上流市民の服装とは? わかりやすく解説

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上流市民の服装

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:54 UTC 版)

西欧の服飾 (17世紀)」の記事における「上流市民の服装」の解説

1630年代頃から、男子服の流行先端新興国オランダ富裕市民にあったこのころファッションリーダーである裕福なオランダ市民身なりは、レンブラントの『夜警』の市民隊の衣装を見るとよくわかる。堅かった襟は柔らかく肩に広がり帽子はつばが広い柔らかな物を長髪の上被り、プールポアンと膝下までのゆったりしたズボンブーツ合わせている。スペインモード同様、オランダモードも黒や深紅中心的であったが、前世紀濃く重い色合いに代わって、淡い青、淡い赤、淡い緑、薄い黄なパステル調の色や煙ったような色合い人気を博すようになったまた、アグリッパ・ドゥビニエによれば17世紀初め修道女の腹」「陽気な未亡人」「病気スペイン人」「毒殺され」「便秘の女」「疱瘡色」などの奇を衒った色名流行していた。これらは淡いピンク濁った黄褐色から緑がかった鈍い黄色というこれまでほとんど衣服使われなかった色合いである。1635年ごろから農民着ていたジャケット型の衣服モード世界現れ始める。男子の上着の丈やズボン股上このころだんだん短くなっていき、若い裕福な男性肌着であるシュミーズドロワーズ一部見えた状態で街を歩くのが当たり前になった。 ルイ14世親政始まった1661年発表されモリエールの『亭主学校』には、堅物のスガレナル青年流行服装に目がない派手好きの兄を諌める一幕がある。堅実な弟は腹を完全に覆うプールポアンにぴったりしたオードショース穿いているが、兄は小さな帽子被り長い金髪の鬘を身につけ、腹部覆わない短いプールポアンに、シュミーズからジャボ(襟もとの襞飾り)を椅子掛けた状態でテーブルにつくほど長く垂らし派手なレースカフスカノン(膝飾り)の揃い。さらにペティコート穿いているではないかと弟を呆れさせている。 これは、1650年代ごろから流行していたベルギーフランドル地方由来する「ラングラーヴ」という一見したところスカート見え幅の広い半ズボンであろう。完全にスカート型をしたものであったという説もあるが、サミュエル・ピープス日記に街の笑い話として「ペティコート・ブリッチズ(ラングラーヴの英名)の片方の筒に両脚通したまま、まる一日気付かなかった男」の噂話書き留めていることからも現代キュロットスカートに近い形のものと考えた方がよさそうである。ラングラーヴの裾や腰には、色好み優男意味するギャラント」と呼ばれるリボン束をたっぷりと飾っていたのでますます女性的に見えた1656年頃には、流行衣服上下一式には500600リボン結びがついていて、300エレ(2メートル弱)の長さリボン買って必要な数には足りないと言われている。1680年代には流行下火となったようで、1682年の『メルキュール・ギャラン』には「ラングラーヴとカノンには我慢がならない』と非難されている。 17世紀には、カールした長い金髪の鬘は富裕市民層の若者に「獅子のように雄々しい外観与える」と2000フラン3000フランと言う高値にもかかわらず非常に人気があった。また、金髪以外の生まれつきの髪も長く伸ばして思い思いヘアセットすることが流行した長髪一般に流行したために、1650年代には肩を覆うほど広かった飾り襟が、首元詰まって幅が狭く胸元まで垂らすタイプになっている。このタイプ飾り襟は後にクラヴァットネクタイ原型となったスカーフ一種)に移行したサミュエル・ピープス1662年10月11日日記に、市場自分身につける男物90シリングクラヴァットと妻へ贈る女物45シリングクラヴァット購入した記している。1681年フランスのファッション誌『メルキュール・ド・フランス』では、レースクラヴァットカフスセット購入するものとされており、合わせて50ルイドール前後相場であったらしい。 ルイ13世親政の頃には、髪の薄かったルイ13世宮廷正装に鬘を持ちこんだのと同時に長い髪カールさせたり編んだりした「カドネット」という髪型リボン宝石飾った「ファビュール」というファッション流行した。この装飾過多髪型ルイ13世同母弟で、ガストン・ジャン・バティストが彼を慕う貴婦人からの捧げものを髪に飾ったのが宮廷での流行発端とされている。男性愛の証として恋人から贈られリボンを髪に結ぶ風習は、もともと農村や町の若者の間から起こったもので、ドイツでは、恋人から贈られたものと偽って自分買い込んだリボンを髪に結ぶ見栄っ張りの男を馬鹿にする民謡伝わっている。裕福な市民若者には、鏝で巻いた巻き毛垂らしたもののほかに頭全体をふわふわとした巻き毛覆ったプードル頭」が流行している。モリエールによって1668年発表された『守銭奴』では、裕福な老人息子の鬘と髪のリボン値段見積もって20ピストールはすると非難しているが、当時富裕市民層の若者にとってはこの位値段の鬘が相場であったのだろう。 一方役所裁判所勤める者たちは、威儀を正すためスペイン風堅苦しい恰好をしなければならなかった。ドイツでは18世紀の末まで、役人襞襟を身に着けていたという。スペインの影響強かったベルギーオーストリアでは、宮廷中心により広い層にスペイン風衣装長く着用されていた。ただし、スペイン本土でも余りに不便であった襞襟改良はされており、当時主に着用され飾り襟は皿を意味する「ゴリーリャ」という襞を畳まないリンネルを糊で皿型に張った小さく低いものである17世紀末期には、ルイ13世宮廷中に着用させ、ルイ14世たっぷりした巻き毛大きく盛り上げる形に改良した男性用かつら「アロンジュ」を聖職者裁判官着用することとなった。特に裁判官威儀を正すめかつら身につける習慣現代まで生き残っている。聖職者場合カトリック重要な儀式である塗油の儀のためにかつらを外さないで済むように頭頂部に切れ込みや窓を作って儀式の際だけ開くように工夫していた。

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上流市民の服装

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西欧の服飾 (17世紀)」の記事における「上流市民の服装」の解説

1640年代には、長手袋マフ登場する市民の間にオランダファッションが流行した1650年代前後一般女性の服装当時風俗画家フェルメールヤン・ステーン作品など見られる。よく見受けられる色は、淡い黄色中心に淡い赤や水色など軽やかな色合いである。スカートなくなり床に引きずりコルセット胴体全体締めつけるともなくなったため全体シルエット16世紀よりふくよかに見える。布地重厚豪華なブロケードよりも、つやつやとして軽やかなサテン人気集まったスカートゆるやかに広がっているのは三枚ジュップ(アンダースカート)を重ねているからであり、フランスでは上から「ラ・モデスト(つつしみ)」「ラ・フリポンヌ(おてんば)」「ラ・スクレット(秘密)」とそれぞれ違う名で呼んでいた。胴体締めつけなくなったために胸のふくらみ復活し襟ぐり台形広く開けて胸元見せようになった。袖は17世紀前半流行したメディチスリーブに代表される詰め物をして膨らみいくつも作った動きづらいものではなく七分程度でややゆとりのある長袖が普通であった上着として尻を覆うくらいの丈をしたゆったりした上着を着ることもあったが、たいてい毛皮の縁が付けられていた。フェルメール財産目録には、モデル着せるためのと思われる黄色サテンテン毛皮の上着」が残されており当時流行反映した風俗画のために画家購入したものと思われる部屋着としては、オランダでは「ヤポン」という着物風のガウン時には非常に裕福な婦人日本から取り寄せる本物和服をはおることもあった)が特に富裕な上流市民流行していた。外国風趣味の物珍しさと富の誇示加えいまだに高価であった上質の絹をガウンとして着用する最高のぜいたくであった日本交易できないイギリスフランスでは上流階級人々似たようなガウンインド更紗仕立て生地を「アンディエンヌ」と呼んだ。髪は耳の横で巻き毛にして、後ろ髪三つ編みにしてから頭の上シニヨン結った1672年に、イギリスから欧州旅行した上流市民若者同行した家庭教師から、若者伯母パリ流行書き送った手紙がある。「胸衣とコルセットは白や褐色タフタに黒などで花模様刺繍をしています。白と黒だけの衣装でも白や銀のスカートを着ると、美しく誠実に見えます。アンダースカートは下に穿いているものが覗くように重ねるか、レースで縁を付けてます。」これはイギリス女性パリ最新流行いち早く知るために、甥の家庭教師報告頼んだもので、そうした背景があるためにかなり細かく正確に当時流行描写していると考えられる。胸衣とはピエスデストマと呼ばれるコルセットを覆う三角布地のことで、当時ローブいわゆるドレスワンピース型に見えるが上下分かれておりスカートホック上衣内側留めている)の襟ぐりからへそにかけてが大きく三角形開いており、その開いた部分を紐で締めあげた後ろ差し込んで使ったリボン飾り付けたりレース装飾するのが流行していたが、18世紀にはローブ最初から縫いつけられるようになっていく。17世紀後期コルセット復権したが、胴体全体締めつけるものではなく乳房持ちあげて胸を強調するような形に変わっていた。前をひも締めするコルセット庶民の女性広く用いたが、華やかな飾り結びをつけると中流上の人にも流行し「グルガンディーヌ(尻軽女)」という冗談めいた名で呼ばれた

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