上流市民の服装
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「西欧の服飾 (17世紀)」の記事における「上流市民の服装」の解説
1630年代頃から、男子服の流行の先端は新興国オランダの富裕市民にあった。このころのファッションリーダーである裕福なオランダ市民の身なりは、レンブラントの『夜警』の市民隊の衣装を見るとよくわかる。堅かった襟は柔らかく肩に広がり、帽子はつばが広い柔らかな物を長髪の上に被り、プールポアンと膝下までのゆったりしたズボンをブーツと合わせている。スペインモード同様、オランダモードも黒や深紅が中心的であったが、前世紀の濃く重い色合いに代わって、淡い青、淡い赤、淡い緑、薄い黄などパステル調の色や煙ったような色合いが人気を博すようになった。また、アグリッパ・ドゥビニエによれば、17世紀初め「修道女の腹」「陽気な未亡人」「病気のスペイン人」「毒殺された猿」「便秘の女」「疱瘡色」などの奇を衒った色名が流行していた。これらは淡いピンクや濁った黄褐色から緑がかった鈍い黄色というこれまでほとんど衣服に使われなかった色合いである。1635年ごろから農民が着ていたジャケット型の衣服がモードの世界に現れ始める。男子服の上着の丈やズボンの股上はこのころだんだん短くなっていき、若い裕福な男性は肌着であるシュミーズやドロワーズの一部が見えた状態で街を歩くのが当たり前になった。 ルイ14世の親政が始まった1661年に発表されたモリエールの『亭主学校』には、堅物のスガレナル青年が流行の服装に目がない派手好きの兄を諌める一幕がある。堅実な弟は腹を完全に覆うプールポアンにぴったりしたオードショースを穿いているが、兄は小さな帽子を被り長い金髪の鬘を身につけ、腹部を覆わない短いプールポアンに、シュミーズからジャボ(襟もとの襞飾り)を椅子に掛けた状態でテーブルにつくほど長く垂らし、派手なレースのカフスとカノン(膝飾り)の揃い。さらにペティコートを穿いているではないかと弟を呆れさせている。 これは、1650年代ごろから流行していたベルギーフランドル地方に由来する「ラングラーヴ」という一見したところスカートに見える幅の広い半ズボンであろう。完全にスカート型をしたものであったという説もあるが、サミュエル・ピープスが日記に街の笑い話として「ペティコート・ブリッチズ(ラングラーヴの英名)の片方の筒に両脚を通したまま、まる一日気付かなかった男」の噂話を書き留めていることからも現代のキュロットスカートに近い形のものと考えた方がよさそうである。ラングラーヴの裾や腰には、色好みや優男を意味する「ギャラント」と呼ばれるリボン束をたっぷりと飾っていたのでますます女性的に見えた。1656年頃には、流行の衣服上下一式には500~600のリボン結びがついていて、300エレ(2メートル弱)の長さのリボンを買っても必要な数には足りないと言われている。1680年代には流行が下火となったようで、1682年の『メルキュール・ギャラン』には「ラングラーヴとカノンには我慢がならない』と非難されている。 17世紀には、カールした長い金髪の鬘は富裕市民層の若者に「獅子のように雄々しい外観を与える」と2000フラン~3000フランと言う高値にもかかわらず非常に人気があった。また、金髪以外の生まれつきの髪も長く伸ばして思い思いにヘアセットすることが流行した。長髪が一般に流行したために、1650年代には肩を覆うほど広かった飾り襟が、首元が詰まって幅が狭く胸元まで垂らすタイプになっている。このタイプの飾り襟は後にクラヴァット(ネクタイの原型となったスカーフの一種)に移行した。サミュエル・ピープスは1662年10月11日の日記に、市場で自分が身につける男物の90シリングのクラヴァットと妻へ贈る女物の45シリングのクラヴァットを購入したと記している。1681年のフランスのファッション誌『メルキュール・ド・フランス』では、レースのクラヴァットとカフスはセットで購入するものとされており、合わせて50ルイドール前後が相場であったらしい。 ルイ13世の親政の頃には、髪の薄かったルイ13世が宮廷の正装に鬘を持ちこんだのと同時に、長い髪をカールさせたり編んだりした「カドネット」という髪型にリボンや宝石を飾った「ファビュール」というファッションも流行した。この装飾過多な髪型はルイ13世の同母弟で、ガストン・ジャン・バティストが彼を慕う貴婦人からの捧げものを髪に飾ったのが宮廷での流行の発端とされている。男性が愛の証として恋人から贈られたリボンを髪に結ぶ風習は、もともと農村や町の若者の間から起こったもので、ドイツでは、恋人から贈られたものと偽って自分で買い込んだリボンを髪に結ぶ見栄っ張りの男を馬鹿にする民謡が伝わっている。裕福な市民の若者には、鏝で巻いた巻き毛を垂らしたもののほかに頭全体をふわふわとした巻き毛で覆った「プードル頭」が流行している。モリエールによって1668年に発表された『守銭奴』では、裕福な老人が息子の鬘と髪のリボンの値段を見積もって20ピストールはすると非難しているが、当時の富裕市民層の若者にとってはこの位の値段の鬘が相場であったのだろう。 一方、役所や裁判所に勤める者たちは、威儀を正すためスペイン風の堅苦しい恰好をしなければならなかった。ドイツでは18世紀の末まで、役人が襞襟を身に着けていたという。スペインの影響が強かったベルギーやオーストリアでは、宮廷を中心により広い層にスペイン風の衣装は長く着用されていた。ただし、スペイン本土でも余りに不便であった襞襟の改良はされており、当時主に着用された飾り襟は皿を意味する「ゴリーリャ」という襞を畳まないリンネルを糊で皿型に張った小さく低いものである。17世紀末期には、ルイ13世が宮廷中に着用させ、ルイ14世がたっぷりした巻き毛を大きく盛り上げる形に改良した男性用かつら「アロンジュ」を聖職者や裁判官も着用することとなった。特に裁判官が威儀を正すためかつらを身につける習慣は現代まで生き残っている。聖職者の場合、カトリックの重要な儀式である塗油の儀のためにかつらを外さないで済むように、頭頂部に切れ込みや窓を作って儀式の際だけ開くように工夫していた。
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上流市民の服装
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1640年代には、長手袋とマフが登場する。市民の間にオランダファッションが流行した1650年代前後の一般の女性の服装は当時の風俗画家フェルメールやヤン・ステーンの作品などに見られる。よく見受けられる色は、淡い黄色を中心に淡い赤や水色など軽やかな色合いである。スカートに枠はなくなり床に引きずり、コルセットで胴体全体を締めつけることもなくなったため全体のシルエットは16世紀よりふくよかに見える。布地も重厚で豪華なブロケードよりも、つやつやとして軽やかなサテンに人気が集まった。スカートがゆるやかに広がっているのは三枚のジュップ(アンダースカート)を重ねているからであり、フランスでは上から「ラ・モデスト(つつしみ)」「ラ・フリポンヌ(おてんば)」「ラ・スクレット(秘密)」とそれぞれ違う名で呼んでいた。胴体を締めつけなくなったために胸のふくらみが復活し、襟ぐりを台形に広く開けて胸元を見せるようになった。袖は17世紀前半に流行したメディチスリーブに代表される詰め物をして膨らみをいくつも作った動きづらいものではなく、七分丈程度でややゆとりのある長袖が普通であった。上着として尻を覆うくらいの丈をしたゆったりした上着を着ることもあったが、たいてい毛皮の縁が付けられていた。フェルメールの財産目録には、モデルに着せるためのと思われる「黄色いサテンのテンの毛皮縁の上着」が残されており当時の流行を反映した風俗画のために画家が購入したものと思われる。部屋着としては、オランダでは「ヤポン」という着物風のガウン(時には非常に裕福な婦人が日本から取り寄せる本物の和服をはおることもあった)が特に富裕な上流市民に流行していた。外国風趣味の物珍しさと富の誇示に加え、いまだに高価であった上質の絹をガウンとして着用する最高のぜいたくであった。日本と交易ができないイギリスやフランスでは、上流階級の人々が似たようなガウンをインド更紗で仕立て、生地を「アンディエンヌ」と呼んだ。髪は耳の横で巻き毛にして、後ろ髪を三つ編みにしてから頭の上でシニヨンに結った。 1672年に、イギリスから欧州に旅行した上流市民の若者に同行した家庭教師から、若者の伯母へパリの流行を書き送った手紙がある。「胸衣とコルセットは白や褐色のタフタに黒などで花模様の刺繍をしています。白と黒だけの衣装でも白や銀のスカートを着ると、美しく誠実に見えます。アンダースカートは下に穿いているものが覗くように重ねるか、レースで縁を付けています。」これはイギリスの女性がパリの最新流行をいち早く知るために、甥の家庭教師に報告を頼んだもので、そうした背景があるためにかなり細かく正確に当時の流行を描写していると考えられる。胸衣とはピエスデストマと呼ばれるコルセットを覆う三角の布地のことで、当時はローブ(いわゆるドレス。ワンピース型に見えるが上下が分かれておりスカートをホックで上衣の内側に留めている)の襟ぐりからへそにかけてが大きく三角形に開いており、その開いた部分を紐で締めあげた後ろに差し込んで使った。リボン飾りを付けたりレースで装飾するのが流行していたが、18世紀にはローブに最初から縫いつけられるようになっていく。17世紀後期にコルセットは復権したが、胴体全体を締めつけるものではなく乳房を持ちあげて胸を強調するような形に変わっていた。前をひも締めするコルセットは庶民の女性が広く用いたが、華やかな飾り結びをつけると中流以上の人にも流行し「グルガンディーヌ(尻軽女)」という冗談めいた名で呼ばれた。
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