初代 SS30V/40V型(1979年 - 1984年)
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「スズキ・アルト」の記事における「初代 SS30V/40V型(1979年 - 1984年)」の解説
1979年(昭和54年)5月、発売。軽乗用車フロンテの商用版姉妹車である。型式はH-SS30V。「軽ボンネットバン」と呼ばれる「節税型軽乗用車」ジャンルを創成し、その後の軽自動車市場に大きな影響を与えた。当時、鈴木自動車工業社長に就任して間もなかった鈴木修が、社長就任後初めて陣頭指揮を執って製品化にあたった新型車であり、鈴木修自身にとっても自らの地位を確固たる物とした記念すべきモデルとなった。 1970年代中期以降、日本の軽乗用車市場は排出ガス規制対策と550 cc 規格移行前後の混乱・低迷期の最中にあり、各社は在来モデルの排気量・車幅拡大などでお茶を濁す停滞に陥り、新たな展開が模索される状態にあった。スズキでは排出ガス対策エンジンの開発が不調で、トヨタ自動車からの伝手によって競合するダイハツ工業製のエンジンを購入して自社の軽乗用車に搭載するなど、苦しい状態に置かれていた。1978年6月に社長就任した鈴木修がその打開策として企画したのが、ベーシックカーの原点に立ち返った廉価な新型車の開発であった。 この時点で次期フロンテとなるべき新型軽乗用車の開発が相当に進んでおり、1978年中には発売される予定であったが、鈴木修は「新車発売の1年延期」と「企画の全面的見直し」を敢えて断行し、修の意向によって新型車のコンセプトには大幅な方向修正が図られることになった。 当時の日本で、軽乗用車には15%を上回る高税率の物品税を課されていた。だが軽ボンネットバンを含む商用車は物品税が非課税で、税制面では格段に有利であった。スズキではこの税制のギャップを逆手にとって合法的に節税できる「実質前席2人乗り軽乗用車として機能する軽商用車(軽ボンネットバン)」という商品設定を企画、主に買い物や子供の送り迎えなどに自動車を使う主婦層の需要喚起を新たに狙った。スズキでは開発に際しての市場リサーチで、当時“軽自動車の基本乗車人数は1 - 2名”というデータを得ており、前席の居住性が乗用車並みに確保できるバンの市場商品性に裏付けを持っていた。 価格設定も大胆なものとなった。同時期の一般的な軽乗用車は新車で60万円を超える価格帯で、これに高率の物品税が上乗せされた。一方、市場調査で当時の日本の中古車市場では40万円から50万円程度の中古車の売れ行きが良好であると判明、鈴木修はそのクラスの需要を狙い、市販価格45万円程度の廉価な新車を提供することを目論んだ。この価格設定で利益を確保するには、製造原価を当時としても極度に低い35万円程度に抑えなければならなかった。「目標達成のためなら灰皿やスペアタイヤ、エンジンまでも外せ」とまでの叱咤と共に、鈴木修から過酷な目標を課された開発部門責任者の稲川誠一(当時常務。のちスズキ会長)ら技術陣は、コストダウンを最優先に、安全上問題ない範囲での製造原価見直しを徹底追求した。 基本構成は、前輪駆動方式を採用した2ボックススタイルであり、車内容積はそれなりに広く、当時としてはそこそこ近代的な外観であった反面、機構的には従来モデルの旧型エンジン(T5A)から基本設計を流用した2ストロークエンジン(T5B)、リアサスペンションには廉価でコンパクトであるが旧弊なリーフリジッドを採用するなど、簡素な低コスト構造に徹していた。排出ガス規制が緩い商用車であるため、コストやトルクの面で有利な2ストロークエンジンの採用が容易であった。後部座席は商用車としての規制(荷台スペースを後部座席のスペースと同等以上にする必要がある)から折り畳み式のごく小型なものであったが、実質2人乗りと割り切られていたため大きな問題ではなかった。前輪駆動だがパワーステアリングが小型車で一般化する前の車種であり、プレート型の2本スポークステアリングは径を大きめとして、ラックアンドピニオン式の操舵機構ともども操縦性に配慮している。ブレーキは前輪ディスク式が普及してきていた当時、ややグレードの低い4輪ドラム式であったが、軽量車であったため、性能に見合った制動力は確保されていた。 その随所が、従前の高額化しつつあった軽乗用車とはまったく正反対な、機能最優先に徹した簡潔な仕様であった。少ない点数の大型プレス部材を組み立てたシンプルなボディの装備は、内外装とも極めて簡素に仕立てられていた。一体成形された単純な造形の樹脂製ダッシュボードやインパネ、ヘッドレスト一体型のフロントシート、見栄えはしないが廉価に必要な機能を満たせるゴム製フロアマット、ベニヤ板を背板に使った後部座席、廉価なグレー塗装のスチール製バンパー、電気モーターを全く使用しない手押しポンプ式ウィンドウウォッシャーなどが特徴である。ドア等の内張りを省略できる部分は鉄板塗装処理、ドア開閉用の鍵穴は運転席側のみで、なくとも済む助手席側鍵穴は省略している(キーシリンダーをはめ込む凹みは残してあった。キーシリンダーを装着する仕様のモデルとドアパネルを共用して量産効果を上げるためである)。リアの跳ね上げ式大型ハッチゲートは、アルトの利便性の一つとしてPRされており、リアハッチダンパーを全車に装備していたが、このゲート上の蝶番は露出した外付け構造としてやはり簡略化してあった。 また当初はモノ(単一)グレードで車種内の装備差別化をせず、標準装備はヒーターのみで、ラジオやシガーライターをはじめ追加装備一切は多くがディーラー施工となる50種類以上のオプションで補う設定とした。 これらの取り組みの結果、当初計画の45万円は達成できなかったが、本体価格「47万円」という、1979年当時の新車の軽自動車としては驚異的な低価格が実現された。フロンテの最廉価グレード車での物品税課税前価格より約10万円も安かったのである。この価格は、それまでの慣例を破って戦略的に、自動車業界初の全国統一車両本体価格(ワンプライス)とされた点でも画期的であった。日本全国の顧客に平等な価格を提示できると共に、全国の媒体で等しく「アルト47万円」と銘打った効果的宣伝が可能となったのである。さらに物品税非課税のメリットが加わり、競合車種となる他社軽乗用車との実質価格差は著しいものとなった。 女性ユーザーへのアピールを念頭に赤をイメージカラーに採用したアルトが発表されると、その異例な低価格は市場に衝撃を与えた。発売後の販売台数は当初目標の月間5,000台を軽く凌駕して1万8,000台を記録、ほどなく大量のバックオーダーを抱える人気車種となった。増産のため、工場増築が緊急に行われたほどである。「アルト」の成功を受け、他の軽自動車メーカーも追随して同様のコンセプトの軽商用車を発売し、「セカンドカー」需要を開拓した。またアルト売り上げによる着実な収益で、日本の自動車メーカーでも唯一2ストロークエンジンを主力としていたスズキは、工場設備投資による4ストロークエンジン生産体制拡充に取り組み、アルトも含めた主力車種エンジンの4ストローク切り替えを早めることができた。 ゼネラルモーターズは、後のサターンとして結実する未経験の小型車開発にあたり、世界各社の小型車を徹底的に分解し、研究していたが、その中の一つであったこのアルトの設計に驚愕し、スズキとの提携を決めたと言われている[要出典]。スズキはOEM契約を結び、GMのロワエンドにあたるジオ(GEO)ブランド向け車種(ジオ・トラッカー、ジオ・メトロ)の生産を担当した。 累計販売台数は約84万4000台
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