東京ガス / FC東京
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1992年5月13日に訪日し、ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)に所属していた東京ガスSCへレンタル移籍加入。しかし、ブラジルの名門クラブから加入したアマラオにとって、当時の同部の環境は劣悪だった。用具の用意や洗濯を選手自ら行い、社員選手が大半であったため人数が揃わないままでも練習をし、堅い人工芝の練習場で古傷の膝も痛んだ。日本の言葉、食事、習慣に中々馴染めずホームシックにもなったが、チームメートとブラジル料理店に出掛けた際、同じ店に来ていたラモス瑠偉から励まされ、交流を深めることになった。 何とか1年目のシーズンを終え、ブラジルへ復帰するつもりで帰国したが、イトゥアーノは資金難に陥っており、翌シーズンも東京ガスからのレンタル料を得ようとするスタッフから移籍期間の延長を求められる。アマラオは家族を支え、また旧知の仲間を助けるためにこの要請を受け入れ、1993年に再び訪日。同年よりJリーグが華々しく開幕し、ラモスの活躍を目にしつつも、自分がやれることを精一杯やろう とJFLでのプレーを続けた。 1994年は、日本での生活に馴染み、チームも大熊清のコーチ就任やFW関浩二らの加入など徐々に上位を目指す体制が整ってきたことで、心身の充実を得てリーグ戦で20得点を挙げた。同年の天皇杯ではベスト8 進出に貢献。東京ガスはこれらの活躍ぶりから完全移籍での獲得を決め、1995年になってイトゥアーノからパスを買い取った。大熊が監督に就きチーム強化が進む中、アマラオはエースとしてチームを牽引しつつ、プロとしてサッカーに臨む姿勢を言葉や態度でチームメートに示し続けた。1998年にはJFLでの優勝に貢献し、翌1999年からはFC東京(東京ガスから改称)の選手としてJ2に臨んだ。アマラオの活躍もあってJ2ではJ1昇格圏内を維持していたが、並行して開催されたナビスコカップの準決勝鹿島アントラーズ戦で相手のスライディングを受けて負傷。トレーナーの木場克己は即座の交代を判断したが、アマラオはJFL時代から「このチームはJリーグでも充分に戦えるはず」と考えていたことからJ1クラブとも戦う同カップ戦への意気込みが強く、木場を押し留めてプレーを続行。結果、剥離骨折による離脱を余儀なくされたが、シーズン終盤に復帰。J2準優勝に貢献し、J1昇格を掴んだ。 2000年、自身訪日9年目にして、日本サッカーのトップカテゴリーであるJ1で戦うことになった。J1・1st第1節横浜F・マリノス戦では自身のプレーでPKを獲得したが、FWツゥットがキッカーを志願したため、アマラオは新加入のツゥットへの心配り からクラブ史上J1第1号ゴールの栄誉を譲った(このPKが決勝点となり1-0で勝利)。アマラオ・ツゥットの得点量産によってチームは中位に踏み止まったが、J1で戦える地力を付けてから上位を目指そうというクラブ首脳陣と、プロならばリーグ優勝を目標にすべきというアマラオとの間で溝が生じた。アマラオは横浜FMのオズワルド・アルディレス監督からポストプレーヤーとして高く評価されており、シーズン終盤に同クラブからのオファーを受けたことで移籍を決意。しかし、このことを知ったサポーター達から慰留され、J1・2nd第14節ジェフ市原戦では、試合開始前からMF佐藤由紀彦がVゴールを決めてもなお、終始アマラオコールを受ける。大熊からも「一緒に優勝を目指そう」と声をかけられ翻意するに至った。 2003年の契約更新をするに当たり、アマラオはその年限りでの契約満了を聞かされていた。36歳の年齢による怪我の回復の遅れやプレーの衰えを見せつつあったため チームの若返りを図るというのが理由だった。同年11月18日に退団を表明。リーグ戦終了後、クラブのホームスタジアムがあり、本人も当時居住していた調布市から感謝状が送られ、市役所にてセレモニーが執り行われた。 1992年から2003年シーズン終了までに記録された、東京ガス及びFC東京における公式戦出場数332は、日本のクラブチームに所属した外国籍選手の「同一クラブにおける出場試合数」としては最多である。
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