最初の出版と委員会の「停滞」
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「死海文書」の記事における「最初の出版と委員会の「停滞」」の解説
早くも1950年には最初の死海文書の公刊が行われた。ジョン・トレヴァーと2人のアメリカ人研究者ミラー・バロウズ (Millar Burrows)、ウィリアム・ブラウンリー (William Brownlee) の名義で『イザヤ書』、『ハバクク書註解』、続けて『共同体の規則(英語版)(宗規要覧)』が出版された。さらにスケーニクの監修した『イザヤ書』の第二の巻物、『感謝の詩篇』、『戦いの書』が(スケーニクの死後の)1955年にヘブライ語版と英語版で出版された。『外典創世記』もスケーニクの息子イガエル・ヤディンの努力によって1956年に出版された。ド・ヴォー率いる委員会もDJD(『ユダの荒野の発見物』叢書)第一巻を1955年に世に問うた。こうして1956年までに第1洞窟から発見されたすべての写本の内容が明らかにされた。最初に発見された写本群が迅速に出版されたのを見て、世の研究者たちは残りの写本に関しても国際委員会が迅速に公刊してくれるだろうと期待を抱いたが、その期待は完全に裏切られることになる。 委員会によるDJD(『ユダの荒野の発見物』叢書)は第1巻(1955年)、第2巻(1961年)、第3巻(1962年)、第4巻(1965年)、第5巻(1968年)と続けて出版され、第6巻(1977年)と第7巻(1982年)が思い出したように出版されたが、その作業は1960年代以降、遅々として進まなかった。その最大の理由は、第1洞窟から発見された写本がほぼ完全な形を保っていた(ので公刊もスムーズに行われた)のに対し、それ以外の洞窟から発見された写本は(第11洞窟から出た『神殿の巻物』を唯一の例外として)ほとんどが膨大な量の断片であり、再構成にかかる時間が膨大なものであったことによる(特に第4洞窟からは大量の文書が出たが、ほとんどが断片であったため、第4洞窟の文書の内容はなかなか明らかにされなかった)。また、リーダーのド・ヴォーが「委員会による公刊まで写本の内容を明かさない」よう委員たちに求めたことが、国際的な非難を受けることになった。 肝心の委員会の中からも不協和音が聞こえるようになる。1956年に委員のジョン・アレグロ(英語版)がBBCの放送で「銅の巻物」の内容に言及し、ヨルダン考古局と共同して『銅の巻物の宝物』という著作を1960年に委員会の許可を得ずに出版した。後にアレグロはこの「財宝」探索に乗り出す。さらにアレグロはソルボンヌ大学教授アンドレ・デュポン・ソメール(英語版) (André Dupont-Sommer) の感化を受けて「死海文書の内容がキリスト教の起源に関する重大な発見をもたらす」ものだと主張するようになる。1956年1月BBCのラジオ放送でアレグロは「死海文書の中に「義の教師なる人物がアレクサンドロス・ヤンナイオスによって捕らえられ、十字架にかけられ、弟子によっておろされ、その遺体が再臨の日まで守られること」が書かれており、これこそがキリスト教のルーツである」と述べ、大反響を巻き起こした。3月16日にド・ヴォーと委員会はタイムズ紙に反論を掲載、そのような記述が死海文書にはないことを明らかにした。後にアレグロ本人も「自分の推論」と認めている。アレグロは1970年にはユダヤ教やキリスト教が幻覚剤であるベニテングタケの効果によって生まれたことを述べた『聖なるきのこと十字架』を出版して以降、学者として認められなくなった。しかし、アレグロの主張はその後の死海文書をめぐる「カトリック教会の陰謀論」の原型として利用されることになる。 1967年の第三次中東戦争によって中東の政治情勢が大きく変化したことが、死海文書の研究継続に打撃を与えた。エルサレムとクムラン周辺がイスラエルの勢力下に入り、アメリカやイギリスの外交筋がエルサレムにおける紛争解決の日まで、一切の考古学的調査を控えるようにという要請を行った。これを受けてド・ヴォーのチームは活動を休止した。1971年にド・ヴォーが世を去ると、報告書の出版は細々と続けられたものの、死海文書の研究が著しく妨げられることになった。
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