法的根拠と公平性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 09:06 UTC 版)
「極東国際軍事裁判」の記事における「法的根拠と公平性」の解説
極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際してハーグ陸戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動であり戦争行為に含まれる。また、ポツダム宣言を受諾したことにより、相手側の裁判権に服し、彼らの採用する法規によって裁かれることになる(戦勝国側の軍法・軍律・一般法令だけでなく、彼らが敗戦国側のそれらを代理行使することもありうる)。尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。戦争犯罪の処罰についてはポツダム宣言10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の戦争犯罪概念が拡張され検討されたことに特徴がある。 キーナン検事は、来日直後、報道陣の質問に答えて裁判で適用されるのは文明国の慣習法となるであろうとした。 裁判中に管轄権忌避動議として持ち出された実定法上の裁判管轄権の根拠につき、ウェッブ裁判長は弁護側の動議を却下した上で、理由は後で回答するとしたまま保留され、最後に判決とともに開示されることとなったが、極東国際軍事裁判所自体は、まず、その根拠を「裁くことは認められない」との主張は極東国際軍事裁判所条例によって裁判所自体が却下しなければならないとの形式論で処理した。その上で、しかしながら裁判所の権能も無制約ではなく国際法の範囲によるとし、補足的に、実体的な正当性の根拠として、ニュールンベルク裁判にならって、裁判所条例は既に存在する国際法を表示したものであること、1928年のパリ不戦条約に調印または加盟した国は国家政策の手段として戦争を起こした国は国際法違反であること、また多くの国で国家の代表者といえど個々人が国家行為であることを理由に法違反を犯すことは認められていないことを理由とした。回答が遅れた理由については、ウェッブが実体的な根拠を示すことにこだわった事に対し他の裁判官がそれに理由内容も含めて否定的で意見が纏まらなかったこと、ウェッブが一部裁判官の画策により一時帰国する事態に至った(当時、日本の報道陣の一部ではウェッブが正当性根拠があげられず逃げたように受けとめた向きもあった。)こと等が、挙げられている。 なお、仮に国際実定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、法廷そのものの管轄権に実定法上の根拠がない「事後法」により設置され、また連合国側の戦争犯罪は敗戦国側は事実上法廷では提訴する権利や機会がなく「法の下の平等」がなされていないのではないかという問題がある。 また本裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかったという意見がある。 こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、次段のとおり国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者も多い。当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。ただし、罪刑法定主義や法の不遡及は国際法を構成する要素として重要な慣習法という概念に真っ向から対立するので、法の不遡及に強く拘るなら、国際法自体がその存在を否定されることになると本田稔は指摘する。 国際法学者ハンス・ケルゼンは「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。敗戦国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである」と敗戦国の戦犯裁判を批判した。 国際法学者クヌート・イプセンは「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力をもっていた国際法に基づくものではなかった」とし、戦争について当時個人責任は国際法的に確立しておらず、事後法であった極東国際軍事裁判条例は「法律なければ犯罪なし」という法学の格言に違反するものであったとした。ミネソタ大学のゲルハルト・フォン・グラーンもパル判事の意見を支持し、当時パリ協定の盟約・不戦条約があったとはいえ主権国家が「侵略戦争」を行うことを禁止した国際法は存在せず、「当時も今日も、平和に対する罪など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」とのべている。 イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿(英語版)は国際連合裁判所についての規定「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない」(世界人権宣言第11条第2項) を引合いに出し、「戦勝国の判事のみでもって排他的に構成された裁判所」は「独立の公平な裁判所」とはいえず、枢軸国犯罪人を早急に裁くために設定された裁判所条例や、事後になって犯罪を創設したことは、世界人権宣言第11条第2項規定と相容れず、ドイツと日本の戦犯裁判が「法の規則を設定したという価値は取るに足りぬようにおもわれる。むしろ、重大な退歩させたというべきである」と述べている。しかし、世界人権宣言が採択されたのは1948年12月10日であり東京裁判の後である。 歴史学者ポール・シュローダーは「裁判所の構成、政治的状況、さらに戦後まもない時期の世論の趨勢が一体化して、事件についての冷静で均衡のとれた判決を不可能にした」「歴史家はもしかすると、(裁判所が達した)結論が国際法と正義の発展において多大な前進であったという点については疑わしく思うだろう」と指摘した。 ロンドン大学のジョン・プリチャードは次のように東京裁判の問題点を摘出している。 検察は真実の解明よりも、日本の指導者を厳しく処罰することで日本人を再教育することを目的としていた。 判事たちの多数は検察の主張を鵜のみにして、弁護側の証拠や反証反論を一方的に却下した明確な形跡がある。 通常の戦争犯罪(捕虜、民間人への残虐行為等)は全体の5-10%であり、ドイツよりも比率が低い。 戦争を「侵略」と「自衛」に分けることは困難であり、日本の歴代指導層が一致して侵略戦争を企図した形跡もなく、したがって共同謀議や、「不法戦争による殺人」といった訴因は法的根拠を持っていない。 当時存在しなかった平和に対する罪を過去に遡って適用したり、罪の根拠を1928年のパリ不戦条約に求めることには無理がある。 ただし、第一次世界大戦終結後に戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議された際に、米英仏日伊の5か国は1919年のパリ講和会議に先だって行われた平和予備会議において、国家元首をも含む戦争開始者の訴追や対象が複数国にまたがる残虐行為戦犯を裁くための裁判所を設置するなどの報告書を提出している。また実際のヴェルサイユ条約においても「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を訴追するという第227条に反映されており、この時点で侵略戦争を裁こうとする前例が既に存在し、ウィルヘルム2世自身はオランダに亡命し裁判は行われなかったものの、一部の者については裁判、処罰が行われている。これをもって、国際法上処罰の対象とする前例が出来たとする見解もある。 多数意見である極東国際軍事裁判判決書においては、「この条約の批准に先立って、締約国のあるものは、自衛のために戦争を行う権利を留保し、この権利のうちには、ある事態がそのような行動を必要とするかどうかを、みずから判断する権利を含むと宣言した。国際法にせよ、国内法にせよ、武力に訴えることを禁じている法は、必ず自衛権によって制限されている。自衛権のうちには、今にも攻撃を受けようとしている国が、武力に訴えることが正常であるかどうかを、第一次的には自分で判断するという権利を含んでいる。ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)を最も寛大に解釈しても、自衛権は、戦争に訴える国家に対して、その行動が正当かどうかを最後的に決定する権限を与えるものではない。右に述べた以外のどのような解釈も、この条約を無効にするものである。本裁判所は、この条約を締結するにあたって、諸国が空虚な芝居をするつもりであったとは信じない。」 とし、弁護側の主張を却下している。
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