事故の余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:49 UTC 版)
「アメリカン航空191便墜落事故」の記事における「事故の余波」の解説
本事故の死亡者数273は、2021年1月現在でも、アメリカ同時多発テロ事件を除けばアメリカ航空史上で最大である。左翼エンジンを失った191便がほぼ垂直に傾いて墜落していく様子と、墜落の爆発で火柱が上がる様子が目撃者によって写真撮影され、シカゴ・トリビューン紙に掲載された(写真は英語版参照)。 事故発生から2日後の5月27日に、事故調査に当たっていたNTSBのエルウッド・ドライバー副委員長は「エンジンを翼に固定していたボルトが折れてエンジンが脱落したのが原因と見られる」と発表し、自ら折れたボルトを持って報道陣に公開した。当初は、このボルトが事故原因と疑われた。FAAは、5月29日以降のDC-10型機の運航を停止し、問題のボルトを点検するよう指示した。また、アメリカ以外の航空会社にも同様の措置をとるよう勧告した。 前述のとおり、事故調査によって、このボルトは直接的な事故原因ではないことが明らかになった。一方で、FAAが指示した点検によって、複数のDC-10型機からパイロン構造部の損傷が発見された。構造の欠陥による金属疲労が疑われたので、FAAはアメリカのDC-10型機に対して飛行停止とパイロンの点検を指示した。この点検で問題がなかった機体は飛行を再開した。一方で、事故機と同様の亀裂が6機で発見された。さらに、事故機とは異なる損傷も発見されたことで、製造会社の品質管理が問われる事態となった。同様の点検を実施したボーイング747型機やロッキードL-1011型機と比べて異常が多かったので、設計不良も疑われた。1979年6月6日、FAAはDC-10型機の型式証明の効力を緊急停止する命令を発行した。マクドネル・ダグラス社はこの措置に異議を唱えたが、当時のFAA長官ラングホーン・ボンドは、安全を優先すると述べた。型式証明の停止措置は相互協定を結んでいた各国へも波及し、日本ではDC-10型機を運航していた日本航空に対して運輸省(当時)が運航停止を指示した。 本事故より前にDC-10型機では、貨物扉の破損に起因した大きな事故が2件起きていた。1972年のアメリカン航空96便貨物ドア破損事故と、1974年のトルコ航空DC-10パリ墜落事故である。これらの事故では、マクドネル・ダグラス社の設計不良が非難された(ただし、191便の事故前には貨物扉の問題への改修対応がされていた)。本事故によって、改めてDC-10型機の安全性に対して世間から厳しい目が向けられた。アメリカで乗用車「シボレー・コルヴェア」の安全性問題など消費者運動に取り組んでいたラルフ・ネーダーは、DC-10型機を「翼を持ったシボレー・コルヴェア」と批判した。アメリカン航空は、事故時までDC-10型機に施していた "DC-10 LuxuryLiner" のロゴ塗装を、"American Airlines LuxuryLiner" に変更した。また、FAAの指導監督が不十分であったとの批判も上がった。 ヨーロッパなどでは各国の規制当局の判断によって順次飛行が再開されたが、6月26日にFAAはアメリカ領空内でのDC-10型機の飛行を禁止する規制を発行した。FAAは、NTSBの事故調査と並行してマクドネル・ダグラス社、アメリカ空軍、および民間航空技術者らの協力を得て、DC-10型機の設計がFAAの示す基準を満たしているかどうかの総合的な調査を行った。FAAは設計データの再調査、諸元や確率の再計算、生産記録の再確認、飛行試験などを実施し、疑問点を一つ一つ解消した。その結果、日本では7月12日、アメリカでは7月13日に飛行停止措置が解除され、併せて短期間ごとに検査を行うことが指示された。結果的に、主要な事故原因は不適切な整備手順であることが判明したが、DC-10型機への世間からの信頼は低下した。1979年11月に、フォークリフトを用いた不適切な整備手順を実施したという理由で、FAAはアメリカン航空に50万ドルの罰金を科した。同様の理由で、コンチネンタル航空にも10万ドルの罰金を科した。1980年1月にFAAは調査報告書を発行し、同型機の主翼パイロンの設計に欠陥はなく、十分な強度を有することを認定した。 本事故の後、重要な整備手順に対するFAAの監督体制が強化されたほか、FAAから耐空性改善命令が発行された。副操縦士席にもスティックシェイカーを追加し、いずれかの電源を失っても左右両座席の失速警報装置が作動するよう改善指示が出された。また、意図しないスラット引き込みを防止するため油圧系統への弁の追加指示が出された。さらに、パイロン構造部の安全性を向上させる指示も出され、パイロン点検間隔の緩和も認められた。運航規定も見直され、緊急時には安全離陸速度 (V2) を10ノット (時速約19キロメートル)上回る飛行速度をとることとされた。 ナショナルジオグラフィックチャンネルが放送している『衝撃の瞬間』(第4シリーズ、第9話「シカゴ航空機事故」)と『メーデー!:航空機事故の真実と真相』(シーズン10、第7話「アメリカン航空191便」)とで、この事故が取り上げられている。
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事故の余波
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「ブラザヴィル弾薬庫爆発事故」の記事における「事故の余波」の解説
爆発事故の影響でブラザヴィル市街は一面瓦礫に覆われた。また、事故による火災は市街に広がり、多くの家屋を焼いた。爆発事故の起こった地区は警察によって封鎖された。火災は午後までにほとんどが鎮火したが、その後も一部で小規模な火災が見られた。市内には夜間外出禁止令が敷かれた。この事故により多くの子供が親とはぐれ、地元のテレビ局は爆発後の混乱で親とはぐれた20人あまりの子どもたちを番組に出演させ、親と再会できるよう、この子どもたちを知っている人はテレビ局に連絡するよう呼びかけた。共和国当局は教会2軒と屋根付き市場を事故により家を失った人の避難場所として開放した。武器庫付近での救助作業は小規模な爆発が続いていたため難航した。 事故発生の翌日である3月5日になってもブラザヴィル市内ではぼやがくすぶりつづけ、市内の他の武器庫に火が燃え広がることが危惧された。封鎖区域内には死体が取り残され、現場周辺には死臭が漂い始めた。とはいえ、市の中心部や南部では、市民は日常を取り戻していった。 事故発生から24時間以内に、アメリカ合衆国およびフランスの当局者はコンゴ共和国の職員と面会し、救援活動について話した。フランスやロシアの消防士が消火に協力したほか、フランス政府は救援物資を即時発送した。コンゴ民主共和国は医療用品および代表団を送った。世界保健機関は2.5トンの医薬品を輸送した。赤十字社は3000人が収容可能な難民キャンプを建設した。国連事務総長の潘基文は事故の犠牲者の遺族、コンゴ共和国政府、および同国の国民に哀悼の言葉を述べた。その他、コンゴ共和国には世界各国から支援の申し入れや見舞いの言葉があった。国連地雷対策支援信託基金(United Nations Mine Action Service, UNMAS)は緊急対応を行い、国連人道調整官や、コンゴ共和国軍を含む各関係者の協力のもと、国連地雷除去チーム(United Nations Mine Action Team, UNMAT)を結成した。 3月7日時点では、事故現場では有効な救助活動は行われなかった。赤十字社は、新たに爆発が起こる危険性があるため現場に立ち入ることができなかったほか、立ち入りを許可されていた軍隊もいまだ続く火災の消火に足を引っ張られていた。点検によって、爆発しなかった弾薬が倉庫一帯に散在していることがわかった 。 爆発事故の後、コンゴ共和国政府はすべての軍需施設をブラザヴィル市外に移転することを決定したが、この公約自体はこの事故の3年前の、2009年に別の爆発事故があった際に作られたものであった。3月8日、コンゴ共和国政府は犠牲者の家族に300万CFAフランを支払うことを発表した。 国連の専門機関や海外の軍隊、NGOなどが事故現場から爆発物を取り除くのに協力した。4月上旬時点で、16トンの弾薬が回収、処理された。 2013年9月10日、コンゴ共和国軍の兵士6人が、火災の原因となった電気系統のショートを引き起こした罪で、懲役15年の判決を下され、ほかに関係者26人が無罪を宣告された。また、国家安全保障会議(英語版)の元事務局長であったColonel Marcel Tsourouが5年の強制労働刑を宣告された。
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