紙幣の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:34 UTC 版)
交子、会子(中国語版)も参照 交子の起源は堰坊での預かり手形で、手形が現物同様に交換されていたことに端を発する。交子・会子(中国語版)・関子などの手形が発行され、発行主体は交子鋪と呼ばれた。 更に、四川地方では銅産出量が少なく、銅銭不足を補うものとして鉄銭が用いられたが、鉄銭は実質的には10分の1ほどの価値しか無いため、北宋時代に成都の16の交子鋪が鉄銭とその兌換券(この時点では預かり証書)を発行した。しかし、この交子舗は不渡りを起こして崩壊した。北宋政府はこの発行を引き継ぎ、本銭(兌換準備金)を36万貫、発行限度額を125万余貫として、紙幣として運用した。これが紙幣の創始である。しかしその後、神宗が発行限度額を倍に増やして以降は際限なく発行するようになり、徽宗の治世には発行額が2600万貫となった。兌換は既に停止され、額面1貫が銭十数文程度としか扱われなくなった。その後は銭引を発行したが、南宋時代にはこれも信用失墜により会子に変わった。
※この「紙幣の出現」の解説は、「中国の経済史」の解説の一部です。
「紙幣の出現」を含む「中国の経済史」の記事については、「中国の経済史」の概要を参照ください。
- 紙幣の出現のページへのリンク