サッカー記者としてのエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 01:50 UTC 版)
「中条一雄」の記事における「サッカー記者としてのエピソード」の解説
岡野俊一郎は東京大学のチームメイト、長沼健は同郷の上練習試合で対戦したこともある旧知の間柄で、彼らを取材するのは「楽だった」と述べている。 1998 FIFAワールドカップ・アジア予選に関して、当時「週刊朝日」に連載していたサッカーコラムで、「このままでは日本代表の本戦進出は不可能。もし日本代表が予選を突破したら、そのときは「サッカー評論家」の肩書きを返上して、「サッカー愛好家」を名乗る」と宣言した。その後、日本代表がジョホールバルの歓喜で予選突破を果たしたため、公約通り「サッカー愛好家」と名乗るようになっている。 2006 FIFAワールドカップでは、日本サッカー協会から取材パスの発給を受けることができなかった(中条のほか、牛木素吉郎も発給されなかった)。この顛末を「W杯取材記者落第てん末記」として公表した。 1996年よりデットマール・クラマーに、そのサッカー人生の取材を続け、2008年に『デットマール・クラマー 日本サッカー改革論』として刊行した。またその取材ノートの一部を牛木素吉郎主催の「ビバ!サッカー研究会」のウェブサイト上に公開している。同書はミズノの2008年度「ミズノ スポーツライター賞」優秀賞を受賞した。
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