没後、共演者・スタッフの追悼
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「渡瀬恒彦」の記事における「没後、共演者・スタッフの追悼」の解説
『十津川警部シリーズ』(1992年-2015年) 伊東四朗が3月16日所属事務所を通じてコメントを発表「私よりずっと若い渡瀬さんが亡くなったことにショックを受けてます。来月ドラマでご一緒するはずでした。『おはようございます』ではなく『お帰りなさい』と言うつもりでしたのに『さようなら』になるとは…。十津川シリーズの五十四本は忘れられない財産です。お世話になりました」 山村紅葉が3月16日所属事務所を通じてコメント発表、3月18日ブログ を更新「『十津川警部シリーズ』などで、25年間、あちこちの断崖絶壁で、その土地の美味しいお料理をご馳走になり、いろんなお話を伺わせていただき、心から尊敬申し上げておりました。突然のことに、悲しみが深すぎて、気の利いたお別れの言葉も見つからず申し訳ございません…」 『タクシードライバーの推理日誌』(1992年-2016年・2017年初夏にパート40の撮影予定があったが叶わずに終わった) 風見しんごが3月16日フジテレビ『ノンストップ!』を通じてコメントを発表「まだ信じていません。僕にとっても大きな大きな方。『くじけるなよ』って何度も肩をぐっと握ってくださった。暖かくなったらまたご一緒させていただいて撮影に入りたい」(風見は2007年当時娘を交通事故で失い、翌年長男死産という憂き目にあう。そんな風見を渡瀬は励まし支え続けた。当時のエピソードが風見の著書『さくらのとんねる』に記されている) 佐藤二朗が3月16日自身のTwitterでコメントを発表「TVで見た日本アカデミー賞の中継と記憶している。候補者一人一人のインタビューで今の気分を聞かれ「(賞を)取りたいに決まってるでしょ」と答えたその人を凄く格好いいと小学生の僕は思った。何度もご一緒したのにそれを言えなかったのが悔やまれる。渡瀬さんの背中は永遠に遠い」 『ちりとてちん』(2007年) 桂吉弥が3月16日所属事務所を通じてコメント発表、17日独演会取材会の席上で思い出を振り返った。桂吉弥の師匠桂吉朝は『ちりとてちん』の2年前に50歳で急逝している。『ちりとてちん』を通じて、吉弥は渡瀬を師匠の吉朝と重ねていたといい、(ドラマの中で)師匠と別れる病室のシーンでは、吉朝へ伝えられなかったことを言えたような気がしたものです と振り返った。 渡瀬のクランクアップで桂吉弥と貫地谷しほりが名残惜しんでいると「はよ(次の準備)せえ」と叱った。後に理由を聞くと、渡瀬さんは「スタッフさんはこの後、セット替えもある、今(吉弥らが)着ている衣装のアイロンがけとかたくさん、やることはあるんだ」と話したという。スタッフを思い、共演者を叱る「優しさ」と「厳しさ」を吉弥は渡瀬から教わった。 ある日、桂吉弥は渡瀬が収録後のカメラテストを確認してないことに気づき、渡瀬へ質問すると「(東映時代の若き日)いきがっていたのか、今のは気に食わないと10回撮り直していた」と振り返り、話し始めた。「その後、監督に呼ばれて、試写室で自分がNGを告げた場面だけを流された。自分が何でNG出したのか、分からん場面ばかりで恥ずかしく、それから監督が『OK』と言えば信じることにした」と教えてくれた。 貫地谷しほりが3月18日「SmaSTATION!!」出演(渡瀬恒彦#没後3月18日参照)、3月19日渡瀬への気持ちをブログ に記した。 『劇場版釣りキチ三平』(2009年) 土屋太鳳が3月16日ブログ で思い出を語った当時渡瀬から「お前は演技はヘタだけど、飯の食い方はいい!きれいに食う!」と大きな笑顔で褒められた という。 当時、土屋が芸能界入りを志すきっかけになった『セーラー服と機関銃』に出演していた渡瀬へ憧れの作品だった気持ちをぶつけた。すると、渡瀬は当時の貴重なエピソードや薬師丸ひろ子の様子などを詳しく土屋に話して聞かせ、感激した土屋は台本の隅にたくさんメモをした。 『北アルプス山岳救助隊・紫門一鬼』(2001年-2009年) 髙嶋政宏が16日所属事務所を通じてコメントを発表した。渡瀬は現場でどうあるべきか全てを教えてくださった巨星。「お前、スタッフは名前で覚えろよ」とか、あるシーンの芝居で悩んでいると「お前そんなに考えて疲れない?」と優しく言ってくれたり、「お前どっちでやるんだ?!早く決めろ!」と叱咤してくれたりした。数年経った頃「あいつも色々、考えてるからよ。俺が考えたラストシーン、高嶋に、まず読ませてやってくれよ」とプロデューサーに言ってくれた時は嬉しかった。とにかく厳しく優しく、現場で台本を持たない、常にそのシーンをどうやったら面白くなるかを考え続けた方でした。 当時のプロデューサー・森田昇が2017年GWにBSジャパンで同作品が追悼一挙再放送されることに伴い4月28日コメント発表「渡瀬さんが撮影現場に入ると、そのプロ意識の高さによって良い意味でスタッフ・キャストに緊張感がみなぎり、段取りや演技などがより良くなりました。常に仕事に厳しく、芝居はピカイチでした」。 「山岳救助隊シリーズ」の醍醐味は、ラストの山頂でのシーン。森田によれば「渡瀬さんのせりふが少なくても、そのシーンを渡瀬さんが全て持って行ってしまうのが印象的でした。それほどの存在感と説得力がありました」 思い出深いエピソードとして「映画でスタントマンなしでアクションシーンを撮るという渡瀬さんの噂通り、かなり標高の高い山の上にもざくざくと進み撮影に臨んでいました。天気の変わりやすい山頂の撮影で、撮影シーンの順番が目まぐるしく変更になっても、素早い対応でこなされていました。撮影の合間には、映画時代の驚くようなお話や、南極など世界中の極地での撮影エピソードなど興味深いお話をたくさん聞かせていただきました」 『おみやさん』(2002年-2016年) 2006年と2012年にゲスト出演した原田龍二が3月16日ブログを通じてコメントを発表した。「京都の撮影所ではよくお会いし、ダンディーと鋭さが同居している魅力的な大先輩として拝見していました。共演した際も、暖かく厳しい目で僕の芝居を受け止めてくださり、嬉しかったことを思い出します。」(原田の他に川岡大次郎、遊井亮子含め スタッフ・レギュラー・ゲスト出演総勢20名以上がSNS上で渡瀬の思い出に触れながら追悼した〔参照:おみやさんの登場人物#鳥居勘三郎を演じた渡瀬恒彦への追悼〕。「おみやさん」のみならずあらゆる作品で渡瀬を支えてきた。) 名取裕子は自身のレギュラーラジオ番組「オールナイトニッポン MUSIC10」2017年3月21日放送分で、渡瀬の死を悼み、共演経験が多かった名取の心中を思いやるリスナーメールを紹介。名取は涙声に詰まりながらも渡瀬の人柄と思い出を偲び「一人ひとりの心の中で、ずっと思っている限り、渡瀬さんはいてくれる。」と語り、リクエスト曲小田和正「さよならは 言わない」をかけた。名取と渡瀬は映画やテレビでたくさん共演作があるが、木曜ミステリー枠を長く主演作で支え、2012年『おみやさん第9シリーズ』第1話で名取演じる鶴丸あやが、『京都地検の女第8シリーズ』第1話で渡瀬演じる鳥居勘三郎がそれぞれ特別出演したのが最後の共演になった。 その他 中江有里は『奇跡の山 さよなら名犬平治』(1992年)で渡瀬と共演した。中江はTwitterで「ご一緒した際、ご自身を鍋将軍と称してすき焼きをふるまってくださったことが思い出深いです。優しくてかっこいい『お父さん』でした」と偲んだ。 安達祐実のデビュー作『REX 恐竜物語』(1993年)では父親役の渡瀬と共演。安達は出演ドラマ会見場で「子供の頃でしたけれど、あいさつの仕方や食事の仕方など人としての基本的なことを教えていただきました。大人になってからも、食事をする機会などで渡瀬さんに言っていただいたことを思い出します。」安達が成人以降、渡瀬と共演した際は「私が体調の悪い時があって、マネジャーづてに番号を聞いて電話をくださって“健康には気をつけなきゃダメだよ”と言ってくださった。いつも強い、お父さんのような存在でした」と唇をかみしめた。 草刈正雄は『真田太平記』(1985年)で共演。渡瀬が真田信之を演じ草刈が弟の真田幸村を演じた。草刈は所属事務所を通じてコメントを発表。「役者として、男として、人として、格好良かった。僕の目標でした。残念です」。 『警視庁捜査一課9係』(渡瀬の出演は2006-2016年まで、以降はVTR出演) 羽田美智子が3月16日所属事務所を通じてコメントを発表、あわせて3月21日ブログを更新。渡瀬の訃報が報道された3月16日撮影が中止され、吹越満の発案で小さなお店にキャストが集まって肩を寄せ合いたくさん話をした様子が紹介。なお、3月31日のブログには羽田含めた9係の全キャストが渡瀬の自宅に弔問へ行った様子が書かれた。「長年ともに過ごさせていただいた『9係』の現場で、渡瀬さんのいすを見詰めながら戻っていらっしゃることを信じて、待ちわびていました。『渡瀬さんの不在はやっぱり寂しいです』と手紙を書こうとしていた矢先の突然の訃報。信じがたいです。たくさんお話したいことがあったのに、、、」。
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