ブルートレイン牽引
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:09 UTC 版)
「国鉄EF58形電気機関車」の記事における「ブルートレイン牽引」の解説
1958年10月ダイヤ改正で、のちに「ブルートレイン」と呼ばれることになる特急列車用固定編成客車20系が東京 - 博多間の特急「あさかぜ」で使用を開始し、牽引機に本形式が使用された。当時においては戦後新製された唯一の旅客列車用大型機関車で、かつ、特急牽引機として既に実績を有していたことが主たる理由である。 1960年には、架線電源式の電動発電機 (MG) を搭載したカニ22形が20系編成に組み込まれたこともあって本形式の一部に20系牽引の対応がなされ、先台車に20系乗務員室との有線電話回路・カニ22形の遠隔操作用回路を備えたジャンパ栓が設置された。外部塗色は従来のぶどう色2号塗装から20系に揃えた青塗装(青15号)に変更され、車体裾部のみをアクセントとしてクリーム色(クリーム1号)、台車は初期の20系客車に合わせた灰色(灰色2号、後に黒色に変更)とした。車両番号の変更は行われず、後継形式のEF60形500番台やEF65形500・1000番台のような明確な番台区分は行われなかった。本形式に備えられたカニ22形の遠隔操作装置は以下のような操作を行えたほか、給電の不良や電源車の火災に備えた警報器も有しており、非常時にはパンタグラフの緊急降下といった操作を行えるようになっていた。 カニ22形のパンタグラフ昇降・MG起動と停止 MGの通常使用時と冷房使用時での負荷切替 給電接触器の投入 なお、同じように20系客車用のジャンパ栓を備えたEF60形500番台やEF65形500・1000番台ではカニ22形のMG遠隔操作関連が省略され、非常用のパンタグラフ降下・MG停止と連絡電話回路のみとなっただけでなく、本形式が備えた20系客車用ジャンパ栓も1960年代の特急運用撤退後は使われることがなくなり、1970年代以降のP形改造や電気暖房改造に伴う先台車改造に際して撤去した例もあった。 本形式が東海道・山陽ブルートレインを牽引する際の最大の問題は、山陽本線上り列車での難所である瀬野 - 八本松間(通称「瀬野八」)において単機では登坂力不足のため、EF59形などの補機を必要とすることだった。これを解消すると同時に、20系客車の編成増強(14両→15両編成化)を図るため、1963年(昭和38年)12月からEF60形500番台への置き換えが始まった。だが、一般貨物列車での大きな牽引力確保を重視してEF15形と大差ない高速特性しか持たないEF60形は、高速の特急列車牽引には不向きで、高速巡航可能な本形式と同等のダイヤを維持することが難しく、故障や遅延を頻発させた。 1964年(昭和39年)10月、東北方面初のブルートレインとして「はくつる」が運転を開始し、上野 - 黒磯間の牽引に東京機関区の本形式が使用された。当該運用は1965年(昭和40年)に宇都宮運転所所属の本形式へ移管、さらに1968年10月ダイヤ改正で583系電車が投入されたことによって終了し、本形式は一時的に特急列車牽引の運用から撤退した。 1965年(昭和40年)以降、東海道・山陽ブルートレインはEF60形に代わりEF65形500番台を主として使用してきたが、1972年(昭和47年)以降から関西発着のブルートレイン(「あかつき」「彗星」「日本海」「つるぎ」)に際しては下関運転所・広島機関区(「あかつき」「彗星」・新大阪 - 下関間の一部)、米原機関区(「日本海」「つるぎ」・大阪 - 米原間と「あかつき」「彗星」の一部)各所属の本形式が牽引に充てられた。これは1960年代中期以降の度重なる同区間のブルートレイン増発でEF65P・F形が不足気味になっていたこと、貨物列車増発のために山陽本線では並行ダイヤを組まざるを得ず、速度を110 km/hから95 km/hに引き下げたことが一因として挙げられる。 本形式はこの時点で青色+クリーム色の標準塗色になっていたが、該当する車両は既にブレーキを改造済であった20系に対応すべく空気関連装備を改造(元空気溜め管ホースの増設)し、P形と称したが、車番については変更されず原番号のままであった。 20系特急牽引指定機はP形化工事を受けて運用に就いたが、「あかつき」「彗星」の14系・24系使用列車についてはP形の配置がなかった宮原機関区も担当した。 また、1975年(昭和50年)3月のダイヤ改正で東京 - 大阪・紀伊勝浦間「銀河1号」・「紀伊」、上野 - 盛岡間の寝台急行「北星」、上野 - 金沢間の寝台急行「北陸」、新大阪 - 下関間「音戸」が特急に格上げされ(「銀河1号」は「いなば」、「音戸」は「安芸」に改称)、九州ブルートレインから転用された20系客車(ただし「いなば」「紀伊」は14系客車)に置き換えられることになったが、牽引機には急行時代から引き続いて浜松機関区(「いなば」「紀伊」・東京 - 京都間。14系のためP形非改造)、宇都宮運転所(「北星」・上野 - 黒磯間)、長岡運転所(「北陸」・上野 - 長岡間)、広島機関区(「安芸」・新大阪 - 下関間)各所属の本形式が充てられた。その一方で、「日本海」「つるぎ」が湖西線経由となったため、両列車の運用を終了した。 1984年(昭和59年)に紀勢本線の客車運用が12系客車に置き換えられた際、同線で使用する本形式にも同様のP形化改造が施工された。これはカーブの多い同線で12系客車の空気ばね台車に空気を充分に供給するための措置である。 P形改造車 35・36・38・39・42・50・62 - 66・69・71・74・77 - 82・84・85・96・99・103 - 105・107・110 - 119・139・147・149・170 客車が次第に14・24系化されるに伴い、牽引機関車を問わないこれら客車の牽引についてはP形以外の車両も使用された。 1975年3月のダイヤ改正以後、関西発着ブルートレインにおいて、1978年に「安芸」が廃止、「あかつき」「彗星」「明星」が1979年7月にEF65形1000番台に置き換えられ、東京・上野口でも1978年に「北星」がEF65形1000番台に、1980年10月には「出雲3・2号(元「いなば」)」「紀伊」と「北陸」がEF65形1000番台とEF64形にそれぞれ置き換えられ、EF58形の定期特急牽引仕業はここに終了した。 急行列車に転用された20系客車の牽引にも使用された。「銀河」(東京 - 大阪間)では1976年の20系投入以降も引き続き本形式が牽引し、1980年10月まで使用されたほか、1970年代後期からは「天の川」(上野 - 秋田間)の上野 - 新潟間を牽引し、EF64形1000番台が増備されるまで用いられた他、「新星」(上野 - 仙台間)の上野 - 黒磯間を、1982年11月に列車自体が廃止されるまで牽引していたが、同列車は20系化直後の数か月間、定期運用離脱直前のEF57形と共通運用で牽引した。また、1982年11月からは「津軽」(上野 - 青森間)に20系が投入され、上野 - 黒磯間で本形式が牽引したが、1983年7月には混雑緩和のため季節運転の「おが」(上野 - 秋田間)と編成を交換して14系化、1984年2月からは上り列車のみ本形式の牽引となり、1985年3月にはEF65形1000番台に置き換えられた。急行に転用された20系客車の場合、荷物・電源車カニ21形の荷物室を潰して大型エアコンプレッサーを搭載したカヤ21形を充当したため、P形改修機でなくとも運用に支障はなくなった。
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