政党政治と満鉄
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明治から大正にかけて、藩閥政治の時代から政党政治の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた。1913年(大正2年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭された。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から立憲政友会系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである。中村・国沢の更迭は大正政変で第3次桂内閣が倒れて山本権兵衛内閣が成立した直後のことであり、これは政友会総裁で山本内閣の内務大臣、原敬の差し金であったといわれる。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で鉄道院の副総裁だった野村龍太郎が、副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した。 折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものだったので、事態はいっそう紛糾した。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の村田懋麿や大連駅駅務助手の竹中政一らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して世論に訴えた。その結果、特別運賃は事実上撤回された。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗し、伊藤に対する排斥運動も起こった。その結果、1914年7月、犬塚が第2次大隈内閣によって罷免された翌日、野村と伊藤の両名も罷免された。
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政党政治と満鉄
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明治から大正にかけて、藩閥政治の時代から政党政治の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた。1913年(大正2年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭された。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から立憲政友会系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである。中村・国沢の更迭は大正政変で第3次桂内閣が倒れて山本権兵衛内閣が成立した直後のことであり、これは政友会総裁で山本内閣の内務大臣、原敬の差し金であったといわれる。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で鉄道院の副総裁だった野村龍太郎が、副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した。 折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものだったので、事態はいっそう紛糾した。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の村田懋麿や大連駅駅務助手の竹中政一らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して世論に訴えた。その結果、特別運賃は事実上撤回された。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗し、伊藤に対する排斥運動も起こった。その結果、1914年7月、犬塚が第2次大隈内閣によって罷免された翌日、野村と伊藤の両名も罷免された。
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政党政治と満鉄
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明治から大正にかけて、藩閥政治の時代から政党政治の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた。1913年(大正2年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭された。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から立憲政友会系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである。中村・国沢の更迭は大正政変で第3次桂内閣が倒れて山本権兵衛内閣が成立した直後のことであり、これは政友会総裁で山本内閣の内務大臣、原敬の差し金であったといわれる。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で鉄道院の副総裁だった野村龍太郎が、副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した。 折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものだったので、事態はいっそう紛糾した。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の村田懋麿や大連駅駅務助手の竹中政一らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して世論に訴えた。その結果、特別運賃は事実上撤回された。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗し、伊藤に対する排斥運動も起こった。その結果、1914年7月、犬塚が第2次大隈内閣によって罷免された翌日、野村と伊藤の両名も罷免された。
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