政党国家批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 12:23 UTC 版)
ヴァイマル共和国の時代ほど政党が憎まれ、信用をなくした時代はなかった。こうした政党蔑視は、政治という一種の手工業とその職人、特に政党幹部に対する軽蔑に深く結び付いている。とはいえ、道徳的パトスに支えられた抗議という衣を好んで纏う、民主主義政党政治に対するこの拒絶反応は、政党に敵意を抱く有権者たちの政治的禁欲をもたらしはしなかった。寧ろ、政党政治の状況に対する人々の諦念と憤慨が大きくなるにつれて、政党制の終焉を予言する政党がより大きなチャンスをつかむようになったのである。とりわけ、ナチ党へ多くの人々が投じた支持票は、この党が勝利すれば憎むべき政党支配を完全に根絶してくれるだろう、という期待を反映するものだった。 獲物の分配をめぐる不安から、大公の椅子の上とヴァイマルの巣窟の中で、共和国がでっち上げられた。これは国家形態等ではなく、1つの会社にすぎぬ。その定款には民族ではなく政党が、権力と名誉と偉大さではなく政党が、正義ではなく政党が、目標と未来ではなく政党の利益が語られている。 選挙は今日、機械的な集計の表現であり、無責任者たちの権力支配であり、民主主義などでは全くない。選挙という糧で生きているのは、魂なき機械としての政党である。政党は生命を生命なきものに変え、精神と魂を滅ぼし、劣等者を王座につける。この地上からただちに姿を消すべき者として政党ほど相応しいものはない。だから火と剣で政党を征伐する者は敬虔な業を行う者である。 しかし、大衆民主主義の時代に少なくとも政党に類似した組織をもつことなしに、どのようにして政治を行うのか。この問題に対しては、ヴァイマル時代の反民主主義者たちによって理論的にも解答が与えられた。新しい政治活動の形態は、「同志団(Bund)」、或は、「運動(Bewegung)」と呼ばれた。「ブント(同志団)」という概念は、当時、極めて濃厚な政治的色彩を帯びていた青年運動から意識的に受け継いだものである。「運動」という名称は、多かれ少なかれナチ党に与えられた。ナチ党は、政党(Partei)を称しており、また議会政党として結成されたが、著しく運動としての性格を強調し、所謂、議会主義、体制政党から厳密に自己を区別していた。 エルンスト・ユンガーは『労働者』の中で述べている。 社会的機構から、騎士団(Orden)という名で表される国家機構が新しい労働世界の中に生じなければならない。この新しい政治形態においては、大衆の獲得や教育ではなく、訓練と選抜が重要である。戦争参加者の運動、社会革命政党、軍隊はこうして騎士団の形態をとった新しい貴族制に転化する。 ユンガーの目が捉えた新しい「有機的国家構造」の統一性は、全ての騎士団が自由主義以後の時代の新しい人間としての労働者像に神秘的関係をもつことによってもたらされる。この新しい組織形態が最早、世論形成や多数派形成を通じてではなく、行動を通じて形成されることはいうまでもない。 ヴァイマル共和国の政治制度と政治状況とへのこうした批判の背後には、国家体制を遥かに凌駕するかに見える崇高な国家理念が新しく浮かび上がってくる。この新しい国家になおも民主主義という言葉が適用される場合には、この民主主義と所謂ヴァイマル民主主義との相違が強調されることはいうまでもない。そこではヴァイマル民主主義は、民主主義とは称していても民主主義的国家理念の悪質な贋物としか感じられなかったのであった。
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