最初の公会議、ニカイア公会議とアリウス派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「最初の公会議、ニカイア公会議とアリウス派」の解説
アレクサンドリア教会において司祭アリウスは、子なるイエスは父なる神と同質ではないとする唯一神教を説いて、神を唯一絶対として、キリストは神に従属する被造物として創造に関わったにすぎないと主張した。これに対して、アレクサンドロス司教は、キリストは神そのものと主張すると、アリウスはアレクサンドロス司教に対して、キリストが神の一様態としたサベリウス主義だと非難した。そこでアレクサンドロス司教はアリウス一派を破門した。破門されたアリウスたちは、シリア、小アジアの教会に支持を求めて、ニコメディア司教エウセビオス、カイサリア司教エウセビオス(同名だが違う人)などがアリウスを支持した。他方、オシウス、アンティオキアのエウスタティオスがアレクサンドロスを支持し、対立が拡大していった。 コンスタンティヌス皇帝は対応を迫られて325年に最初の公会議(全教会規模の会議)であるニカイア公会議を開催し、アラビア、パルミュラ、アルメニアなど、300人の各地の司教が集まった。 ニカイア公会議ではアレクサンドロスの主張が認められ、アリウス派が異端とされ、アレクサンドリア教会執事(のちにアレクサンドリア大司教)アタナシオスたちによって三位一体論に基づくニカイア信条が制定され、アリウス派を異端とした。ニカイア信条では「(キリストは)父から生まれた神の独り子にして、父の本質より生まれ、…父と同一本質(ホモウシオス)であって、天地の万物はすべて主によって創造された」と謳われた。このニカイア信条への署名を拒んだ二人の司教、そしてニコメディア司教エウセビオスらは追放処分とされた。 またニカイア公会議では、ローマ司教の権能が、アレクサンドリア司教にもアンティオキア司教にも認められて「総大司教職(パトリアルカ)」が承認され、これは帝国法令として全帝国に布告された。しかし、コンスタンティヌス1世のキリスト教政策に対してミルティアデスローマ司教もシルヴェステルローマ司教も賛同していなかった。ローマ司教シルヴェステルはニカイア公会議に参加せず、特使を派遣するにとどまった。ただし、総大司教職のなかでもローマ司教は第一位のままであった。 しかし、ニカイア公会議以降もアリウス一派は反攻し、皇帝に接近して、アリウスとニコメディア司教エウセビオスの追放を解かれ、反ニカイアが形成され、ニカイア信条はサベリウス主義であると非難した。328年からはアタナシオス司教をアリウス派への暴力と穀物輸送妨害の罪で告発し、335年にはアタナシオスを追放した。335年にはアリウスは死去したが、アリウス派は東方で勢いを保った。
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