安達謙蔵
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安達 謙蔵(あだち けんぞう、旧字体:安達󠄁 謙󠄁藏、1864年11月22日(元治元年10月23日) - 1948年(昭和23年)8月2日)は、大正時代から昭和時代初期の日本の政党政治家。位階は従三位。号は漢城。
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 39頁。
- ^ 井上寿一『政友会と民政党』2012年、中公新書、p128
- ^ 若槻総裁が協力派四人除名を決意『大阪毎日新聞』昭和6年12月12日号外(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p720 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 安達、富田、中野の三人が脱党『東京朝日新聞』昭和6年12月13日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p721)
- ^ 安達系の七人が続いて脱党『大阪毎日新聞』昭和6年12月14日夕刊(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p721)
- ^ 総辞職の発生が井上蔵相によってドル買問題を引き起こした三井銀行などの大手銀行に対する報復的な対応措置が実施される直前だったことから、当時安達が倒閣と引換に大手銀行側から何らかの利益を受けていたのではという噂が流れたが、安達の動きはそれ以前よりのものなので直接の関連性は薄いと考えられている。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1938年2月11日。
協力内閣運動
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1931年(昭和6年)9月に満州事変が勃発し、さらに10月には国内で軍部のクーデター未遂が発覚する(十月事件)。経済面でもかねてから金解禁の影響による経済悪化、さらにイギリスの金輸出再禁止に端を発するドル買問題を受けて、解決策を見出せず第2次若槻内閣は行き詰まりを見せていた。内相として軍部の不穏な動きを熟知していた安達はこうした状況に危機感を強めていた。また民政党内部でも自派の中野や永井は、幣原喜重郎外相の協調外交(幣原外交)に批判的だったこともあり、政友会と協力しあって連立内閣を作り、軍部とも提携して挙国一致内閣で難局を切り抜いていくことを考えた。10月28日、政権運営に自信を失っていた若槻首相から事態の解決について相談を持ちかけられた安達が協力内閣構想を若槻に示すと、若槻は軍部の台頭による政治の無力化を防ぐためにも政友会との連立は必要と考えてこれに賛同した。安達は政友会の久原房之助の合意をとりつけ、協力内閣運動の声明を発表したりして、政友会総裁の犬養毅を首班とする連立内閣の成立に向けて動いた。軍部では小磯国昭、さらに西園寺にも構想を打ち明けている。政友会では松岡洋右、秋田清、前田米蔵なども当初は協力内閣構想に積極的だった。 しかし協調外交を主張する幣原外相と、緊縮財政と金解禁の維持を主張する井上準之助蔵相らの強い反対を受けると、当初は安達と同じ考えだった若槻は豹変して協力内閣の考えを捨ててしまう。また政友会内部でも森恪をはじめとする幣原外交に批判的な勢力も強く、11月10日の議員総会において金輸出の再禁止を強く求める声明が出るに至って、民政党と政策面で相容れる見込みは小さくなった。 12月9日から10日にかけて安達の腹心の富田幸次郎が奔走したものの、若槻を翻意させることはできず、かえって臨時閣議で安達に内相辞職が求められることとなった。既に政友会から合意を得ていた安達の面目はつぶれ、引くに引けないまま安達は辞職を拒絶して自宅に引きこもってしまう。これで閣議は空転、12月11日若槻はついに閣内不一致を理由に内閣総辞職に至った。西園寺は協力内閣構想が不発に終わったことを知ると、次期首班には迷わず政友会の犬養毅総裁を奏薦、犬養内閣の成立となった。かねてから久原や安達の独走に懐疑的だった犬養は政友会単独で組閣したが、これを受けて安達は中野ら数十名と共に民政党から脱党した。
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