レンフルー仮説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 01:38 UTC 版)
「コリン・レンフルー」の記事における「レンフルー仮説」の解説
「アナトリア仮説」および「チャタル・ヒュユク」も参照 「レンフルー仮説(アナトリア仮説)」とは、インド・ヨーロッパ語の「原郷(ドイツ語: Urheimat)」は、従来比較言語学の分野などで提唱されてきた南ロシアにあるのではなく、トルコ中部のアナトリアにあるとする仮説であり、これは1987年の "Archaeology and Language: The Puzzle of the Indo-European Origins"(『ことばの考古学』橋本槇矩 訳)のなかで詳細に展開されている。この仮説は、イギリス生まれのオーストラリアの考古学者ピーター・ベルウッド(英語版)とあわせ、「農耕/言語拡散仮説」(Farming/Language Dispersal Hypothesis)と称することがあり、端的には農耕と言語は互いに相ともなって伝播したとする仮説である。 ここでレンフルーは言語学による先史時代研究の危険性をいくつもの事例を掲げて指摘し、印欧諸語にのこされた語彙や想定される原語彙から「原郷」の自然環境や生業などを類推する手法を批判している。民族と言語をイコールで結ぶのは誤りであるとし、また、考古学の立場からインド・ヨーロッパ祖語を話した集団とその拡散をもたらした歴史的背景を論じている。同時に、従来ビーカー土器と縄目文土器の分布から唱えられてきた諸説に対しても、新しい文化の出現は必ずしも新しい言語を話す集団の侵入を意味するものではないとして、土器型式を特定の言語グループと安易に結びつけることに批判を加えている。 レンフルーは、特定地域における言語変化のプロセスとして、 最初の入植 (それまで人が住んでいなかった地方に人間が入り込んでいくプロセス) 置換 (特定の地方で話されていた言語が別の言語に置き換えられていくプロセス) 継続的発達 (持続性と革新、混交) を挙げている。このうち、「最初の入植」を考古学的に研究するのは容易であり、「継続的発達」に関してはそれを示す資料に欠くことが多いので難しい。言語の「置換」に関しては、特定の地域において、ある言語が別の言語に取ってかわる諸条件を考察することは可能であるとして、いくつかのモデルを提示している。 ひとつは、「新しい言語を話す人々がある地域に大量に流入した結果、新しい言語が生まれる」というモデルである。このプロセスが最も明瞭に現れるのは、それまで狩猟採集民だけが住んでいた地域に農耕がもたらされた場合である。狩猟採集期の人口密度と初期農耕開始時期のそれの比は 1:50 におよび、この差は決定的である。イタリアの遺伝学者ルイジ・ルーカ・カヴァッリ=スフォルツァとアメリカ人考古学者アルバート・アマーマン(Albert Ammerman)が共同で導き出した人口動態/食料生産モデルにおいて唱えられた波動説、すなわち、初期農耕の伝播の波動モデルによれば、住民数増大の波形は一貫して放射状に進むのであり、いわゆる「植民」とは区別できる拡散の様相を示す。言い換えれば、方角はどうであれ最終的な結果としては、農耕は、すでに耕地化された地域から周囲に伝播していくのであり、平均すれば一定の速度でそれは進行するであろうと考えられる。これは、印欧語の広がりを考えるとき、きわめて重要なモデルとなる。 ふたつめのモデルは「優等民による支配」である。異なった言語を話す比較的小規模な組織的集団が、領域外から到来し、整備された軍事力を背景に先住民を支配し、従属させるというものである。このモデルは、移住者集団がすでに「序列化」された社会組織をもっていることが前提であり、定住地にも序列化があって、周辺の町には地方執政官の制度がしかれる。古代ローマによるヨーロッパの征服は、このモデルの典型例である。 3つめは「体制の崩壊」である。初期国家や文明のなかには、紀元前1110年以降のミケーネ文明や890年以降の低地マヤ文明などのように、外部からの侵略や征服によらずして消滅したと考えられるものがある。しばしば「暗黒時代」と呼ばれる現象がそれであるが、その場合、集団の移動をまねき、その地域で話されていたことばに重大な結果をもたらす場合があると考えられる。たとえば、内部危機をもつ中央勢力が辺境地帯から撤退したとき、その機に乗じて外部の小集団がその辺境を占領する場合があり、それにはローマ帝国崩壊期にブリタンニアを占領したアングロ・サクソン語を話す小集団の例がある。なお、レンフルーは、この3つのモデル以外に「強制的移住」、「定住/移動による境界変化」、「贈与/受容の人口システム」のモデルを掲げている。 このようないくつかの論点、あるいはモデルの提示のなかで、間違いなく全ヨーロッパに決定的な影響を与えた主要なプロセスこそ農耕の開始であるとレンフルーは主張する。印欧語は紀元前3500年から3000年頃にヨーロッパに伝播したとするクルガン説、縄目文土器説・ビーカー土器説(紀元前2900年 - 2000年頃)、火葬墓文化説(紀元前1500年以前の後期青銅器時代)のいずれも、全ヨーロッパにあてはめられるほどの広がりをもたないと彼は指摘する。 現在では、ヨーロッパにおける農耕民の定着の始まりは紀元前6000年以前のクレタ島をふくむギリシャだろうと考えられているが、これは、コムギを豆類とともに耕作し、羊や山羊を飼育する混合農業であった。放射性炭素年代測定によれば、農耕は紀元前6500年以前にギリシャに達していたと考えられ、紀元前3500年頃にはスコットランドの北端とオークニー諸島に到達していた。その間、上述の波動説を援用して、農耕文化は小規模な地域的移動と相まって、長い年月をかけて全欧州へと次第に広まっていったというのが、「レンフルー仮説」の骨子である。なお、中石器時代に先住の狩猟採集民が密に居住し、貝塚などによってかなり繁栄したであろうことを示す地域においては、土着の中石器時代の人々が、のちになって実際に農耕を開始した可能性が高く、それは、イタリア中部のエトルリア語、スペイン北部のバスク語、イベリア半島東部のイベリア語など、歴史時代にまで生き残った非インド・ヨーロッパ語族がインド・ヨーロッパ語族の居住域のなかに点在することの説明がつくとしている。 さらにレンフルーは、アナトリア南部のチャタル・ヒュユクとギリシャ北部のネア・ニコメディア(英語版)の両遺跡では、四角形の家屋設計、木組みと泥壁、解放型定住地設計などの建築様式、家畜をともなう混合農業、鋲と釘、装飾スタンプ、ベルトやファスナーといった付属品、あるいは土器における白塗りと指文様、レッド・オン・クリーム塗り、モデル・フェイスといった装飾面において、文化的に互いに類似する要素が多いことを指摘しており、これらをふまえて、自らの仮説の試金石として、以下のように印欧諸語の推移の概要を示している。 アナトリアからギリシャへ(テッサリアと西マケドニア) - 最終的にギリシャ語に至る 北ギリシャから第一次温帯へ(スタルチェヴォ(英語版)/ケレス/カラノーヴォ(英語版)) - イリュリア語、トラキア語、ダキア語に至る 第一次温帯(ケレス)から帯文土器へ - 中央ヨーロッパの言語(ケルト語、ゲルマン語)に至る 帯文土器から原ククテニと原トリポリエへ - 現在スラヴ語が話されている地域の諸言語に至る 帯文土器からスカンジナビアそして西方の北フランスへ - 初期ゲルマン語、スカンジナビアの諸言語に至る 西ギリシャからカルディウム土器(Impressed ware、「印象的な土器」)(地中海沿岸)へ - イタリア諸言語(エトルリア語を除く)に至る カルディウム土器からイベリア半島の新石器時代へ - スペイン・ポルトガルの初期の諸言語に至る カルディウム土器から中・北部フランスへ - フランスの初期ケルト(または前ケルト)諸言語に至る<そこに推移5.が寄与> 北フランスと低地地帯(帯文土器)からイギリス、アイルランドへ - イギリスとアイルランドの初期諸言語に至る〈ここにケルト語(または前ケルト語)とピクト語が含まれる〉 レンフルー仮説(アナトリア仮説)については、マリヤ・ギンブタスらの「クルガン仮説」のみならず、言語学の立場からの批判もある。レンフルー自身も上記仮説を「これほど単純な図式化は危うい」と述べているが、いずれにしても、かれは印欧語族が通説よりはるかに古い起源をもつ可能性を指摘し、その起源を従来よりも4000年以上さかのぼらせて、ゴードン・チャイルド以来の「インド・ヨーロッパ問題」にひとつの解答を与えたのは確かである。また、その発想の原点である農耕/言語拡散仮説については、これにもとづいて印欧語族のみならず、オーストロネシア語族、アフリカ大陸のバントゥー諸語、北米大陸のユト・アステカ語族における検証が進んでおり、今後とも他の分野との協業を通じてその学際的研究の進展がおおいに期待される。
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