学生作家時代と太宰治との対面
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「三島由紀夫」の記事における「学生作家時代と太宰治との対面」の解説
「煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対する評価は無く、法学の勉強も続けていたところで作品が雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友も得られた三島は、その中の矢代静一(早稲田高等学院在学中)らに誘われ、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治と彼の理解者の亀井勝一郎を囲む集いに参加することにした。三島は太宰の〈稀有の才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎の法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた。 1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時に待ち合わせし、〈懐ろに匕首を呑んで出かけるテロリスト的心境〉で、酒宴が開かれる練馬区豊玉中2-19の清水家の別宅にバスで赴いた。 三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔(一高在学)、原田柳喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田高在学)、新潮社勤務の野原一夫、その家に下宿している出英利(早稲田高在学、出隆の次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主の清水一男(五中在学の15歳)といった面々であった。 三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。そして三島は森鷗外についての意見を求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の韜晦(とうかい)を込めて言った。 下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学はきらいなんです〉という言葉をその時に発した。 これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と言った。気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。 太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。 — 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付) 1947年(昭和22年)4月、記紀の衣通姫伝説を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。 同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社の新夕刊で林房雄を初めて見かけた。同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。 8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢を舞台にして戦時中の邦子との体験を元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説に仮託した手法をとったものであった。林は、これを中村真一郎の「妖婆」と共に『新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇が喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。 これに感激した三島は、林にお礼を言いに9月13日の新夕刊の「13日会」に行った。林は酔って帰りに3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生の三島を一人前の作家として認めて話し相手になったため、好感を抱いた彼は親交を持つようになった。当時の三島は、堀の弟子であった中村真一郎の所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一、福永武彦、窪田啓作)と座談会をするなど親近感を持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中を認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスはフランス、日本は日本じゃないか〉と反感を覚え、同人にはならなかった。 「夜の仕度」は当時の文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身の生きることと何の関係もない」という高見順や中島健蔵の無理解な合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨し、わかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は、執筆中であった「盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本の文壇が、いさゝかの抵抗も感ぜずに、みとめ且つとりあげる作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った。 大学卒業間近の11月20日、三島の念願であった短編集『岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励の返礼葉書に感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜びを伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。 東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることになるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。(中略) 「私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである」 川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略) 東京では印象批評が滅び去りました。たとへば中里恒子や北畠八穂のやうな美しい女流作家が不遇です。川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、日夏耿之介氏はますます「枯坐」して化石してしまひさうです。横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒瀆がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。 — 三島由紀夫「伊東静雄宛ての書簡」(昭和23年3月23日付)
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