政党政治から翼賛政治へとは? わかりやすく解説

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政党政治から翼賛政治へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:48 UTC 版)

尾崎行雄」の記事における「政党政治から翼賛政治へ」の解説

国家主義国民主義的な観点から軍縮論者となっていた尾崎は、全国遊説の旅に出る。大正13年1924年)、超然内閣である清浦内閣成立すると、これに反対する第二次護憲運動が始まる。護憲三派成立し衆議院総選挙結果護憲三派勝利し加藤高明内閣成立する昭和入り政党内閣続き昭和4年1929年)には「政党内閣頂点と言われる立憲民政党濱口内閣成立する。だが昭和6年1931年)に満州事変勃発後、軍部政治介入が相次ぎ政党政治危機陥った昭和7年1932年)に5・15事件犬養毅暗殺される政党内閣終焉した。尾崎はこの現状憂慮して墓標代えて』と題して遺言執筆し雑誌改造』に掲載された。 二・二六事件の後の廣田内閣1年足らずで潰れ、林銑十郎組閣する昭和12年1937年2月17日尾崎議会登壇し『正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上』なる2時間におよぶ辞世詠み新聞全面埋めて尾崎演説掲げた近衛内閣誕生して日中戦争泥沼化へ入ると、西尾末広演説連座した事件で、議院構内尾崎銅像建設する計画中止された。大政翼賛会結成ナチス・ドイツなどとの三国同盟経て東條英機内閣組閣すると、尾崎議会政治見切り付け山荘篭り、もはやあま上京もしなかった。太平洋戦争開戦後昭和17年1942年)に行われた第21回衆議院議員総選挙翼賛選挙)には非推薦出馬当選昭和18年1943年)、前年総選挙の際に田川大吉郎応援演説翼賛選挙批判行った中に引用した川柳の「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇治世揶揄するものであるとされ不敬罪起訴される尾崎不敬事件一審懲役8か月執行猶予2年判決1944年昭和19年)に大審院無罪確定)。

※この「政党政治から翼賛政治へ」の解説は、「尾崎行雄」の解説の一部です。
「政党政治から翼賛政治へ」を含む「尾崎行雄」の記事については、「尾崎行雄」の概要を参照ください。

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