紙幣に描かれる人物肖像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 05:40 UTC 版)
紙幣の表面には人物肖像が描かれることが多い。これは、人間が特に人間の顔に関しては、他の図像と異なりごく僅かな差異を識別できる性質を利用したもので、偽札防止技術の一つである。年齢別にみると若者より壮年から老年にかけての人物肖像が多いのも同じ理由からで、単純に皺が多い方が肖像が複雑になり偽造しにくくなるためである。また、女性の肖像が少ないのもそのためで、髭などがあるほうが肖像が複雑になるためである。 紙幣に描かれる人物肖像は、君主制国家では在世中の王侯君主、共和制国家では英雄、偉人と評価されるかつての国家元首、政治家、軍人、探検家、または文化人と評価される作家、芸術家、思想家、教育者、技術者、研究者などの著名人が通例になっており、共和制国家の事例では多くは故人である。立憲君主制国家でも君主以外の存命人物が紙幣の肖像になることは少ない。日本は君主国であるが、天皇の肖像を採用しないことになっており、共和制国家同様の人選となっている。 紙幣肖像に誰を採用するかは発行当事国により意図的に決められるため、フランスのナポレオン・ボナパルトや旧東ドイツのカール・マルクスのように発行当事国にとっては評価にたる人物であっても、他国では評価が一変し憎悪されている人物が選ばれることがある。日本銀行券の場合、C千円券に採用された伊藤博文(初代韓国統監)がこれに当たる。 また、紙幣肖像人物の珍例として、地域通貨ではあるがかつてスイスの一地域で犯罪者、それも贋札犯の肖像の入った紙幣が発行され、流通していたことがある。この贋札犯、公的には犯罪者だが、現地では通貨不足のおり信用できる紙幣を発行して地域経済を安定させた、という評価をされていたためである。 日本においては、1946年(昭和21年)に大蔵省印刷局が、光明皇后、聖徳太子、貝原益軒、菅原道真、松方正義、板垣退助、木戸孝允、大久保利通、野口英世、渋沢栄一、岩倉具視、二宮尊徳、福沢諭吉、青木昆陽、夏目漱石、吉原重俊、新井白石、伊能忠敬、勝安房、三条実美の20人を紙幣の肖像候補としてリストアップした事が確認されている。 紙幣肖像は必ずしも記録写真や肖像画から忠実に版をおこすわけではない。ユーロ移行前のオランダで流通していたギルダー紙幣に描かれていた肖像はモダンアート風にかなりデフォルメされており、あたかもマンガのようであった。また、日本の二千円紙幣・フランスの50フラン紙幣には、肖像を描かれた紫式部とアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが作家である関係で、作品に登場する架空人物も描かれている(源氏物語・星の王子さま)。 さらに、無名庶民の肖像が採用される場合もあり、一例を挙げればかつて共産圏では、象徴的な意味から小額紙幣に労働者の肖像が採用される例が多くあった。現在でも朝鮮民主主義人民共和国の50ウォン以下の紙幣はそのようになっている。2010年現在、北朝鮮の100ウォン以上では人物肖像は採用されておらず、最高額面の5000ウォン紙幣に金日成が採用されている。中華人民共和国にもかつてはそうした紙幣があったが、2010年現在同国の人民元紙幣に採用される人物肖像は全て毛沢東に統一されている。またアフリカ諸国やオセアニアの島嶼国家にも無名庶民の肖像を記した紙幣がある。 経済大国の通貨で無名人物の肖像が採用されることはまずないが、その例外として旧西ドイツで1960年代初頭 - 1989年まで発行されていた第3次ドイツマルク紙幣がある。同紙幣は、かつてのファシズム体制の個人崇拝につながるとして、意図的に著名人の肖像の採用を避けていた。この時期のドイツマルク紙幣に描かれた人物肖像はデューラーなどの作品からの採用が主で、例外なく無名の庶民で多くはモデルの名前すらわかっていない。ゆえに、ほとんどの西ドイツ国民は紙幣に描かれた人物がどこの誰であるかまったく知らなかった。5 DM 紙幣に描かれた肖像はデューラー作品からの採用であるが、版元となった作品は「若いヴェネツィア人」と題されており、明らかにドイツ人ではなくその点でも異例である。なお 10 DM, 20 DM 紙幣の肖像もデューラー作品からの採用である。20 DM, 100 DM, 1,000 DM 紙幣に描かれた肖像はモデルの名が判明しているが、どれもそれほど著名な人物とはいえない。50 DM, 500 DM 紙幣の肖像については、モデルはおろか作者が誰かすらわかっていない。しかしこの紙幣はあまり評判がよくなかったらしく、1990年からの第4次ドイツマルク紙幣ではドイツの著名人物肖像が採用されている。また、日本統治下の朝鮮半島で採用されていた朝鮮銀行券のうち1915年に発行された一円・五円・十円券の肖像は、白ヒゲの老人像であったが、モデルは日本人とも朝鮮人とも判明しておらず、「日朝双方で都合良く解釈していたのでは」といわれている。 存命人物の肖像が採用される例は、君主制国家の在世王侯君主以外では、独裁国家で存命中の独裁者が紙幣に自らの肖像を載せている例がよくある。 アメリカのドル紙幣も上記の例に漏れず、肖像には故人となった合衆国の歴代の大統領が多く用いられている。そのため、スラングで(主にヒップホップのライムとして)『デッドプレジデント(死んだ大統領)』と呼ばれることもある。一般的には額面が高額になるほど、そこに描かれる肖像もその名声が評価されている人物が選ばれるが、アメリカのドル紙幣では多くの人の目に触れるという理由から、あえて建国の父ジョージ・ワシントンの肖像を最低額の1ドル紙幣に採用している。この1ドル紙幣は、ほぼ毎年その発行枚数が世界一を記録している。これは同国にチップの習慣など、小額紙幣の需要があるからである。 過去も含め、現在世界でもっとも多くの国家の紙幣に記されている肖像は、現イギリス女王のエリザベス2世である。彼女は即位以降、ほぼ全ての年代の肖像が揃っているという点でも異例である。エリザベス2世以外で複数の国家の紙幣にその肖像が載った人物としては、旧共産圏国家のマルクス、エンゲルス、レーニン、アメリカ大陸国家におけるコロンブスなどが挙げられる。自国以外で紙幣の肖像になった例として、日本の財界人・銀行家の渋沢栄一は、2024年発行予定の日本の新紙幣の肖像に採用されているほかに、経営していた第一銀行の第一銀行券が大韓帝国の紙幣として使用されていた際に、第一銀行券の肖像になっている(日本人としてごくまれな生前に紙幣の肖像になった人物でもある)。 女性の肖像が日本銀行券の表に初めて登場したのは、樋口一葉像のE五千円券だが、日本の紙幣に登場した女性肖像の最初の例は、1881年(明治14年)から1883年(明治16年)にかけて発行された改造紙幣(大日本帝国政府紙幣)に採用された神功皇后である。なおこの肖像は神功皇后の肖像が残っていないため当時お雇い外国人で来日していた画家エドアルド・キヨッソーネにより創作されたものであり、印刷工場で働いていた女中をモデルにしたといわれている。日本の戦前の紙幣には、神功皇后の他にも、武内宿禰・和気清麻呂・藤原鎌足などが採用されたが、いずれも写真や肖像画が残っていない人物であるため、キヨッソーネは日本史で各人の事蹟や人物を研究し、風貌を脳裏に描いてから、それに似合う実在の(当時生きていたあるいは写真が残っていた)人物を探してモデルにして描いたという。 日本で1984年まで発行されていたC一万円券・C五千円券はともに聖徳太子の肖像で、使われている肖像画も同じ絵であった。ただし肖像が印刷されている場所は異なっている。複数種の紙幣に同じ人物が載っている例自体はさほど珍しくないが、C千円券は伊藤博文、C五百円券は岩倉具視で、複数の紙幣のうち2種類だけが同じ人物の肖像だった。 王室が深く崇敬されているタイ王国では、刑務所に収監されている囚人に現金を渡すことは不敬とされ罪に問われる。理由は、同国のバーツ紙幣や硬貨に国王の肖像が記されているからで、囚人に渡すことは、間接的とはいえ国王(の肖像)を牢屋へ入れることになるからである。北朝鮮でも、扱いによっては不敬とされるため金日成の5000ウォン紙幣はほとんど一般に流通していない。
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