プリマス植民地の防衛とは? わかりやすく解説

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プリマス植民地の防衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 17:08 UTC 版)

マイルス・スタンディッシュ」の記事における「プリマス植民地の防衛」の解説

1621年2月までに、開拓者インディアン数回目にしていたが、対話起きていなかった。彼らの敵対行動起こった場合の対応に備えていたときの1621年2月17日植民地男性集まって肉体的に行動できる男性によって民兵隊を結成し、スタンディッシュをその指揮官選んだプリマス植民地指導者達は既にその役目でスタンディッシュを雇っていたが、この選挙によって民主的な手続きによってその地位確認することになったプリマス植民地男たちは、スタンディッシュが生きている間、指揮官選び続けることになった。スタンディッシュは民兵大尉として、パイクマスケット銃使い方隊員定期的に訓練したインディアンとの接触1621年3月に、英語を話すアベナキ族インディアン、サモセットを通じてだった。サモセットは近くにいるポカノケット族酋長マサソイトピルグリムとの会見手配した3月22日プリマス植民地初代総督のジョン・カーバーがマサソイトとの条約調印し、ポカノケット族とイングランド人同盟宣言し両者必要に応じて互いを守ることを求めたカーバー総督同年死亡し、その条約を守る責任後継総督となったウィリアム・ブラッドフォード降りかかった歴史家のナサニエル・フィルブリックが述べているように、ブラッドフォードとスタンディッシュは、マサチューセッツ族ナラガンセット族など他部族からピルグリムとポカノケット族双方に対して与えられる脅威対応するという、複雑な任務煩わされることが多かった脅威が高まると、スタンディッシュはそのライバル唆して脅しをかけるのが通常のやり方だった。そのような行動ブラッドフォード不快にさせることもあったが、ポカノケット族との条約を守る理にかなった手段だと分かっていた。 ネマスケット襲撃この条約対す最初挑戦1621年8月起きた。コービタントという酋長マサソイト指導力落とそうとし始めた。現在ミドルボロの町がある場所にあったポカノケット族のネマスケット集落は、プリマスから約14マイル (23 km) 西にあり、コービタントはメスケットの住人マサソイト反抗するように仕向けていた。ブラッドフォードは、ティスクァンタム(イギリス人はスクァントと呼んでいた)とホバモックという2人信頼できる通訳送り、ネマスケットで起こっていることを調べさせた。ティスクァンタムはピルグリム助言し援助する重要人物であり、植民地生き残り確かにしていた。ホバモックも影響力ある同盟者であり、プニーズと呼ばれるマサソイト高位助言者でもあり、インディアンの間で特別の敬意抱かれ恐れ持たれる戦士だった。ティスクァンタムとホバモックがネマスケットに着くと、コービタントがティスクァンタムを拘束し、彼を殺すと脅した。ホバモックが逃亡して、プリマス知らせたブラッドフォードとスタンディッシュは、これがイングランド人とポカノケット族の同盟対す危険な脅威であることで意見一致し直ぐに行動することにした。1621年8月14日、スタンディッシュは10名を率いてネマスケットに向かい、コービタントを殺すことにしていた。スタンディッシュと直ぐに仲良くなっていたホバモックがこの隊を案内した。この二人残り人生でも密接な間柄だった。ホバモックは老いてからダクスベリーでスタンディッシュの家を守る者となった。 スタンディッシュはネマスケットに着くと、コービタントが寝ていると考えられるウィグワム夜襲掛ける作戦立てたその夜、スタンディッシュとホバモックはいきなり隠れ家飛び込み、コービタントを求めて叫び声上げた驚いたポカノケット族が逃げようとしているところにウィグワムの外にいたイングランド人マスケット銃発砲し、ポカノケット族の男性女性負傷させた。彼らは後にプリマスに連れていかれて治療受けた。スタンディッシュは間もなく、コービタントが既にから逃亡していたことがわかり、ティスクァンタムは無事であることも分かった。 スタンディッシュはコービタントを捕まえ損ねたがこの襲撃望んでいた効果上げた1621年9月13日、コービタントを含む9人の酋長プリマス来て国王ジェームズ忠誠を誓う条約調印した防御1621年11月ナラガンセット族から伝令プリマス到着し蛇皮包まれ一束の矢を届けた。ティスクァンタムとホバモックから、これはナラガンセット族酋長カノニカスからの脅しであり、侮辱であることを告げられた。現在のロードアイランド州ナラガンセット湾呼ばれる地帯の西に住んでいたナラガンセット族は、地域でも強力な部族だった。ブラッドフォードは、自分たちが脅し受けていないと示すために蛇皮火薬銃弾包んで送り返した。 スタンディッシュはこの脅しを真剣に考え開拓者達にはその小さなを背の高い真っ直ぐな丸太の柵で囲むよう奨励した。この提案全長マイル (0.8 km) になる壁を作ることを意味していた。さらにスタンディッシュは強い門と壁の上から射撃できるようなプラットフォーム建造推薦した植民地新たなフォーチュン号という船が到着したばかりで、人員増強されていたが、防衛に当たることができるのはそれでも50人に過ぎなかった。このような逆境にも拘わらず開拓者達はスタンディッシュの推薦した防御柵を3か月ちょうどで作り上げ1622年3月完成した。スタンディッシュは民兵を4個中隊に編成し、1個中隊が1つの壁を守ることとし攻撃され場合どのようにを守るかを想定した訓練をした。 ウェサガセットより深刻な脅しが北のマサチューセッツ族から起こり新たなイングランド人開拓者到着することで緊急度増した1622年4月新し植民地先駆けプリマス到着した。彼らは商人のトマス・ウェストンから派遣されプリマスに近いどこかに新し開拓地設立することとされていた。彼らはプリマスの北25マイル (40 km)、現在のウェイマス市のあるフォア川の岸を選んだ。その地はウェサガセット植民地呼ばれた。この管理のまずい植民地開拓者は、泥棒無謀な振る舞いマサチューセッツ族怒らせた1623年3月までに、マサソイトは、マサチューセッツ族戦士影響力ある集団が、ウェサガセットとプリマス植民地破壊しよう考えていることを知ったマサソイトピルグリム先手を打つよう警告した。ウェサガセット植民地開拓者1人、フィネアス・プラットがその開拓地危険な状態にあることを確認したプラットプリマス脱出し、ウェサガセット植民地イングランド人繰り返しマサチューセッツ族から脅されていること、開拓地常時監視されていること、開拓者飢えのために死につつあることを報告したブラッドフォード大衆集会招集しピルグリムはスタンディッシュにホバモックを含む8人の隊を付けてウェサガセットに派遣しイングランド人開拓地消滅させよう図っている隊の指導者を殺すことに決めた。この任務はスタンディッシュにとって個人的な考えもあった。ウェサガセットを脅している戦士一人にネポンセット族のウィトワマットという者がおり、以前にスタンディッシュを侮辱し脅していた。 スタンディッシュはウェサガセットに到着しイングランド人多くマサチューセッツ族と共にらすため立ち去ったことを知った。スタンディッシュは彼らにウェサガセットに戻るよう命じた。スタンディッシュが到着した翌日マサチューセッツ族戦士でウェサガセット植民地脅していた集団指導者であるペックスオットが、ウィトワマットやその他の戦士と共に開拓地にやってきた。スタンディッシュは単に交易をするためにウェサガセットにいると主張したが、ペックスオットはホバモックに「彼があえてしようというときにはじめさせろ。彼は我々に気付かせずにはおれない」と語ったその日遅く、ペックスオットがスタンディッシュに近づいて、彼を見下ろし、「貴方は偉大な大尉だが、小さなに過ぎない。私は酋長ではないが、大きな力と勇気がある」と告げた翌日、スタンディッシュはウェサガセットの1室のみの家屋一つで、ペックスオットと食事をする手配をした。ペックスオットはウィトワマットと、第3戦士としてまだ幼い少年(ウィトワマットの弟)および数人女性連れてきた。スタンディッシュはその家の中プリマスの男3人とホバモックを入れさせていた。予め決めていた合図イングランド人は家のドア閉め、スタンディッシュがペックスオットを攻撃して、そのナイフ何度も突き刺した。ウィトワマットと、第3戦士殺された。スタンディッシュは家を出る時に、他にマサチューセッツ族戦士2人も殺すよう命じた。スタンディッシュは部下集め、ウェサガセットの壁の外出てマサチューセッツ族酋長であるオブタキーストを探したイングランド人間もなく戦士集団と共にいたオブタキーストに出逢いその後起きた小競り合いの間にオブタキーストが逃亡した。 スタンディッシュはその任務完遂し、ウィトワマットの首を持ってプリマス戻ったイングランド人開拓地破壊しよう企んでいた指導者殺され脅威去ったが、この行動予想されなかった結果生んだ。ウェサガセットの開拓地をスタンディッシュは理論上守ろうとしていたが、この出来事のあとは放棄するしかなかった。開拓者多くメインのモンヒガン島にあったイングランド漁業基地向けて出て行った。この攻撃地域全体インディアンの間に恐怖広げることになった集落放棄されピルグリム交易再開させるのが難し時期があった。Hこのときまだライデンにいたジョン・ロビンソン牧師は、スタンディッシュの残忍さ批判したブラッドフォードもスタンディッシュのやり方不快に思ったが、文書に「スタンディッシュ大尉について、我々は彼に自分答えさせるが、このことで我々は、彼が我々の中の誰よりも頼りになること、世の中のために注意深いことを言わねばならないと書いて弁護していた。 メリーマウント開拓者散失 1625年別のイングランド人集団がウェサガセットからそれ程遠くない所に前進基地作った現在のクインシーにあり、プリマスの北約27マイル (43 km) にあった。公式にはマウントウォラストン呼ばれたが、メリーマウントという綽名があった。そのイングランド人小集団の指導者トマス・モートンが、ピルグリムにとって不愉快で危険だ考えられる行動奨励した。メリーマウントの人々5月立て自由に飲酒し安息日を守ることを拒否しインディアン武器売ったブラッドフォードはそれらの行動を特に問題あると考え1628年にはスタンディッシュに遠征隊を率いて行ってモートン逮捕するよう命令した。 スタンディッシュが一群人々率いてメリーマウントに到着すると、そこの小さな集団小さな建物中に閉じこもっていることが分かったモートン最終的にプリマスから来た者達を攻撃することに決めたが、メリーマウントの集団は既に飲み過ぎており武器扱えなくなっていた。モートン武器をスタンディッシュに向けたが、スタンディッシュがそれを取り上げた。スタンディッシュと隊員モートンプリマスに連れて行き最後イングランド送り返した。後にモートンは『新しイングランドカナーン』と題する本を書きその中でマイルス・スタンディッシュのことを「エビ大尉」と呼び、「私はマサチューセッツ族インディアンキリスト教徒よりも人間性があることが分かったと書いていた。 ペノブスコット遠征スタンディッシュはプリマスインディアンや他のイングランド人から守って来て最後の意味のある遠征フランス人対するものだった。ペノブスコット川沿い現在のメイン州カスタインで、フランス人1613年交易基地設立したイギリス軍1628年にこの開拓地占領し、それをプリマス植民地渡したピルグリムにとってそこは7年の間毛皮木材貴重な資源だった。しかし1635年フランス小さな遠征行い容易にその開拓地取り戻したウィリアム・ブラッドフォードはそこをプリマス植民地のものに取り返すべくスタンディッシュ大尉行動するよう命じた。これはスタンディッシュがそれ以前率いた小さな遠征比べて、かなり大規模な任務だった。この任務を果たすために、グッドホープ号という船をチャーターし、ガーリングという者を船長にした。スタンディッシュの作戦グッドホープ号をその交易基地から大砲射程内に動かし砲撃してフランス人降伏させるのだった。ガーリングは船が射程距離に入るまえに砲撃開始命じ直ぐに船上あった弾薬使い果たした。スタンディッシュはその作戦諦めた。 この時までに、プリマス隣接し人口増えたマサチューセッツ湾植民地設立されていた。ブラッドフォードボストン植民地指導者に交易拠点取り返すのを助けてくれるよう訴えた。しかしマサチューセッツ湾植民地拒否した。この経過プリマスマサチューセッツ湾植民地の間に続いた競争関係を示している。1691年、両植民地合併しマサチューセッツ湾直轄植民地となった

※この「プリマス植民地の防衛」の解説は、「マイルス・スタンディッシュ」の解説の一部です。
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