政党政治から翼賛政治へ
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国家主義・国民主義的な観点から軍縮論者となっていた尾崎は、全国遊説の旅に出る。大正13年(1924年)、超然内閣である清浦内閣が成立すると、これに反対する第二次護憲運動が始まる。護憲三派が成立し衆議院総選挙の結果、護憲三派が勝利し、加藤高明内閣が成立する。 昭和に入り政党内閣が続き、昭和4年(1929年)には「政党内閣の頂点」と言われる立憲民政党の濱口内閣が成立する。だが昭和6年(1931年)に満州事変の勃発後、軍部の政治介入が相次ぎ、政党政治は危機に陥った。昭和7年(1932年)に5・15事件で犬養毅が暗殺されると政党内閣は終焉した。尾崎はこの現状を憂慮して『墓標に代えて』と題して遺言を執筆し、雑誌『改造』に掲載された。 二・二六事件の後の廣田内閣が1年足らずで潰れ、林銑十郎が組閣すると昭和12年(1937年)2月17日、尾崎は議会で登壇し『正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上』なる2時間におよぶ辞世を詠み、新聞は全面を埋めて尾崎の演説を掲げた。近衛内閣が誕生して日中戦争が泥沼化へ入ると、西尾末広の演説に連座した事件で、議院の構内に尾崎の銅像を建設する計画も中止された。大政翼賛会結成、ナチス・ドイツなどとの三国同盟を経て東條英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなかった。太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)に行われた第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。昭和18年(1943年)、前年の総選挙の際に田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙批判を行った中に引用した川柳の「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(尾崎不敬事件。一審で懲役8か月執行猶予2年の判決、1944年(昭和19年)に大審院で無罪確定)。
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