関連する事件・事故
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2003年(平成15年) - JR中央線高架化工事に際し、三鷹駅 - 国分寺駅間で踏切の横断距離が延び、また、遮断時間が工事前よりも増える箇所が出るなどしたため、一時期社会問題となった。その後、切替工事が進んだため、横断距離は多くの箇所で以前と同程度に戻り、2009年(平成21年)12月の線路切替工事で全て高架となり、同区間内の踏切は全廃となった。 2005年(平成17年)3月 - 東武伊勢崎線の竹ノ塚駅近くの踏切において踏切保安係の誤操作が原因で人身事故が発生。担当の保安係1名は通行者からの苦情を避けたいがために規則を無視して自らの判断で遮断棒を上げ下げする行為を日常的に繰り返しており、事故を機に明らかになった係る事実は大いに問題であった。その後、事故の原因となった保安係は業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴され、禁錮1年6か月の実刑判決を受けた(東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故も参照)。該当の踏切の開閉は[いつ?]自動化されたが、踏切の解消に向けて連続立体交差事業が進められている。 故障灯が付いた踏切 広島市東区中山にある、中山踏切。2007年撮影。 10月 - 東海道本線(京浜東北線・東海道線)の大森駅 - 蒲田駅間の開かずの踏切で発生した死傷事故では、列車ダイヤの乱れが原因で30分以上遮断機が下り続け、踏切に「こしょう」(故障)との表示が出ていた。これは踏切の故障でなくとも遮断機が30分以上下りていた場合は自動的に表示されるが、この表示が原因で「踏切の故障で遮断機が下り続けている」と通行者の誤解を受けたのではないかとの指摘がなされ、JR東日本では踏切の故障表示について見直しをするとの発表を行った。なお、これと同類の事故が2006年(平成18年)3月に東海道本線(JR東海・名古屋地区)三河大塚駅 - 三河三谷駅間の踏切でも発生した。これらの事故を受け、国土交通省は「こしょう」の表示を廃止するよう全国の鉄道事業者に指示した。 2006年(平成18年)7月 - 東武東上線の池袋駅 - 北池袋駅間および埼京線の池袋駅 - 板橋駅間の開かずの踏切で東上線の池袋発志木駅行き下り普通列車に親子がはねられる事故が発生、母親は死亡し子供は重傷を負った。この親子は遮断機が下りていた踏切をくぐった男性に続いて踏切内に進入した模様。この踏切は以前から遮断機が下りている状態での歩行者の横断が目立っていて、2001年(平成13年)にも男性が埼京線の列車にはねられる死亡事故が起きていることも明らかになっている。また、事故当日は併走する埼京線のダイヤが乱れ、70~80分間も踏切が開かない時間があった。 2008年(平成20年)8月 - 東海道本線(JR京都線)の摂津富田駅 - 茨木間にある富田村踏切で、踏切内に入っていた男性が高槻駅発新三田駅行き下り普通電車にはねられ死亡した。この踏切は、2007年(平成19年)9月に、電動車椅子の男性がはねられて死亡するなど、事故による死者が2005年以降だけで5人に上っていたため国土交通省では抜本的な対策を講じるようにJR西日本に要求してきており、 これを受けて同社は、「開かずの踏切」の状態を緩和するため、列車種別に応じて遮断時間を変え閉塞時間を最小限に抑える新システムを2008年(平成20年)秋に導入することを発表した矢先の事故であった。 2009年(平成21年)1月 - 阪急京都線の南方駅の隣に位置する御堂筋東踏切で、高校1年生の女子生徒が、正雀車庫から梅田駅に向かう下り回送電車にはねられ死亡した。この女子高校生は上りの梅田駅発北千里駅行きの普通電車が通り過ぎた後に遮断機をくぐり踏切内に入り込んだ。この踏切は地元では開かずの踏切として知られていた。事故に遭った女子高校生は、実用英語技能検定試験を受験するために待ち合わせ場所へ向かうため急いでいた。 2013年(平成25年)5月5日 - 10時50分頃、広島県広島市西区の山陽本線と広島電鉄の踏切で、踏切待ちの長さに立腹した男が遮断棒を切断し逮捕された。 2015年(平成27年)2月12日 - 2014年12月22日0時15分頃に大和西大寺駅付近の踏切で列車に投石したとして、当時49歳の男が列車往来危険と器物損壊の疑いで逮捕され、「遮断機が上がらず腹が立った」と供述した。
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関連する事件事故
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「嘉手納弾薬庫地区」の記事における「関連する事件事故」の解説
1969年7月18日: レッドハット毒ガス事故 - 知花弾薬庫内の「レッド・ハット・エリア」で第267化学部隊が定期メンテナンス中、化学兵器から少量のGBガスが漏出し、兵士及び民間人合わせて24名が中毒症状を示したことがアメリカ公文書館の記録の記録に残されている。そのVXガス漏れ事故7月18日にウォール・ストリート・ジャーナルが記事にして問題となる。 1971年1月1日~9月7日: レッドハット作戦 - 第267化学部隊が、150トンの化学兵器をジョンストン島に移送するため、知花弾薬庫から天願桟橋への輸送準備を行ったこと。ブチルスーツを着た第267化学部隊の隊員は、GBガス(サリン)漏れを検知するため、化学兵器庫1828号でウサギを使った。ウサギは全部後から殺処分。 「レッドハット作戦」を参照 1972年6月26日 知花弾薬庫で、CSガス (催涙ガス) の袋を運搬作業中にその袋の一部を破損したためガスが漏れ、米兵数人と日本人従業員1人が被害を受けた。11月7日 知花弾薬庫で草刈り作業のためクレーダーを操作中、CS剤の入った袋を破損したため、ガスが漏れ日本人従業員2人が被害を受けた。 1973年1月11日 読谷村(座喜味、喜名、伊良皆、古堅)旧読谷合同廃弾処理場において、CS-1剤が中和作業中に漏れたため、授業中の読谷高校等、広範囲にわたる数十人の住民が眼、鼻、のどの痛みを訴える被害を受けた。 1975年7月9日 嘉手納町旧知花弾薬庫地域の廃弾保存庫内で爆発事故が発生し、建物が吹き飛ばされ、付近約 100m四方に破片が飛散した。この爆発で火災が起こり、付近の原野が翌未明まで燃え続けた。 1978年5月 読谷村基地内の工事等によって降雨時に赤土が流出し、比謝川から残波岬まで広範囲に汚染された。 1983年4月1日 嘉手納町県道74号線沿いの嘉手納弾薬庫地区内で、廃棄物を土で埋める作業をしていた米軍のブルドーザーが下水道管を破損。 1994年4月4日 第18航空団第44戦闘中隊所属のF-15C戦闘機が、離陸直後に嘉手納弾薬庫地区内の黙認耕作地に墜落炎上。乗員は脱出。 1996年8月19日 沖縄市白川の嘉手納弾薬庫地区内の黙認耕作地で、米軍管理のマンホールから汚水が流出。 1998年8月12日 嘉手納弾薬庫内の黙認耕作地排水パイプが破裂し、汚水流出。大雨による土砂崩れで配水管破裂が原因。 2000年1月5日 知花住宅地区のボイラー室から油が漏れて比謝川へ流れ出る。比謝川ポンプ場で取水が18時間停止された。 2002年12月9日 泡瀬ゴルフ場の移設先である嘉手納弾薬庫地区で文化財の調査中に、機関銃弾1ケース(200発)が発見された。 2010年12月22日 嘉手納弾薬庫地区でジェット燃料40ガロン(約151.4L)流出、うち10ガロン(37.9L)が比謝川に流出した。 2011年8月6日 台風9号の冠水で嘉手納弾薬庫地区内ディーゼル発電機用のディーゼル燃料が流出した。流出量は不明。 2012年3月21日 嘉手納弾薬庫地区内タンクからディーゼル燃料約30ガロン(114 リットル)が流出。
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