政党政治の幕開けとは? わかりやすく解説

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政党政治の幕開け(明治時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 16:32 UTC 版)

政党の歴史」の記事における「政党政治の幕開け(明治時代)」の解説

元来日本置いては、党とは、私党意味するもので児玉党村上党などのように武士団を呼ぶ用語であった幕末から明治維新にかけて、国内的には、「土佐勤王党」などの公論主張した党派誕生対外的には欧米列強政治体制触れる中で議会政治における政党制着目するようになり、党という用語の意味変貌を遂げる安政6年1859年福澤諭吉英国議会傍聴した際、議会内で激しく論戦繰り広げていた与野党議員が、議場の外では、和やかに談笑していることに驚いたことを紹介している。 明治7年1874年明治六年政変征韓論政変)で下野した板垣退助らは愛国公党結成し政府対し民撰議院設立建白書」を提出した。これを契機に、薩長藩閥による政権運営いわゆる有司専制」)に対す批判全国澎湃として起こった。これが、自由民権運動である。 自由民権運動過程では、全国各地政治結社結成され、これらの中には急進化して各地不平士族結びつき内乱起こすものも出た。しかし、明治10年1877年)の西南戦争不平士族敗北し明治政府武力転覆することが挫折し言論による闘争志向されるようになっていく。 勃興する自由民権運動に対して明治14年1881年明治天皇御名で「国会開設の勅諭」が下り明治政府は、明治22年1889年)に議会開設することを国民約束したこれに伴い明治14年自由党板垣退助中心として、翌明治15年1882年立憲改進党大隈重信らによって結成されるまた、福地源一郎親政府の要人による立憲帝政党結党された。しかし、政府は「超然主義」の方針打ち出す一方自由民権運動弾圧強化乗り出したこのため自由党一時解散追い込まれ立憲改進党分裂状態となり、立憲帝政党政府から見捨てられる形で自然消滅余儀なくされた。 明治22年1889年大日本帝国憲法公布とともに衆議院議員選挙法が公布され25歳上で納税15円以上の男子に選挙権与えられた。翌明治23年1890年7月1日第1回衆議院議員総選挙実施され立憲自由党立憲改進党などの民党議席多く占め、反民党勢力結果的に親政府派となる)温和派吏党)は少なかった選挙後第一回帝国議会開会された。政府当初超然主義」で対議会政党対す姿勢としていたものの、大日本帝国憲法自体議会協賛なくして重要な決定出来ない仕組みとなっていたため、この路線はすぐに行き詰まった。このことに気付いた政府側は選挙への大規模干渉金銭・あるいはポストによる、政府批判的な民党及びその幹部達の買収工作行って懐柔務めざるを得なくなっていった。また、条約改正などの論議から民党政府支持回り吏党反対に回るケースもあり、「民党吏党」に替わって与党野党」と呼ばれていくようになる

※この「政党政治の幕開け(明治時代)」の解説は、「政党の歴史」の解説の一部です。
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