紙幣の基本貨幣化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:42 UTC 版)
「中国の貨幣制度史」の記事における「紙幣の基本貨幣化」の解説
モンゴル帝国のオゴデイは、江南が勢力外だった当初は銅が不足したため紙幣の交鈔を50万貫発行した。オゴデイの時代には、他のモンゴル族や漢人も紙幣を発行した。モンゴル帝国はクビライの時代に元が成立して、 クビライは即位すると中統元宝交鈔(中統鈔)を発行した。交鈔は宋の紙幣と異なり有効期限を持たず、補助貨幣ではなく基本貨幣とされた。交鈔は金銀との交換(兌換)が保障されている兌換通貨であり、元は決済上の利便性から紙幣の流通を押し進めた。交鈔の流通を拒んだり、偽造をする者は死罪となった。中統鈔は年間350万貫の発行を15年間続けたのち、南宋の征服後は江南に紙幣を流通させるために年間6000万貫に急増した。同時に元は江南で銅貨の使用を禁止して没収した。 中統鈔が次第に増えたため、インフレーション対策として中統鈔の五倍の価値に当たる至元鈔の発行と旧紙幣の回収が行われ、紙幣価値は一旦安定に向かった。しかし、次第に紙幣が大量発行されてインフレーションを引き起こし、金銀との兌換も中止された。元では交鈔の価値を維持する為、生活必需品である塩の専売制と結び付け、塩の売買には交鈔を用いなければならないと定めた。国内の治安悪化にともない紙幣の価値は下がり、民間の店舗で貨幣を発行するところも現れて、塩を包む紙や塗油した木片が使われた。紙幣に代わって銅貨が流通するようになり、地方に独立政権が成立して独自に貨幣を発行した。のちに明を建国する朱元璋も独立政権の1人であり、朱元璋は明の建国前から銅貨を発行して、元の紙幣との比価も定めて流通させた。 モンゴル帝国の紙幣は元以外にも影響を与え、モンゴル帝国の地方政権であるイルハン朝では西アジア初の紙幣としてチャーヴ(鈔)が発行された。しかしチャーヴの流通は長続きせず、2カ月で廃止された。日本では後醍醐天皇が乾坤通宝という新貨を銅貨と紙幣で発行を計画したが、政権の崩壊で実現しなかった。李氏朝鮮では太宗時期に楮貨という紙幣が発行され、李氏朝鮮が発行した最初の貨幣となった。
※この「紙幣の基本貨幣化」の解説は、「中国の貨幣制度史」の解説の一部です。
「紙幣の基本貨幣化」を含む「中国の貨幣制度史」の記事については、「中国の貨幣制度史」の概要を参照ください。
- 紙幣の基本貨幣化のページへのリンク