボジアのノロドム・シハヌークは、1941年から1955年と1993年から2004年の2度にわたり王位についた。シハヌークは他にも生涯に数多くの政治的地位についており、ギネスブックが「世界の政権で最も多くの経歴を持つ政治家」と認定している。
- ネパールのギャネンドラは、祖父のトリブバンが国政の実権を握るラナ家と対立して1950年に一族を連れてインドに亡命した際に国内に取り残され、ラナ家によって新国王に擁立されたが、翌1951年国際社会の支持を受けたトリブバンが帰国するとギャネンドラは退位させられた。ところが、その50年後の2001年に発生したネパール王族殺害事件で兄とその子供達が死亡したためにギャネンドラがその王位を継承する形で復位した。しかし、議会や国民との対立から「ロクタントラ・アンドラン」と呼ばれる民主化運動を招き、2008年に王制廃止・ギャネンドラの退位に至った。
脚注
注釈
- ^ 「践祚(せんそ)=事実上即位」と「即位=正式即位」とは別なのだが現在では同一視されている
出典
- ^ 天皇家系譜総覧(歴史読本)
関連項目
- RESTORATIONのページへのリンク