没後の論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:28 UTC 版)
「ローレンス・ヴァン・デル・ポスト」の記事における「没後の論争」の解説
死後、何人かの著述家が、ヴァン・デル・ポストの経歴に関するローレンス自身の言い分がたしかなことなのかと疑問視している。たとえば、明らかになったことに次のようなことある。1952年、南アフリカからイギリスへの船旅の間、彼の庇護にあった14歳の少女との間に子供をもうけた。 「現代の賢人」「グル」といった名声は疑問に付され、複数のジャーナリストが、いかにヴァン・デル・ポストがその旅行記や述懐で事実をときに粉飾しているか、そのいくつもの例を吐き出している。先に指摘したことや他の事実は、J.D.F. ジョーンズの『Storyteller: The Many Lives of Laurens van der Post』(2001年)でまとめて取り扱われているが、本書は、嘘はないにしろ、その大部分は敵意に満ちた伝記である。 反論が、Oxford Dictionary of National Biography におけるヴァン・デル・ポストの記事の執筆者であり、友人でもあるクリストファー・ブッカーによって公にされたが、ジョーンズからの再反論も続いた。 ヴァン・デル・ポストの自伝的な作品は、しばしば人間の人生の意味や「パターン」に関するユングの考えを例証する示唆に富んだものだと理解されており、とはいえ、作品の衝撃的なまでの魅力はローレンス自身の高潔な人柄が根底にあったがゆえだが、こうした暴露によってヴァン・デル・ポストの評判は損なわれてしまった。とはいえ、それでもやはり言い得るのは、戦争捕虜としての年月とその経験に基づいた力強い2冊の作品、それに自然保護者としての働きは、批判の余地のないものとしてあるということである。
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