東京ガスサッカー部
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東京ガスサッカー部(とうきょうガス・サッカーぶ)について、以下の2つがあり、それぞれこの記事内で記載する。
- ^ 当時は全国リーグ参入3年目。JFL内での成績も芳しいものではなく、また、ユースチームも発足していなかった。詳細は#成績およびFC東京の下部組織の項を参照
- ^ 準加盟クラブでは鳥栖フューチャーズが4位、コンサドーレ札幌が5位、ブランメル仙台が6位。
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- ^ 平成5年 第4回 定例会 12月10日-02号 市長(吉尾勝征 君) P.108 調布市議会 議事録
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- ^ “2部3ブロック”. 2003年10月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。 東京都社会人サッカー連盟
- ^ 社会人連盟 大会情報 第38回 東京都社会人リーグ 東京都サッカー協会
- ^ 社会人連盟 大会情報 第39回 東京都社会人リーグ 東京都サッカー協会
- ^ 社会人連盟 大会情報 第40回 東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 社会人連盟 大会情報 第41回 東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 社会人連盟 大会情報 第42回 東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 大会情報 第43回東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 大会情報 第44回東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 大会情報 第45回東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 社会人連盟 大会情報 第46回東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 社会人連盟 大会情報 第47回東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 社会人連盟 大会情報 第48回東京都社会人サッカーリーグ 東京都サッカー協会
- ^ 大会情報 第49回東京都社会人サッカーリーグ2部2ブロック 東京都サッカー協会
- ^ 大会情報 第50回東京都社会人サッカーリーグ2部1ブロック 東京都サッカー協会
- 1 東京ガスサッカー部とは
- 2 東京ガスサッカー部の概要
- 3 脚注
東京ガスサッカー部(1935年 - 1998年)
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「東京ガスサッカー部」の記事における「東京ガスサッカー部(1935年 - 1998年)」の解説
6月、調布市議会にて「プロサッカーチーム誘致に関する決議」が可決された。9月、東京ガスサッカー部は東京スタジアム(後の味の素スタジアム)建設計画に伴い発足した「つくる会」や東京都サッカー協会から、同スタジアムをホームとするJリーグクラブ創設を打診された。「つくる会」は、スタジアム完成前にできることを模索し 開業までに地元のプロクラブを育てようというスタンスでいたため、東京ガスサッカー部代表としてJFLの評議員を務めていた上原英治は、これを好意的に受け止め前向きに検討すると回答。程なく、東京ガスが調布を拠点にJリーグ加盟を目指す方針と報じられた。 時系列日付出来事1992年12月 つくる会(正式名称「東京にプロサッカーチームをつくる会」)発足 1993年06月17日 調布市議会がJリーグ誘致決議を全会一致で可決。誘致予算880万円を計上 09月27日 つくる会が東京ガスへ調布進出を打診。 10月19日 誘致する会(正式名称「スタジアム建設促進とプロサッカーチームを調布に誘致する会」)発足。誘致予算全額が誘致する会のものとなる。 11月29日 誘致する会が、ヴェルディ川崎と東京ガスへ調布進出を打診。 12月08日 東京ガスが進出を断念 また、10月には新たに「誘致する会」も発足。同会は東京ガスサッカー部が東京都のサッカーチームとして最上位のカテゴリーにいることや、「つくる会」が候補としていること、サッカー教室などの地道な地域活動を評価し、東京ガスにJリーククラブ創設を打診。さらに「誘致する会」は発足当初からヴェルディ川崎(後の東京ヴェルディ)に対しても調布進出を打診する意向であった。ヴェルディ誘致が急速に行われた結果、「つくる会」との対立に発展。時間をかけて東京ガスと協議するつもりでいた「つくる会」においても結論を急がざるを得なくなり、東京ガス側でも“無関係な騒ぎ”による動揺が広がった。 12月、東京ガスは、公益企業としての限界から現時点でプロ化はできない、時期尚早である として調布進出を見送り、JFLと地域貢献に力を入れるとした。なお、ヴェルディ川崎も同月に移転を断念。これ以後、元東京ガスサッカー部監督で同部部長の鳥原光憲を中心に、Jリーグ参画に向けての足固めと強化を図っていった。同年、ジュニアユース及びジュニアチームを創立。 一連の誘致劇は市民に大きなしこりを残し、後にFC東京として市関係団体との折衝を行う際には難航させられたという。 1994年 大熊清がコーチとしてチームに復帰。ヴェルディ川崎からFW関浩二、ベルマーレ平塚からMF立石敬之を獲得。さらに社員選手のMF藤山竜仁を含む3名に対し、創部以来初めてとなる日本人選手とのプロ契約を結んだ。大卒ルーキーのGK堀池洋充、DF浮氣哲郎も活躍し、全国リーグでは初の勝ち越しに成功。 また、関東地区代表として天皇杯全日本サッカー選手権大会に初出場を果たした。急遽監督を退任した今井敏明に代わって大熊が指揮を執り、初戦で鹿島アントラーズを破ってベスト8へ進出。 1995年 大熊が正式に監督に就任。ヘッドコーチの倉又寿雄と共にチームを率いた。藤山を左SBに下げ、立石と新加入の岡島清延でドイスボランチを構成、攻撃陣にMFエドウィンを加えた布陣が機能。関は日本人得点王となった。 1996年 関は活躍が買われ、平塚に移籍。結果、アマラオの1トップを採用することになった。本田技研、ヴィッセル神戸との優勝争いに敗れ3位に終わったが、新條宏喜、浮氣を中心にリーグ最少失点となる堅守を構築し、Jリーグ準加盟クラブのJリーグ昇格を阻んだ。また、4月よりユースチームを創立。 この年、JFL各クラブにはJリーグ2部(J2)の創設と、その参加条件が提示されていた。 1997年 第77回天皇杯 準決勝 布陣 奥原崇 エドウィン 小林成光 原田智宏 浅利悟 岡島清延 藤山竜仁 本吉剛 吉岡博史 新條宏喜 堀池洋充 監督:大熊清 『東京ガスフットボールクラブ』に改称しJリーグへの参加を表明。8月にJリーグ2部への加盟申請が行われ、12月に承認された。 また、6月には「東京フットボールクラブ創設準備事務局」を発足させ、東京ガス(メンバーは上原英治、鳥原光憲、村林裕、城福浩、小林伸樹ら)を始めとする中核出資予定企業、東京都、東京都サッカー協会、東京商工会議所、東京青年会議所がこれに参加した。 チームはJFLで準優勝してJリーグ昇格条件である2位以内に入るも、準会員資格を有していないため、Jリーグへの昇格は見送られた。大塚製薬から加入したDF本吉剛が浮氣哲郎(ジェフ市原へ移籍)の穴を埋め、藤山、大卒新人のMF浅利悟と共にベストイレブンに選出された。 その年の天皇杯では名古屋グランパスエイト・横浜マリノス・平塚のJリーグ勢3クラブに勝利してベスト4へ進出。準決勝(鹿島戦)では創部以来初めて国立競技場の地を踏んだ。 1998年 4月、翌年からクラブ名称が『FC東京』になると共にプロクラブ化し、新たに2部制となるJリーグ ディビジョン2(J2)への参加を決める。JFL最終年となったこのシーズンは、MF岡島清延(引退)の穴埋めに苦しみ一時停滞したが、終盤に12連勝と追い上げ、最終節で川崎フロンターレを逆転してJFL初優勝を果たした。しかし、Jリーグ準会員ではなかったため、J1参入決定戦へは参加できなかった。 10月1日(この日は都民の日とされている)に、東京瓦斯、東京電力、エーエム・ピーエムジャパン、テレビ東京、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(TSUTAYA)、日本石油、清水建設、三菱商事の8社を中核に、計161団体の出資で 運営法人『東京フットボールクラブ株式会社』を設立。同月20日にJリーグ理事会によって法人化を認められ、1999年より発足したJ2へ参戦。東京ガスサッカー部としての歴史を終えた。
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