プリマス植民地の設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 17:08 UTC 版)
「マイルス・スタンディッシュ」の記事における「プリマス植民地の設立」の解説
メイフラワー号がケープコッド沖に停泊している間に、スタンディッシュは植民地の指導者達に、1隊を率いて岸に上がり、入植に適当な場所を見つけることを認めるよう提案した。1620年11月15日、スタンディッシュは16人の男たちを率い、ケープコッド北側の探検に徒歩で向かった。12月11日、スタンディッシュを含む18人の開拓者集団が、ボートを使ってケープコッド海岸の広範な探検を行った。開拓者隊は夜には岸に上がり、木の枝を使った間に合わせのバリケードに囲まれて過ごしていたが、ある夜に30人ほどのインディアン集団に攻撃された。当初イングランド人は恐慌に陥ったが、スタンディッシュが彼らを落ち着かせ、その火縄銃を不必要に発砲しないよう諭した。この出来事は「最初の遭遇」と呼ばれ、現在のマサチューセッツ州イースサムで起きていた。 更に探検を進めた後で、1620年12月遅くにピルグリムは現在のプリマス湾岸に入植地を選定した。スタンディッシュは小さな砦を置く場所について重大な助言を行い、大砲を据え、防衛力を最大にするように家屋の配置を決めた。部屋が1室しかない家1軒が建設されたときに、病気に襲われた。最初に到着した100人の開拓者のうち、僅か50人が最初の冬を生き残った。スタンディッシュの妻ローズは1621年1月に死んだ。 スタンディッシュ自身は病気にもならなかった数少ない者の1人であり、ウィリアム・ブラッドフォード(その後プリマス植民地の総督になった)は、スタンディッシュが多くの者を慰め、病気になった者の力の源になったと証言していた。スタンディッシュはブラッドフォードが病気になったときに介抱しており、これがその後長く続く友情の始まりとなった。ブラッドフォードはその生涯の大半で植民地総督の地位を保持しており、必要に応じてスタンディッシュと密接に協力した。性格面で見るとこの二人は正反対であり、ブラッドフォードは忍耐強くて判断は遅く、一方スタンディッシュは酷く気短かなことで知られていた。このような違いがあったにも拘わらず、二人は植民地を経営し、向かってくる危険に対応することではよく協業した。
※この「プリマス植民地の設立」の解説は、「マイルス・スタンディッシュ」の解説の一部です。
「プリマス植民地の設立」を含む「マイルス・スタンディッシュ」の記事については、「マイルス・スタンディッシュ」の概要を参照ください。
- プリマス植民地の設立のページへのリンク