プリマス植民地の防衛
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「マイルス・スタンディッシュ」の記事における「プリマス植民地の防衛」の解説
1621年2月までに、開拓者はインディアンを数回目にしていたが、対話は起きていなかった。彼らの敵対行動が起こった場合の対応に備えていたときの1621年2月17日、植民地の男性が集まって、肉体的に行動できる男性によって民兵隊を結成し、スタンディッシュをその指揮官に選んだ。プリマス植民地の指導者達は既にその役目でスタンディッシュを雇っていたが、この選挙によって民主的な手続きによってその地位を確認することになった。プリマス植民地の男たちは、スタンディッシュが生きている間、指揮官に選び続けることになった。スタンディッシュは民兵隊大尉として、パイクやマスケット銃の使い方を隊員に定期的に訓練した。 インディアンとの接触は1621年3月に、英語を話すアベナキ族インディアン、サモセットを通じてだった。サモセットは近くにいるポカノケット族酋長のマサソイトとピルグリムとの会見を手配した。3月22日、プリマス植民地初代総督のジョン・カーバーがマサソイトとの条約に調印し、ポカノケット族とイングランド人の同盟を宣言し、両者は必要に応じて互いを守ることを求めた。カーバー総督は同年に死亡し、その条約を守る責任は後継総督となったウィリアム・ブラッドフォードに降りかかった。歴史家のナサニエル・フィルブリックが述べているように、ブラッドフォードとスタンディッシュは、マサチューセッツ族やナラガンセット族など他部族からピルグリムとポカノケット族双方に対して与えられる脅威に対応するという、複雑な任務に煩わされることが多かった。脅威が高まると、スタンディッシュはそのライバルを唆して脅しをかけるのが通常のやり方だった。そのような行動がブラッドフォードを不快にさせることもあったが、ポカノケット族との条約を守る理にかなった手段だと分かっていた。 ネマスケット襲撃この条約に対する最初の挑戦は1621年8月に起きた。コービタントという酋長がマサソイトの指導力を落とそうとし始めた。現在ミドルボロの町がある場所にあったポカノケット族のネマスケット集落は、プリマスから約14マイル (23 km) 西にあり、コービタントはメスケットの住人をマサソイトに反抗するように仕向けていた。ブラッドフォードは、ティスクァンタム(イギリス人はスクァントと呼んでいた)とホバモックという2人の信頼できる通訳を送り、ネマスケットで起こっていることを調べさせた。ティスクァンタムはピルグリムに助言し援助する重要人物であり、植民地の生き残りを確かにしていた。ホバモックも影響力ある同盟者であり、プニーズと呼ばれるマサソイトの高位の助言者でもあり、インディアンの間で特別の敬意を抱かれ恐れを持たれる戦士だった。ティスクァンタムとホバモックがネマスケットに着くと、コービタントがティスクァンタムを拘束し、彼を殺すと脅した。ホバモックが逃亡して、プリマスに知らせた。 ブラッドフォードとスタンディッシュは、これがイングランド人とポカノケット族の同盟に対する危険な脅威であることで意見が一致し、直ぐに行動することにした。1621年8月14日、スタンディッシュは10名を率いてネマスケットに向かい、コービタントを殺すことにしていた。スタンディッシュと直ぐに仲良くなっていたホバモックがこの隊を案内した。この二人は残りの人生でも密接な間柄だった。ホバモックは老いてからダクスベリーでスタンディッシュの家を守る者となった。 スタンディッシュはネマスケットに着くと、コービタントが寝ていると考えられるウィグワムに夜襲を掛ける作戦を立てた。その夜、スタンディッシュとホバモックはいきなり隠れ家に飛び込み、コービタントを求めて叫び声を上げた。驚いたポカノケット族が逃げようとしているところに、ウィグワムの外にいたイングランド人がマスケット銃を発砲し、ポカノケット族の男性や女性を負傷させた。彼らは後にプリマスに連れていかれて治療を受けた。スタンディッシュは間もなく、コービタントが既に村から逃亡していたことがわかり、ティスクァンタムは無事であることも分かった。 スタンディッシュはコービタントを捕まえ損ねたがこの襲撃は望んでいた効果を上げた。1621年9月13日、コービタントを含む9人の酋長がプリマスに来て、国王ジェームズに忠誠を誓う条約に調印した。 防御柵 1621年11月、ナラガンセット族から伝令がプリマスに到着し、蛇皮に包まれた一束の矢を届けた。ティスクァンタムとホバモックから、これはナラガンセット族の酋長カノニカスからの脅しであり、侮辱であることを告げられた。現在のロードアイランド州ナラガンセット湾と呼ばれる地帯の西に住んでいたナラガンセット族は、地域でも強力な部族だった。ブラッドフォードは、自分たちが脅しを受けていないと示すために蛇皮に火薬と銃弾を包んで送り返した。 スタンディッシュはこの脅しを真剣に考え、開拓者達にはその小さな村を背の高い真っ直ぐな丸太の柵で囲むよう奨励した。この提案は全長半マイル (0.8 km) になる壁を作ることを意味していた。さらにスタンディッシュは強い門と壁の上から射撃できるようなプラットフォームの建造も推薦した。植民地は新たなフォーチュン号という船が到着したばかりで、人員が増強されていたが、防衛に当たることができるのはそれでも50人に過ぎなかった。このような逆境にも拘わらず、開拓者達はスタンディッシュの推薦した防御柵を3か月ちょうどで作り上げ、1622年3月に完成した。スタンディッシュは民兵を4個中隊に編成し、1個中隊が1つの壁を守ることとし、攻撃された場合にどのように村を守るかを想定した訓練をした。 ウェサガセットより深刻な脅しが北のマサチューセッツ族から起こり、新たなイングランド人開拓者が到着することで緊急度を増した。1622年4月、新しい植民地の先駆けがプリマスに到着した。彼らは商人のトマス・ウェストンから派遣され、プリマスに近いどこかに新しい開拓地を設立することとされていた。彼らはプリマスの北25マイル (40 km)、現在のウェイマス市のあるフォア川の岸を選んだ。その地はウェサガセット植民地と呼ばれた。この管理のまずい植民地の開拓者は、泥棒や無謀な振る舞いでマサチューセッツ族を怒らせた。1623年3月までに、マサソイトは、マサチューセッツ族戦士の影響力ある集団が、ウェサガセットとプリマス両植民地を破壊しようと考えていることを知った。マサソイトはピルグリムに先手を打つよう警告した。ウェサガセット植民地の開拓者の1人、フィネアス・プラットがその開拓地が危険な状態にあることを確認した。プラットはプリマスに脱出し、ウェサガセット植民地のイングランド人は繰り返しマサチューセッツ族から脅されていること、開拓地は常時監視されていること、開拓者は飢えのために死につつあることを報告した。 ブラッドフォードは大衆集会を招集し、ピルグリムはスタンディッシュにホバモックを含む8人の隊を付けてウェサガセットに派遣し、イングランド人開拓地を消滅させようと図っている隊の指導者を殺すことに決めた。この任務はスタンディッシュにとって個人的な考えもあった。ウェサガセットを脅している戦士の一人にネポンセット族のウィトワマットという者がおり、以前にスタンディッシュを侮辱し、脅していた。 スタンディッシュはウェサガセットに到着し、イングランド人の多くがマサチューセッツ族と共に暮らすために立ち去ったことを知った。スタンディッシュは彼らにウェサガセットに戻るよう命じた。スタンディッシュが到着した翌日、マサチューセッツ族戦士でウェサガセット植民地を脅していた集団の指導者であるペックスオットが、ウィトワマットやその他の戦士と共に開拓地にやってきた。スタンディッシュは単に交易をするためにウェサガセットにいると主張したが、ペックスオットはホバモックに「彼があえてしようというときにはじめさせろ。彼は我々に気付かせずにはおれない」と語った。その日遅く、ペックスオットがスタンディッシュに近づいて、彼を見下ろし、「貴方は偉大な大尉だが、小さな男に過ぎない。私は酋長ではないが、大きな力と勇気がある」と告げた。 翌日、スタンディッシュはウェサガセットの1室のみの家屋の一つで、ペックスオットと食事をする手配をした。ペックスオットはウィトワマットと、第3の戦士としてまだ幼い少年(ウィトワマットの弟)および数人の女性を連れてきた。スタンディッシュはその家の中にプリマスの男3人とホバモックを入れさせていた。予め決めていた合図でイングランド人は家のドアを閉め、スタンディッシュがペックスオットを攻撃して、そのナイフで何度も突き刺した。ウィトワマットと、第3の戦士も殺された。スタンディッシュは家を出る時に、他にマサチューセッツ族の戦士2人も殺すよう命じた。スタンディッシュは部下を集め、ウェサガセットの壁の外に出て、マサチューセッツ族の酋長であるオブタキーストを探した。イングランド人は間もなく戦士の集団と共にいたオブタキーストに出逢い、その後に起きた小競り合いの間にオブタキーストが逃亡した。 スタンディッシュはその任務を完遂し、ウィトワマットの首を持ってプリマスに戻った。イングランド人開拓地を破壊しようと企んでいた指導者が殺され、脅威は去ったが、この行動は予想されなかった結果を生んだ。ウェサガセットの開拓地をスタンディッシュは理論上守ろうとしていたが、この出来事のあとは放棄するしかなかった。開拓者の多くはメインのモンヒガン島にあったイングランドの漁業基地に向けて出て行った。この攻撃は地域全体のインディアンの間に恐怖を広げることになった。集落が放棄され、ピルグリムが交易を再開させるのが難しい時期があった。Hこのときまだライデンにいたジョン・ロビンソン牧師は、スタンディッシュの残忍さを批判した。ブラッドフォードもスタンディッシュのやり方を不快に思ったが、文書に「スタンディッシュ大尉について、我々は彼に自分で答えさせるが、このことで我々は、彼が我々の中の誰よりも頼りになること、世の中のために注意深いことを言わねばならない」と書いて弁護していた。 メリーマウント開拓者の散失 1625年、別のイングランド人集団がウェサガセットからそれ程遠くない所に前進基地を作った。現在のクインシーにあり、プリマスの北約27マイル (43 km) にあった。公式にはマウントウォラストンと呼ばれたが、メリーマウントという綽名があった。そのイングランド人の小集団の指導者トマス・モートンが、ピルグリムにとって不愉快で危険だと考えられる行動を奨励した。メリーマウントの人々は5月柱を立て、自由に飲酒し、安息日を守ることを拒否し、インディアンに武器を売った。ブラッドフォードはそれらの行動を特に問題あると考え、1628年にはスタンディッシュに遠征隊を率いて行って、モートンを逮捕するよう命令した。 スタンディッシュが一群の人々を率いてメリーマウントに到着すると、そこの小さな集団は小さな建物の中に閉じこもっていることが分かった。モートンは最終的にプリマスから来た者達を攻撃することに決めたが、メリーマウントの集団は既に飲み過ぎており武器を扱えなくなっていた。モートンは武器をスタンディッシュに向けたが、スタンディッシュがそれを取り上げた。スタンディッシュと隊員はモートンをプリマスに連れて行き、最後はイングランドに送り返した。後にモートンは『新しいイングランドのカナーン』と題する本を書き、その中でマイルス・スタンディッシュのことを「エビ大尉」と呼び、「私はマサチューセッツ族インディアンがキリスト教徒よりも人間性があることが分かった」と書いていた。 ペノブスコット遠征スタンディッシュはプリマスをインディアンや他のイングランド人から守って来て、最後の意味のある遠征はフランス人に対するものだった。ペノブスコット川沿い、現在のメイン州カスタインで、フランス人が1613年に交易基地を設立した。イギリス軍が1628年にこの開拓地を占領し、それをプリマス植民地に渡した。ピルグリムにとってそこは7年の間毛皮と木材の貴重な資源だった。しかし1635年、フランスが小さな遠征を行い、容易にその開拓地を取り戻した。ウィリアム・ブラッドフォードはそこをプリマス植民地のものに取り返すべくスタンディッシュ大尉に行動するよう命じた。これはスタンディッシュがそれ以前に率いた小さな遠征に比べて、かなり大規模な任務だった。この任務を果たすために、グッドホープ号という船をチャーターし、ガーリングという者を船長にした。スタンディッシュの作戦はグッドホープ号をその交易基地から大砲の射程内に動かし、砲撃してフランス人を降伏させるものだった。ガーリングは船が射程距離に入るまえに砲撃開始を命じ、直ぐに船上あった弾薬を使い果たした。スタンディッシュはその作戦を諦めた。 この時までに、プリマスに隣接し、人口が増えたマサチューセッツ湾植民地が設立されていた。ブラッドフォードはボストンの植民地指導者に交易拠点を取り返すのを助けてくれるよう訴えた。しかしマサチューセッツ湾植民地は拒否した。この経過はプリマスとマサチューセッツ湾植民地の間に続いた競争関係を示している。1691年、両植民地が合併し、マサチューセッツ湾直轄植民地となった。
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