佐藤由紀彦とは? わかりやすく解説

佐藤由紀彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/03 07:35 UTC 版)

佐藤 由紀彦
2015年
名前
愛称 ユキ[1][2]
カタカナ サトウ ユキヒコ
ラテン文字 SATO Yukihiko
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1976-05-11) 1976年5月11日(48歳)
出身地 静岡県富士市[3][4]
身長 177cm[4]
体重 70kg[4]
選手情報
ポジション MF[4]
利き足 右足[1]
ユース
1992-1994 清水商業高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1995-1999 清水エスパルス 2 (0)
1998 モンテディオ山形(loan) 29 (14)
1999 FC東京(loan) 35 (6)
2000-2003 FC東京 69 (8)
2003-2004 横浜F・マリノス 43 (3)
2005-2006 清水エスパルス 12 (1)
2006 柏レイソル(loan) 19 (2)
2007 柏レイソル 22 (2)
2008 ベガルタ仙台 27 (2)
2009-2014 V・ファーレン長崎 103 (13)
通算 361 (51)
代表歴
1994  日本 U-19
監督歴
2024- FC東京U-18
1. 国内リーグ戦に限る。2014年11月23日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

佐藤 由紀彦(さとう ゆきひこ、1976年5月11日 - )は、静岡県富士市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。

来歴

選手時代

小学1年生の時にサッカーを始める[5][6]。1992年に清水市商高へ進学。柔らかいボールタッチと卓越したパスセンスを武器に[7]、1993年の高円宮杯及び選手権を制した。1994年には背番号10を付け、総体優勝と高円宮杯を連覇。高円宮杯では両大会とも自身の得点が決勝点となった[8]。さらに国体でも連覇を経験[3]

1995年に高校を卒業し、鳴り物入りで[9]清水エスパルスに入団。しかし、クラブにとって絶対的存在のMF澤登正朗とポジションが重なったことに加え[10]、「地元出身のスター候補」という周囲からの扱いも重荷になり[11]、ベンチ入りも中々出来ずにいた。実戦機会を増やす為にブラジルのグレミオFBPAに長期留学に行かされるなど下積み時代が続き、サッカーの楽しさを感じられなくなりつつあった[9]

1998年に自ら志願して[9]ジャパンフットボールリーグモンテディオ山形期限付き移籍石崎信弘監督の下で攻撃の中心としてトップ下に据えられ、能力を開花させた[10]。ゲームメーカー兼フィニッシャーとして山形を開幕からシーズン中盤まで首位快走させる原動力となり、同年のJFL新人王およびベストイレブンを受賞した。

石崎は翌1999年より大分トリニータへと転任することになり、大分移籍、清水復帰、さらに他数クラブからの獲得の打診と争奪になったが[10][9]J1昇格を目指す熱意とサポーターの熱さに惹かれ[12]、清水に籍を残したままJ2FC東京へと期限付き移籍。大熊清監督からは縦への突破力とクロス精度を買われ[10]、山形で務めた司令塔役から右サイドのアタッカーへと転向することになった[11]。当初はプレーエリアや視野の違いに苦しんだが[10]、大熊やサポーターに認められるべく懸命に新ポジションでのプレーを続けて[12]攻撃を引っ張り、J1昇格が懸かる同年のJ2最終節では自身の右足クロスから加賀見健介の決勝点を導いた[9]。また、この年行われたナビスコカップではニューヒーロー賞に輝いた[注 1]。翌2000年に向けてはレンタル元の清水に戻る選択肢もあったが、フロント及びサポーターの熱心な引き留めを受けFC東京へと完全移籍した。この頃はまだ一般的な知名度が高くなかったため、国立競技場での選手紹介の際にスタジアムDJが「斉藤ユキヒコー!」と名前を間違えた事もあった。

2001年、新加入のMFケリーに一時ポジションを奪われたが[13]、全体練習後に長澤徹コーチの下でクロスを「常人ではありえないほど[12]」繰り返し蹴り込んで[14][15][5]向上を追及し[16][17]、5月になって布陣を変更してからはケリーがトップ下、佐藤が右サイドに入る形で先発に復帰[注 2]。長澤の助言を受けてオフ・ザ・ボールの動きも大きく向上し[14]、ケリーとのコンビネーションは、自ら「運命的な出会い」とコメントする程[18] 絶妙なものとなった[13]。同年9月にはフィリップ・トルシエ監督率いる日本代表候補に初選出[19]。リーグ戦終了後には優秀選手賞として表彰された[20]

2002年は負傷で出遅れていたところ[21]、新監督の原博実横浜F・マリノスからレンタル移籍で石川直宏を獲得。佐藤はシーズン後半に復帰したが石川の重用は続き、右サイドのポジションを奪い返せずにいた。同年末に入籍[22]

2003年は複数クラブからオファーを受ける中[5]、横浜FMの「優勝以外は失敗」という目標提示を意気に感じて[12][5]同クラブへ期限付き移籍[23]岡田武史監督の下でレギュラーに定着し、右サイドからFW久保竜彦らへ高精度のクロスを放って[24] アシストを量産[25][12][26]。クラブのJ1ファーストステージ・セカンドステージの完全制覇に貢献した。シーズン途中には石川と入れ替わる形で[27] 完全移籍へと移行[28]。しかし、2004年シーズン後半になると、田中隼磨の台頭によって控えに回ることも増えていた。

2005年には古巣の清水に移籍したが[29][3]、直後の負傷によって出遅れ、その後も若手の台頭もありなかなか出番がない状況が続いた。

2006年6月、恩師石崎[1] が監督を務めるJ2柏レイソルへ期限付き移籍[30]。先発出場は限られたが、同年のリーグ戦全試合にベンチ入りし[31][32]、FC東京在籍時以来2度目となるJ1昇格に貢献[26]。12月には柏へ完全移籍することが発表された[33]。石崎は佐藤を右サイドではなく、セントラルミッドフィールダーとしての適性を買っており、柏では山形でも務めていたトップ下や、ボランチでも起用された。2007年シーズンをもって契約満了となり退団。

2008年、J2ベガルタ仙台へ移籍[34][35]山形とのダービーマッチで移籍後初得点を挙げ[36]、持ち前の高精度のキックで[37] 短時間でも流れを引き寄せて得点につなげるジョーカーとして[38] 出場を続けた。同年クラブはJ1との入れ替え戦にまで進出したもののここで敗退しJ1昇格を逃した。12月にクラブから契約非更新が通知され、1年での退団を余儀なくされた[39]。仙台を去る際に残した言葉は次のようなものだった。「1年という短い間でしたが、喜びも哀しみも常にサポーターと共に味わえた自分にとって忘れられない2008年でした。今年からJFLのV・ファーレン長崎で再びサッカーが出来るチャンスをいただけました。この喜びをプレーで表現して、念願のJ2昇格に少しでも貢献出来たらと思います。最後にベガルタ仙台をこれからも愛し続けて下さい!ありがとうございました。」

Jリーグ合同トライアウト参加を経て[6]、2009年3月にJリーグ準加盟クラブであるJFLV・ファーレン長崎へ加入[40][41]。当初はDF(センターバック)に配されていたが前向きに取り組み[6][42]、本来の右サイドに戻ってからは得意のクロスで健在ぶりを見せた[2]。シーズン中盤にはゲームキャプテンを任され、2010年より正式に主将に就任[43]。スタジアムの不備によるJリーグ昇格断念など困難が続いたが[2]、チームメートからは厚い信頼を寄せられ[2]奮戦を続けた。2011年B級コーチライセンスを取得[44]。2013年よりクラブはJ2昇格を果たし、自身5年ぶりのJリーグでのプレーとなった。同年の出場機会は僅かとなったが、クラブにとってその存在は大きく[45] 精神面でも牽引を続けた。2014年限りで20年間に渡った現役を引退[4]

指導者時代

2015年、13年ぶりに[46] 古巣FC東京へ復帰し、普及部コーチに就任[47][48]

2016年シーズン途中から、FC東京U-15むさしのコーチに就任[49]。2019年にはFC東京トップチームのコーチとなった[50]

2024年、FC東京U-18の監督に就任したと発表された[51]

人物

  • 2012年現在4児の父。
  • 率先して練習に取り組む姿はチームメートを惹きつけ[26]、FC東京在籍時のコーチであり移籍後も親交のある長澤徹からは、「サッカーに熱く、ひたすら練習する。しかも若手を引き連れて練習するため、(彼が行くチームは)どのチームもチーム力が上がり、力を落とさずに1シーズンを戦い抜ける」と評されている[52]
  • 実家は洋食料理店を営んでおり、子供の頃の将来の夢はシェフだった。インタビュー等で「もしサッカー選手になっていなかったら?」という問いには「100%、コックさん」とも答える[16]
  • 端正な顔立ち、右サイドから正確なクロスを上げる事から、FC東京在籍時に「東京のベッカム」、2003年に移籍した横浜F・マリノス所属時は「ハマのプリンス」とよばれた[53]
  • 甘いマスクの持ち主で、サポーターからも人気があるが、出場機会を求めてJ2や新旧JFLを含めて7クラブを渡り歩いた苦労人であり、ヒーローインタビューにおいて「J2は魂が磨かれる場所」という言葉を残した[54][55]
  • 2012年1月に第4子となる男の子が誕生。前年に亡くなった親友(松田直樹)の名を付け[56]、2013年2月23日に放送された『FOOT×BRAIN』内で、漢字違いの「なおき」という名前が表示されている。
  • 横浜FM在籍時のチームメートで同い年の松田直樹安永聡太郎と親友である[57]。2002年に横浜FM移籍を決めかねている際には、松田から「来年優勝しよう」「お前が来たら絶対優勝できる」と説得された[12]。2011年10月3日に安永とともに「一般財団法人松田直樹メモリアル」を設立。現役を続ける理由の一つとして、松田よりも1試合でも多く出場し、1年でも長くサッカーをやってやると挙げていた[58]。出場数は松田には及ばなかったが、松田よりも長く現役プロサッカー選手として在り続け、サッカー人生20年にあたる2014年に引退した。

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1995 清水 - J 1 0 - 0 0 1 0
1996 1 0 0 0 0 0 1 0
1997 12 0 0 2 0 1 0 3 0
1998 山形 7 旧JFL 29 14 - 4 3 33 17
1999 FC東京 14 J2 35 6 7 2 4 2 46 10
2000 J1 28 5 2 0 0 0 30 5
2001 28 3 2 0 0 0 30 3
2002 13 0 3 0 0 0 16 0
2003 横浜FM 7 27 1 7 1 3 0 37 2
2004 16 2 7 1 1 0 24 3
2005 清水 20 12 1 1 0 0 0 13 1
2006 0 0 0 0 - 0 0
42 J2 19 2 - 2 1 21 3
2007 14 J1 22 2 3 0 1 0 26 2
2008 仙台 24 J2 27 2 - 2 0 29 2
2009 長崎 28 JFL 23 3 - 2 0 25 3
2010 26 5 - 2 2 28 7
2011 10 32 4 - 1 0 33 4
2012 18 1 - 1 0 19 1
2013 J2 3 0 - 0 0 3 0
2014 1 0 - 0 0 1 0
通算 日本 J1 148 14 27 2 6 0 181 16
日本 J2 85 10 7 2 8 3 100 15
日本 旧JFL 29 14 - 4 3 33 17
日本 JFL 99 13 - 6 2 105 15
総通算 361 51 34 4 24 8 421 63

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
AFCACL
2004 横浜FM 7 4 0
通算 AFC 4 0

その他の国際公式戦

代表歴

指導歴

  • 2015年 - FC東京
    • 2015年 - 2016年 普及部 コーチ[48]
    • 2016年 - 2018年 U-15むさし コーチ[49]
    • 2019年 - 2023年 トップチーム コーチ[50]
    • 2024年 - U-18 監督[51]

監督成績

年度 クラブ 所属 リーグ戦
順位 勝点 試合
2024 FC東京U-18 プレミアリーグEAST 10位 26 22 7 5 10
2025
通算 日本 プレミアリーグEAST - - 22 7 5 10
総通算 - - 22 7 5 10

タイトル

クラブ

清水市立商業高等学校
横浜F・マリノス
V・ファーレン長崎
FC東京U-18

代表

静岡県選抜

個人

脚注

注釈
  1. ^ J2に所属する選手としては大会史上初の受賞。
  2. ^ 4-2-2-2から4-2-3-1へと変更。攻撃的MFが3人になったことで共存可能となった。
出典
  1. ^ a b c PLAYER'S DATABASE”. 2007年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2007年2月13日)
  2. ^ a b c d おれたちが決める J2を目指すV長崎 MF佐藤由紀彦 (33) 長崎新聞 (2010年2月23日)
  3. ^ a b c d e f 佐藤 由紀彦選手(横浜F・マリノス)、清水エスパルスに完全移籍決定のお知らせ”. 2005年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 清水エスパルス (2005年1月5日)
  4. ^ a b c d e 佐藤由紀彦選手 現役引退のお知らせ V・ファーレン長崎 (2014年11月5日)
  5. ^ a b c d Interview No.932 (1/2)”. 2003年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2003年7月16日)
  6. ^ a b c インタビュー / V長崎に加入した元日本代表候補・佐藤由紀彦 長崎新聞 (2009年3月2日)
  7. ^ 小宮,119頁
  8. ^ 全日本ユース(U-18)選手権 過去の決勝vol.1 ゲキサカ (2008年8月15日)
  9. ^ a b c d e 21世紀の骨のあるヤツ ぴあ (2000年2月22日)
  10. ^ a b c d e 荒川裕治『FC東京の挑戦』小学館、2001年、15-19頁。 
  11. ^ a b 小宮,122頁
  12. ^ a b c d e f 後藤勝『フットボールサミット第11回 佐藤由紀彦の追憶と軌跡』カンゼン、2013年、166-176頁。 
  13. ^ a b 元気な佐藤、ケリーと絶妙コンビ”. 2001年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 東京中日スポーツ (2001年8月23日)
  14. ^ a b Interview No.837 (2/2)”. 2002年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2001年10月18日)
  15. ^ クロスの精度に自信深める佐藤”. 2001年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 東京中日スポーツ (2001年8月18日)
  16. ^ a b 『FC東京ファンブック2002』毎日新聞社、2002年、20-21頁。 
  17. ^ 小宮,125頁
  18. ^ Interview No.837 (1/2)”. 2002年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2001年10月18日)
  19. ^ 佐藤由紀彦選手、福田健二選手が日本代表候補に選出される!”. 2004年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2001年9月19日)
  20. ^ 佐藤由紀彦選手が 2001Jリーグ優秀選手賞に選ばれる!”. 2004年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2001年12月2日)
  21. ^ FC東京の頭脳 欧州を行く スペイン編 選手はチームだけの財産じゃない”. 2005年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 東京中日スポーツ (2005年1月19日)
  22. ^ 佐藤由紀彦選手 入籍のお知らせ”. 2004年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2002年12月24日)
  23. ^ 佐藤由紀彦選手 期限付移籍決定のお知らせ”. 2004年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2002年12月27日)
  24. ^ Interview No.932 (2/2)”. 2003年10月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 WEBサッカーマガジン (2003年7月16日)
  25. ^ 横浜F・マリノス 戦力分析レポート J's GOAL (2004年3月3日)
  26. ^ a b c 現役引退の佐藤由紀彦。岡崎慎司からの意外な反応 (1/5) Sportiva (2014年12月19日)
  27. ^ 石川と佐藤由が完全移籍 J1、横浜MとF東京 47NEWS (2003年8月7日)
  28. ^ 佐藤由紀彦選手 横浜F・マリノスへ完全移籍決定のお知らせ”. 2004年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 FC東京 (2003年8月7日)
  29. ^ 佐藤由紀彦選手、清水エスパルスへ完全移籍”. 2005年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 横浜F・マリノス (2005年1月5日)
  30. ^ 佐藤由紀彦選手が清水エスパルスより期限付移籍加入 柏レイソル (2006年6月18日)
  31. ^ 選手出場記録 (2/3) Jリーグ (2006年12月2日)
  32. ^ 選手出場記録 (3/3) Jリーグ (2006年12月2日
  33. ^ 佐藤由紀彦選手が完全移籍加入 柏レイソル (2006年12月29日)
  34. ^ 佐藤 由紀彦選手 ベガルタ仙台へ移籍 柏レイソル (2008年1月8日)
  35. ^ 佐藤由紀彦選手完全移籍加入のお知らせ”. 2008年1月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 ベガルタ仙台 (2008年1月8日)
  36. ^ 【J2:第14節 仙台 vs 山形】試合終了後の仙台選手コメント J's GOAL (2008年5月18日)
  37. ^ J2仙台は「FK職人」に命運託す 日刊スポーツ (2008年9月28日)
  38. ^ 仙台佐藤-中原ホットラインで連破/J2 日刊スポーツ (2008年5月12日)
  39. ^ 契約満了選手のお知らせ”. 2008年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 ベガルタ仙台 (2008年12月1日)
  40. ^ 佐藤由紀彦選手V・ファーレン長崎へ完全移籍のお知らせ ベガルタ仙台 (2009年3月1日)
  41. ^ 新加入選手のお知らせ”. 2009年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月8日閲覧。 V・ファーレン長崎 (2009年3月1日)
  42. ^ 小宮,132頁
  43. ^ 新主将に佐藤由「チーム一丸でJ目指す」 長崎新聞 (2010年1月28日)
  44. ^ 2010(平成22)年度 公認B級コーチ養成講習会 合格者 【431名】 (PDF) 日本サッカー協会 2011.04.14
  45. ^ 昇格逃したV・長崎。主将の佐藤由紀彦が語る「戦いは終わらない」 (2/3) Sportiva (2013年12月27日)
  46. ^ 13年ぶり復帰…現役引退の佐藤由紀彦氏がFC東京の普及部コーチ就任 ゲキサカ (2015年1月30日)
  47. ^ 佐藤由紀彦氏 FC東京普及部コーチ就任のお知らせ V・ファーレン長崎 (2015年1月30日)
  48. ^ a b 佐藤由紀彦選手 普及部コーチ就任のお知らせ FC東京 (2015年1月30日)
  49. ^ a b 選手・スタッフ一覧 U-15むさし 2018年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月14日閲覧。FC東京 (2018年7月3日)
  50. ^ a b 2019シーズンFC東京トップチーム編成について FC東京 (2019年1月12日)
  51. ^ a b 佐藤由紀彦FC東京U-18監督就任のお知らせ”. FC東京オフィシャルホームページ (2024年1月13日). 2024年1月14日閲覧。
  52. ^ 小宮,126-127頁
  53. ^ “元祖プリンス”佐藤由紀彦が現役引退 20年間のプロ生活にピリオド スポーツニッポン (2014年11月5日)
  54. ^ あと4日 柏レイソル (2008年6月25日)
  55. ^ J2で磨いた魂支えに 河北新報 (2012年9月20日)
  56. ^ 安永聡太郎オフィシャルブログ「報告」 2012年1月25日付
  57. ^ 追悼のピッチから発信された松田直樹さんの熱き魂 論スポ (2012年1月23日)
  58. ^ 【Jリーグ】佐藤由紀彦(V・ファーレン長崎)、親友・松田直樹を語る (4/4) Sportiva (2011年12月18日)

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類

日本のサッカー選手 求衛昭紀  山本拓弥  佐藤由紀彦  百武義成  井原正巳
柏レイソルの選手 アデバヨ  リカルド・アレッシャンドレ・ドス・サントス  佐藤由紀彦  増嶋竜也  アントニオ・デ・オリベイラ・フィーリョ
ベガルタ仙台の選手 レアンドロ・テイシェイラ・ダンタス  山路嘉人  佐藤由紀彦  樋口昌俊  ブルーノ・セルバ・コスタ
清水エスパルスの選手 マルセロ・ミゲル・ペリサリ  三都主アレサンドロ  佐藤由紀彦  児玉新  青嶋文明
横浜F・マリノスの選手 パブロ・バスティアニーニ  山瀬功治  佐藤由紀彦  井原正巳  久永辰徳
FC東京の選手 三浦文丈  平山相太  佐藤由紀彦  増嶋竜也  米本拓司
モンテディオ山形の選手 佐賀一平  韓東元  佐藤由紀彦  松田英樹  伊東俊
V・ファーレン長崎の選手 阿部博一  福嶋洋  佐藤由紀彦  丹野研太  隅田航

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