政党政治と民政党内閣とは? わかりやすく解説

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政党政治と民政党内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:49 UTC 版)

立憲民政党」の記事における「政党政治と民政党内閣」の解説

1928年昭和3年2月20日行われた第16回衆議院議員総選挙では、田中内閣内相鈴木喜三郎から、「民政党掲げ議会中心主義憲法違反である」との誹謗選挙干渉を受けるも政友会にわずか1議席差にまで迫る216議席獲得して政府追い込んだ。それに対して与党政友会は床次ら旧政友本党出身者に対して復党工作行って床次ら30余り離党者を出す事に成功するまた、濱口に代わって大隈信常を新総裁擁立しようとした小寺謙吉除名される騒ぎ起きた。 だが、同年6月4日発生した張作霖爆殺事件いわゆる満州某重大事件)のために田中内閣内閣総辞職に至ると、元老西園寺公望元首相元政友会総裁)は現状政友会政策是非を問うていないことが政権崩壊の原因となった考えて野党第一党民政党政権交代させた上で国民の信を問う方針固めると、昭和天皇濱口雄幸次期首相として推薦した。 こうして1929年昭和4年7月2日田中内閣総辞職し濱口内閣成立する濱口金解禁断行した上で、「綱紀粛正」と「軍縮実現」を掲げ1930年昭和5年)に第17回衆議院議員総選挙行ったその結果過半数占め絶対多数273議席獲得した。 ところがロンドン海軍軍縮条約における「統帥権干犯問題」をきっかけに、同年11月14日濱口東京駅において右翼によって狙撃された。濱口回復思わしくないという事1931年昭和6年4月4日若槻禮次郎総裁就任して第2次若槻内閣発足した。なお、濱口同年8月26日死亡する。ところが同年9月18日には満州事変勃発、同じ頃にアメリカ発生した世界恐慌日本経済にも深刻な影響与えようになった。 そこで、内務大臣であった安達謙蔵政友会復党していた床次竹二郎らと組んで挙国一致内閣協力内閣運動)を提唱するが、これが閣内分裂招いたため、同年12月13日若槻内閣倒れ犬養内閣成立する1932年昭和7年12月22日安達とその支持者民政党から脱党して新政党「国民同盟」を結党した。この影響同年第18回衆議院議員総選挙では結党以来最大惨敗喫した上に、選挙中の同年2月発生した血盟団事件次期総裁最有力候補だった前大蔵大臣井上準之助暗殺されてしまう。

※この「政党政治と民政党内閣」の解説は、「立憲民政党」の解説の一部です。
「政党政治と民政党内閣」を含む「立憲民政党」の記事については、「立憲民政党」の概要を参照ください。

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