学生作家時代と太宰治との対面とは? わかりやすく解説

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学生作家時代と太宰治との対面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「学生作家時代と太宰治との対面」の解説

煙草」や「中世」が掲載されたもののそれらに対す評価無く法学勉強続けていたところで作品雑誌掲載されたことから何人かの新たな文学的交友得られ三島は、その中の矢代静一早稲田高等学院在学中)らに誘われ当時青年から熱狂的支持得ていた太宰治彼の理解者亀井勝一郎を囲む集い参加することにした。三島太宰の〈稀有才能〉は認めていたが、その〈自己劇画化〉の文学が嫌いで、〈愛憎法則〉によってか〈生理的反発〉も感じていた。 1946年昭和21年12月14日三島紺絣着物に袴を身につけ、中野駅前で矢代らと午後4時待ち合わせし、〈懐ろに匕首呑んで出かけるテロリスト心境〉で、酒宴開かれる練馬区豊玉中2-19清水家別宅バス赴いた三島以外の出席者は皆、矢代と同じ府立第五中学校出身で、中村稔一高在学)、原田喜(慶応在学)、相沢諒(駒沢予科在学)、井坂隆一(早稲田在学)、新潮社勤務野原一夫、その家に下宿している出英利早稲田在学出隆次男)と高原紀一(一橋商学部)、家主清水一男(五中在学15歳)といった面々であった三島太宰正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。そして三島森鷗外についての意見求めるが、太宰は、「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一全集に載っけている写真見てみろよ。軍服姿の写真堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」と太宰流の韜晦とうかい)を込めて言った下戸三島は「どこが悪いのか」と改まった表情真面目に反論し鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰まともに取り合わず両者会話噛み合わなかった。その酒宴に漂う〈絶望讃美〉の〈甘ったれた〉空気太宰司祭として自分たちが時代病代表してゐるといふ自負充ちた〉馴れ合い雰囲気感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた〈僕は太宰さんの文学きらいなんです〉という言葉その時発した。 これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだと言った気まずくなった三島その場離れ、それが太宰との一度きり対決となったその後太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島川端に以下のような感想綴っている。 太宰治氏「斜陽第三回感銘深く読みました滅亡の抒事詩に近く見事な芸術的完成予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成一歩手前崩れてしまひさうな太宰一流妙な不安がまだこびりついてます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。 — 三島由紀夫川端康成宛て書簡」(昭和22年10月8日付) 1947年昭和22年4月記紀衣通姫伝説題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。三島は、前年1946年昭和21年9月16日偶然に再会した人妻永井邦子(旧姓三谷)から、その2か月後の11月6日来電もらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホール通っていたが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代痛み〉を抱えていた。 同年6月27日三島新橋焼けたビルにあった新聞社新夕刊林房雄初め見かけた。同年7月就職活動をしていた三島住友銀行か)と日本勧業銀行入行試験受験するが、住友不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接不採用となった。やはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた8月、『人間』に発表した「夜の仕度」は、軽井沢舞台にして戦時中の邦子との体験元に堀辰雄の『聖家族』流にフランス心理小説仮託し手法をとったものであったは、これを中村真一郎の「妖婆と共に新夕刊』の日評で取り上げ、「夜の仕度」を「今の日本文壇喪失してゐる貴重なもの」と高評し、これを無視しようとする「文壇の俗常識を憎む」とまで書いた。 これに感激した三島は、お礼言い9月13日新夕刊の「13日会」に行った酔って帰り3階の窓から放尿するなど豪放であったが、まだ学生三島一人前作家として認めて話し相手になったため、好感抱いた彼は親交を持つようになった当時三島は、堀の弟子であった中村真一郎所属するマチネ・ポエティックの作家たち(加藤周一福永武彦窪田啓作)と座談会をするなど親近感持っていたが、次第に彼らの思想的な〈あからさまなフランス臭〉や、日本古来の〈危険な美〉である心中認めない説教的ヒューマニズムに、〈フランスフランス日本日本じゃないか〉と反感覚え同人にはならなかった。 「夜の仕度」は当時文壇から酷評され、「うまい」が「彼が書いている小説は、彼自身生きること何の関係もない」という高見順中島健蔵無理解合評が『群像』の11月号でなされた。これに憤慨しわかりやすいリアリズム風な小説ばかり尊ぶ彼らに前から嫌気がさしていた三島は、執筆であった盗賊」の創作ノートに〈この低俗な日本文壇が、いさゝかの抵抗感ぜずに、みとめ且つとりあげ作品の価値など知れてゐるのだ〉と書き撲った大学卒業間近11月20日三島念願であった短編集岬にての物語』が桜井書店から刊行された。「岬にての物語」「中世」「軽王子と衣通姫」を収めたこの本を伊東静雄にも献呈した三島は、伊東からの激励返礼葉書感激し、〈このお葉書が私の幸運のしるしのやうに思へ、心あたゝかな毎日を送ることができます〉と喜び伝え、以下のような文壇への不満を書き送っている。 東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、プール飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、美しフォームでとびこむことができず、足もと乱れ、そして星なぞに目もくれない人々おくれをとることになるのです。夕刻プール周辺に集まつた観客たちは、選手目に映る星の光など見てくれません。(中略) 「私が第一行を起すのは絶体絶命あきらめ果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて棄ててかかるのである川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだんわかつてまゐりました。(中略東京では印象批評滅び去りましたたとへば中里恒子北畠八穂のやうな美しい女作家不遇です。川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、日夏耿之介氏はますます「坐」して化石してしまひさうです。横光利一氏の死に対してあらゆる非礼冒瀆がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつてこのやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのび呼吸をすることなどできませう。 — 三島由紀夫伊東静雄宛て書簡」(昭和23年3月23日付)

※この「学生作家時代と太宰治との対面」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「学生作家時代と太宰治との対面」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

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