最初の優勝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 14:55 UTC 版)
個人としてはやや不満の残る1年目のシーズンとなったが、チームはラッセル効果により歴代2位の勝率となる44勝28敗の好成績を残し、レギュラーシーズンの勝率ではリーグトップとなった。 第1シードで臨んだプレーオフデビジョン決勝(当時の第1シードはデビジョン決勝から参加)ではドルフ・シェイズ率いるシラキュース・ナショナルズと対決。ルーキーのラッセルはプレーオフデビュー戦でいきなりリーグを代表するビッグマンとのマッチアップを任せられたが、16得点31リバウンド7ブロック(当時はブロックを計測していなかったため、公式記録ではない)という堂々たる数字を残し、セルティックスを108-89の完勝に導いた。勢いに乗ったセルティックスは3戦全勝でナショナルズを破り、念願のNBAファイナルに進出する。 ファイナルでは因縁のセントルイス・ホークスと対決。実力伯仲の両者は最初の6試合をそれぞれ3勝分け合い(第3戦ではアワーバックが緊張のあまり同僚のベン・ケルナーを殴り、300ドルの罰金を課せられるというハプニングが起きた)、シリーズは第7戦に突入。この大一番でラッセルはホークスのエース、ボブ・ペティットを懸命に抑え込んでいたが、試合の主役はこの日37得点をあげたトム・ヘインソーンだった。ラッセルが後に『コールマン・プレイ』と呼ばれるブロックショットを繰り出すまでは。100-101とセルティックスの1点ビハインドで迎えた第4Q、残り40秒。ミッドラインからのスローインを受け取ったホークスのジャック・コールマンのシュートを、ベースラインに立っていたはずのラッセルが何処からともなく飛んできて、見事にブロック。さらにラッセルは自ら速攻に走って、土壇場でチームを逆転に導くシュートを決めた。その後ペティットの執念でホークスに追いつかれたため、試合はオーバータイムに突入。さらに2つ目のオーバータイムを重ねたが、セルティックスはホークスの懸命の追撃を振り切って、125-123で勝利。この試合で19得点32リバウンドに加え、第4Qでチームを救う名ブロックショットを叩き出したラッセルは、NBA1年目にしてチームを初優勝に導いた。しかしこの優勝は後に続く栄光の時代の、ほんの序章に過ぎなかった。なお、この年のセルティックスには大黒柱のラッセル、プレイメーカーのボブ・クージー、名シューターのビル・シャーマン、得点力に長けたフォワード、トム・ヘインソーン、名シックスマンのフランク・ラムジー、優れたディフェンダーのジム・ロスカトフと、後にセルティックスのアリーナの天井を永久欠番のバナーで飾る選手が6人も居た(K.C.ジョーンズは兵役に就いていたため、このシーズンは参加せず)。 翌1957-58シーズン、開幕からフル参戦したラッセルは16.6得点22.7リバウンドをあげて初のリバウンド王に輝き(平均20リバウンド突破は史上初の快挙)、オールスターにも初選出され(ラッセルは引退する年まで12年連続でオールスターに出場する)、チームも前年に引き続き49勝23敗と好調を維持した。奇妙なことはレギュラーシーズン終了後、各賞の発表で起こった。2年連続でチームを勝率リーグトップに導き、自身も会心の成績を残したラッセルは、NBA2年目で早くも一つ目のシーズンMVPを獲得するが、オールNBAチームでは2ndチームの選出だった。選考員はMVPを受賞したラッセルよりも、まだ優秀なセンターが居ると判断したのである(1stチームのセンターはドルフ・シェイズだった)。この現象は後も繰り返し起こる事になる。 とは言えたとえラッセルより優秀なセンターが他に居ようとも、ラッセルがセルティックスに居ることが肝心だった。勝率リーグトップの成績を残したセルティックスはデビジョン決勝でフィラデルフィア・ウォリアーズを破ると、NBAファイナルでは2年連続で宿敵セントルイス・ホークスと対決。セルティックスにはミネアポリス・レイカーズ以来となる連覇の期待が掛かったシリーズとなったが、1勝1敗で迎えた第3戦で不幸が襲った。ラッセルがリバウンドの着地でペティットの足を踏んでしまい、足首を捻挫してしまい、そのままコートを去ってしまったのである。ラッセルの不在をセルティックスは辛うじて1勝2敗で切り抜け、第6戦にはラッセルが足を引き摺りながらも戻ってきたが、ペティットの一世一代のプレイ、50得点でセルティックスは破れ、連覇の夢は叶わなかった。
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