上流社会の礼装と帯留
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 14:22 UTC 版)
上流社会では、日本が欧風化していくに当たって、華やかな西洋の宝飾品に対抗できる和装品の一つとして、宝石を使った帯留が、戦前からもてはやされた。フォーマルな席では、「宝石を豪華に飾る(西洋の)ローブ・デコルテに対し、日本婦人の紋付き(色留袖)にノー・ジュエリーは見劣り」がし、宮内庁筋から、「きものの礼装のときは帯留めや指輪に宝石を」と、お達しが出たこともある。紋付色留袖・丸帯の礼装に合わせて、ルビー・サファイア・エメラルドを使った帯留は、夜のパーティーやレセプションで、ダイヤモンド・真珠を使った帯留は、昼夜を問わず、活躍した。また、1931年(昭和6年)、皇族の女王が降嫁するに当たって撮影された婚礼記念写真の中に、女王が引き振り袖に丸帯、三分程の幅の帯締めに帯留を通して着用した姿(夫君は、モーニングコート着用にシルクハット、手袋をお持ちの姿) や、1944年(昭和19年)、鷹司家の現当主の両親の結婚式の写真に、鷹司家の令嬢が、帯留を用いている姿、1981年(昭和56年)、一橋徳川家の当主の勲一等瑞宝章授章式の際に撮影された記念写真に、当主に随伴された鳥取藩主池田家出身の夫人が、五つ紋付きの色留袖に帯留を用いる姿 などが、残されている。 このように、上流社会では、「和服にもフォーマルのときには帯止めと指輪に宝石を使う」 ようになったが、黒留袖には、帯締めとして、帯留には通常は通らない、白の丸ぐけ紐(布を仕立てて綿をくるんだ紐)を用いるのを本来の姿とする(振袖にも、丸ぐけ紐を用いるのが本来の姿とされる。)。しかし、徳川将軍家や徳川慶喜家の奥方、徳川慶喜家や紀伊徳川家出身の奥方、加賀前田氏出身の奥方、正仁親王妃華子御成婚の際の告期の儀の津軽家の奥方などの、旧華族の写真に、五つ紋付きの黒留袖に帯留を通した幅二分〜三分の平打ち(平組)の帯締めを用いている姿が残っており、本来の姿は別として、黒留袖に帯留を使用することは、全くタブーでは無かった(振り袖も同様である)。 なお、留袖に用いる帯留は、ダイヤモンド・ルビー・サファイア・エメラルド・真珠の五大宝石もしくはアレキサンドライト・ヒスイを加えた七大宝石のものがふさわしいとされる。また、振り袖に用いる帯留は、ルビー・真珠・オパール・珊瑚・金・銀・七宝などがふさわしいとされる。
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