最初の冬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 04:04 UTC 版)
12月21日、最初の上陸隊がプリマス入植地となる場所に到着した。しかし、直ぐに家を建てようという計画は荒れ模様の天候のために12月23日まで延期された。建設が開始されると、常に20名の男が陸上に残って安全を確保し、その他の働き手達は1日の終わりにメイフラワー号に戻った。女性と子供それに体の虚弱な者は船上に残った。多くの者が6ヶ月間船を離れられなかった。最初の建物は「共有建屋」で、編み枝と泥でつくった漆喰でできていた。ニューイングランドの厳しい冬の最中に、完成までに2週間を要した。その次の数週間で入植地の残りが少しずつ姿を現した。住居と作業所はコールズヒルの比較的平らな頂上部に造られ、隣接するフォートヒルには入植地を守ることになる大砲を支えるために木製のプラットフォームが造られた。身体的に健全な男達の多くが衰弱して働けなくなり、病気で死ぬ者もあった。19戸を計画していた住居の中7戸と共有建屋4戸が、最初の冬の間に完成した。 新世界における最初の冬の間に、メイフラワー号に乗船してきた者の大半が壊血病のような病気を患い、雨風を凌ぐ場所が無く、船の上で不自由を強いられた。102名いた乗客のうち45名が最初の冬の間に死に、コールズヒルに埋葬された。最初の一年間、すなわち1621年11月まで生き延びて感謝祭を迎えたのは53人だった。18人いた成人女性のうち、13人が最初の冬の間に死に、5月にももう一人死んだので、感謝祭を迎えられたのは4人に過ぎなかった。 1月の終わりまでに、定着に必要な建屋が建てられたので、メイフラワー号から食料の荷卸しが始まった。2月半ば、土地のインディアンと数回の緊張した遭遇があった後で、入植地の男性住人が軍隊組織を作った。マイルス・スタンディッシュが指揮官に指名された。2月の終わりに、5門の大砲がフォートヒルの防衛拠点に据えられた。ジョン・カーバーが航海中の指導者に指名されていたマーチンに代わって初代の知事に選ばれた。 1621年3月16日、インディアンとの最初の公式な接触が起こった。現在のメイン州ペマクィドポイント出身のサモセットという名のインディアンが大胆に入植地の中に歩いて来て、「ようこそ、イギリス人」("Welcome, Englishmen!" )と叫んだ。サモセットはヨーロッパ人から奴隷にされてヨーロッパに送られ、数年してメインに逃げ戻ってきていたので、幾らかの英語を覚えていた。インディアン集落パチュケットの前の住人が恐らく天然痘で死んだことを、ピルグリムが知ったのもこの会見の時である。彼らはこの地域の「最高指導者」がワンパノアグ族の酋長マサソイトであると想い違いした。 マサソイト酋長はワンパノアグ族インディアンの一支族ポコナケット族の酋長だったが、白人は彼を「ワンパノアグ族連合全体の創設者で指導者」と見なした。しかし、インディアンの酋長は合議制のなかの「調停者」、「世話役」であり、「指導者」でも「権力者」でもない。しかし白人たちは「酋長」を「首長」と誤認してしまい、以後のインディアン部族との交渉で、酋長の同意を部族の同意と思い込んだ。合議を経ていない白人の要求は当然インディアン社会から反発を受け、「インディアン戦争」という血みどろの植民地戦争を生みだしていった。 白人たちはパチュケットの出身で、マサチューセッツ族名「ティスクァンタム」として知られるスクァントの存在も知った。スクァントはヨーロッパに滞在したことがあり、英語を流暢に話した。サモセットはその夜をプリマスで過ごし、マサソイトの部族員との会合を手配する約束をした。 マサソイトとスクァントはピルグリムのことを気遣っていた。マサソイトが初めてイギリス人に会った時、部族の数人の男がイギリス水夫の謂われのない攻撃で殺されていた。ピルグリムがプロビンスタウンに上陸したときにコーンの埋蔵品を盗んだことも知っていた。スクァントは1614年にイギリスの探検家トマス・ハントに連れ去られ、最初はスペイン人僧侶団の奴隷として、続いてイングランドに渡って、ヨーロッパで5年間を過ごしてきていた。1619年、探検家フェルディナンド・ゴルジュの案内人としてニューイングランドに戻ってきたが、マサソイトとその部族員が船の乗組員を皆殺しにしてスクァントを取り戻した。 サモセットは、3月22日にスクァントを含むマサソイトの代理人らと共にプリマスに戻ってきた。マサソイト自身もその後間もなく加わった。贈り物の交換後にマサソイトとカーバー知事は正式な和平条約を結んだ。この条約では、お互いに相手に害を及ぼすようなことをしないこと、マサソイトはその同盟者がプリマスと平和的な交渉を行うように使者を送ること、戦争が起こった場合は互いに協力して戦うことが盛り込まれていた。 マサソイト酋長は部族の調停者として、この調停に加わっている。しかし上述したように、インディアンの酋長は「指導者」ではないので、部族員にこれに反発する者がいたとしても彼にこれを制限する権限は無い。 4月5日、プリマス港にほぼ4ヶ月停泊したままだったメイフラワー号がイングランドに向かって船出した。最初の冬で102人の乗客のうち、半数近くが死んでいた。ウィリアム・ブラッドフォードは「この最初の船で共にやってきた100人の中で、ほぼ半数が死を免れなかった。彼らの多くは2, 3ヶ月のうちに死んだ。」と書き記したコールズヒルの墓の幾つかが1855年に掘り出された。その遺骸はプリマス・ロックの近くに移葬された。
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