政党政治の暗雲と憲政碑建立
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「憲政碑」の記事における「政党政治の暗雲と憲政碑建立」の解説
1932年(昭和7年)5月15日、五・一五事件によって犬養毅首相は暗殺され、加藤高明内閣以降継続していた政党内閣は中断する。ようやく定着するかに見えた政党内閣が途絶えてしまったばかりではなく、政党に対する厳しい批判、そして政党解消まで唱えられるようになる中、胎中楠右衛門は1933年(昭和8年)に、明治以降、憲政の発展に尽力してきた人々の慰霊と顕彰を目的とした憲政功労者慰霊会を設立した。 憲政功労者慰霊会を設立した1933年(昭和8年)、胎中は自邸があった海老名村上今泉の瓢箪山上に、神奈川県、三多摩の憲政功労者約1200名を顕彰、慰霊する憲政碑を建立する。憲政碑の揮毫は当時、衆議院議長であった秋田清が行った。現在も史跡秋葉山古墳群第2号墳墳頂部にある海老名の憲政碑は、高さ60センチメートル、横124センチメートル、奥行き73センチメートルの台石の上に、高さ310センチメートル、横121センチメートル、厚さ17センチメートルの石碑本体が乗っている。 憲政碑の裏面には胎中楠右衛門が起草した碑文が刻まれている。碑文ではまず大日本帝国憲法の発布と明治初年からの国会開設運動について触れ、続いて藩閥政府に対する自由党、改進党の戦いの歴史、その中で神奈川県下において、自由民権運動やその後の民党で政党政治の黎明期に活躍した人々に対して、憲政の発展に偉大な功績を上げたとして顕彰している。そして 国会開ケテ既ニ四十余年 憲政ノ運用ニハ尚ホ遺憾ノ点少ナカラズ 殊ニ近時政党否認ノ声ヲ聞クニ至テハ是等先輩ニ対シ深ク慙愧ニ堪ヘサルナリ 憲政碑ヲ建ツル所以ハ聊カ先人ノ功績ヲ表スト共ニ 後ノ人之ニ依テ先人ノ志ヲ偲ビ 以テ我憲政ノ為ニ奮起セムコトヲ希フニ在リ矣 と、憲政に多くの課題がある中で政党否認論が唱えられるようになった現状を憂い、これまで憲政に尽くしてきた諸先輩に対して申しわけないとして、憲政碑を建立することによってこれまで憲政に尽力した人々の功績を顕彰するとともに、後進が先人の意志を学び、憲政のために奮起することを望んだ。
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