プリマス・ブレザレン運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/27 14:49 UTC 版)
「ロバート・チャップマン (牧師)」の記事における「プリマス・ブレザレン運動」の解説
ロバートは、バーンスタプルの教会で伝道の成果をあげ始めていたころ、ブリストルで伝道活動を行っていたジョージ・ミュラーと知り合った。その後、ロバートもミュラーとともにプリマス・ブレザレン運動へ関与していくこととなり、運動内でも影響力のある人物とみなされるようになった。そしてロバートの伝道への熱意、そして人々に対するあわれみの心は、貧しい人々への援助につながり、多くの人から彼は愛され、人々を回心させた。ロバートはあまりにも有名になったので、手紙に「イングランド、愛の大学、R.C.チャップマン」と宛先を書くだけで、彼のもとに正確に手紙が届いたほどであった。また「愛の使徒」という言葉で彼のことを表現することもあった。さらにチャールズ・スポルジョンも、「自分の知るなかで最も聖なる人物」とロバートのことを評した。 しかしながら、プリマス・ブレザレンは活動当初においては、教職制度の否定や、教派に縛られないことなどを謳っていたが、活動を進めるうちにメンバー間での教理の統一が図れないことから大きな議論・仲違いを招く事態に陥った。特に閉鎖的・教派主義的傾向を強めていったジョン・ダービが、ベンジャミン・ウィルズ・ニュートン(英語版)と論争したことが大きく影響し、1848年にオープン・ブレザレン(他の教派に対して穏健な態度を取り、信徒同士の交流も行なっているグループ。)とエクスクルーシブ・ブレザレン(教義理解を共有するグループ以外とは、たとえブレザレン同士でも、一切交流を持たない排他的なグループ。)とに分裂してしまった。 なおロバートは、プリマスブレザレンの間で大きな議論の対象となった、携挙の捉え方については、部分的携挙の考え方に立っていたことで知られる。部分的携挙とは、患難前に携挙される信徒もおれば、患難後に携挙される信徒もいる、という考え方である。 1848年に起こったプリマス・ブレザレンの内部分裂後、ロバートはオープン・ブレザレンの側に立ったものの、ジョン・ダービらのエクスクルーシブ・ブレザレンの集まりについて、「エクスクルーシブ(閉鎖的)」という名で呼ぶことを意識的に避け、「いとしい、最愛の兄弟たち」であるとか、「彼らの良心が私との交わりを拒絶し、私を遠ざけた兄弟たち」という名前で呼ぶことで愛の心を示し、セクト主義が教会にもたらす害悪を最後まで取り除こうと努めた。しかし一方、ダービのエクスクルーシブ・ブレザレンの支持者たちは、オープン派のロバートのことを侮蔑したりして、ロバートからの愛を踏みにじった。 だが、ブレザレンの分裂騒動にも振り回されず、ロバート・チャップマンは開かれた教会を目指して晩年まで伝道活動を続けたことで、人々から愛され、人々に大きな影響を与えたとともに、彼は日々祈りの生活を送って過ごした。
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