サッカー選手としての経歴
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FC町田(後のFC町田ゼルビアジュニアユース)から横浜マリノスユースへ進み、1999年にトップチームへ昇格。 2000年、FC東京へ移籍。右サイドハーフ(SH)佐藤由紀彦の控えという立ち位置だったが、同年途中からこのポジションを務める増田忠俊も移籍加入したことから、8月に大宮アルディージャへ期限付き移籍。移籍期間の延長を経て、2002年にFC東京へ復帰。この年は佐藤のコンディションが悪く、原博実監督の下でJ1初出場を果たしたが、同年4月末の石川直宏加入を境に再び出場機会を失った。原は星を評価しながらも、石川の重用を続け「(星は)なるべく試合に出られる所でやった方が良い」 と退団を促した。 2003年にモンテディオ山形へ移籍。柱谷幸一監督に見出されて右SHのレギュラーを掴み、9得点を挙げた。2004年も鈴木淳新監督からの信頼は厚く、その甘いマスクで女性からの人気が高かったことから「プリンス」と呼ばれ、人気を博した。 2005年、恩師・柱谷が監督を務めていた京都パープルサンガへ完全移籍。ここでも右SHの主力として活躍し、チームのJ1昇格に貢献した。しかし、2006年は怪我の影響もあって途中出場が多く、チームも1年でJ2降格を喫してしまう。2007年も徳重隆明の加入で出場機会が激減。チームは1年でJ1に復帰したが、星自身は戦力外通告を受け、京都を退団した。 2008年、JFL・栃木SCに移籍。自身三度目となる柱谷の率いるチームでJ2昇格を目指したが、リーグ戦開幕前に左アキレス腱を断裂し、同年は長期のリハビリに費やされた。年末に解雇通告を受けたため翌2009年は練習生としてチームに帯同し、復調をアピールして 4月に再契約を交わした。 2010年、故郷・東京都町田市を本拠地にし、中学時代に在籍したJFL・FC町田ゼルビアに入団した。ホーム開幕戦となった同年JFL前期第2節びわこ草津戦で移籍後初ゴール。2011年12月11日、JFL最終節讃岐戦で現役最後のゴールを決め、試合後サポーターの前で引退を表明した。2012年からは同クラブのフロントスタッフを務めている。
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サッカー選手としての経歴
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「アリウ・シセ」の記事における「サッカー選手としての経歴」の解説
シセは、1999-2000年のシーズンにおいてフランス国内リーグのディヴィジオン・アンで準優勝したパリ・サンジェルマンFCのチームの一員であった。次シーズンのパリ・サンジェルマンFCはチャンピオンズリーグ 2000-01に参加し、シセは同リーグにおいて4試合に出場した。なお、チームは4位入賞でシーズンを終えた。だが、シセはその次のシーズンで出場機会を失い、モンペリエHSCと契約した。その後の2002年から2006年にかけてはイングランド・プレミアリーグのバーミンガム・シティFC、ポーツマスFCに在籍した。2006年から2008年はCSスダン・アルデンヌと契約していたが次シーズンからフランス2部リーグで戦うことを決心し、ニーム・オリンピックに2008年9月1日から参加した。しかしシーズン終了時に再契約はなかった。 セネガル代表チーム選手としては、シセは2000年から2005年まで「テランガのライオン」の愛称で知られるセネガル代表チームの選手であった。日本と韓国が共催した2002年のFIFAワールドカップにおいてシセは、セネガル代表チームのキャプテンを務めた。なお、この時シセのいるセネガルはワールドカップ初出場でしかもデンマーク、フランス、ウルグアイと同じAグループに入り、勝ち上がりが厳しいと考えられていたがデンマークとウルグアイに引き分け、前回優勝チームのフランスに勝利して決勝トーナメントへ勝ち進んだ。決勝トーナメント1回戦ではスウェーデンにゴールデンゴールで競り勝ったものの、準々決勝のトルコ戦では逆にイルハン・マンスズにゴールデンゴールを入れられチームも敗退した。 なお、2002年の9月にガンビア沖で発生した旅客船ジョラ号沈没事故でシセも親族12人を失った。
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