政党政治と民政党内閣
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1928年(昭和3年)2月20日に行われた第16回衆議院議員総選挙では、田中内閣の内相・鈴木喜三郎から、「民政党が掲げる議会中心主義は憲法違反である」との誹謗と選挙干渉を受けるも政友会にわずか1議席差にまで迫る216議席を獲得して政府を追い込んだ。それに対して与党・政友会は床次ら旧政友本党出身者に対して復党工作を行って床次ら30名余りの離党者を出す事に成功する。また、濱口に代わって大隈信常を新総裁に擁立しようとした小寺謙吉が除名される騒ぎも起きた。 だが、同年6月4日に発生した張作霖爆殺事件(いわゆる満州某重大事件)のために田中内閣が内閣総辞職に至ると、元老西園寺公望(元首相・元政友会総裁)は現状の政友会の政策の是非を問うていないことが政権崩壊の原因となったと考えて、野党第一党の民政党に政権を交代させた上で国民の信を問う方針を固めると、昭和天皇に濱口雄幸を次期首相として推薦した。 こうして1929年(昭和4年)7月2日に田中内閣は総辞職し濱口内閣が成立する。濱口は金解禁を断行した上で、「綱紀粛正」と「軍縮実現」を掲げ1930年(昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙を行った。その結果、過半数を占める絶対多数の273議席を獲得した。 ところがロンドン海軍軍縮条約における「統帥権干犯問題」をきっかけに、同年11月14日に濱口は東京駅において右翼によって狙撃された。濱口の回復が思わしくないという事で1931年(昭和6年)4月4日に若槻禮次郎が総裁に就任して第2次若槻内閣が発足した。なお、濱口は同年8月26日に死亡する。ところが同年9月18日には満州事変が勃発、同じ頃にアメリカが発生した世界恐慌が日本経済にも深刻な影響を与えるようになった。 そこで、内務大臣であった安達謙蔵は政友会に復党していた床次竹二郎らと組んで挙国一致内閣(協力内閣運動)を提唱するが、これが閣内分裂を招いたため、同年12月13日に若槻内閣は倒れ犬養内閣が成立する。1932年(昭和7年)12月22日、安達とその支持者は民政党から脱党して新政党「国民同盟」を結党した。この影響で同年の第18回衆議院議員総選挙では結党以来最大の惨敗を喫した上に、選挙中の同年2月に発生した血盟団事件で次期総裁の最有力候補だった前大蔵大臣の井上準之助が暗殺されてしまう。
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