江戸の火事 江戸の火事の概要

江戸の火事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 06:22 UTC 版)

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むさしあぶみ』より、明暦の大火当時の浅草門。牢獄からの罪人解き放ちを「集団脱走」と誤解した役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った多数の避難民が炎に巻かれ、塀を乗り越えた末に堀に落ちていく状況。

大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる[2]

江戸の火事は祝融や回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあった[注釈 2]

火事の回数

関ヶ原の戦い翌年の慶長6年(1601年)から、大政奉還の行なわれた慶応3年(1867年)に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生した。江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、比較して江戸の多さが突出しているといえる[注釈 3]

大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数え、慶長6年(1601年)からの100年間で269回、元禄14年(1701年)からの100年間で541回、1801年から慶応3年(1867年)までの67年間で986回となり、人口の増加による江戸の繁栄に比例して、火事の回数も増加していった。特に嘉永3年(1851年)から慶応3年(1867年)までの17年間では506回もの火事が発生しているが、これは江戸幕府の権力低下による治安の悪化が大きく影響しているとされる[注釈 4]

主な大火

以下に江戸時代に発生した主な大火をあげる(月日は、上段は旧暦、下段は新暦[注釈 5]。大火のうち、明暦の大火・明和の大火・文化の大火を総称して江戸三大大火と呼ぶことがある[6]

年月日 名称
別称/通称
死者数 概略
1601年/慶長6年閏11月2日
1601年12月26日)
/(死者数不詳) 江戸で記録された最初の大火。被災状況は詳らかではないが、江戸全市を焼亡したという。
1641年/寛永18年1月29日か30日
1641年3月10日か11日)
桶町火事 000400/死者400以上 京橋桶町から出火し、烈風により延焼。焼失した町97・武家屋敷123。鎮火の陣頭指揮を執っていた大目付加賀爪忠澄が煙に巻かれて殉職。要請を受けて消火活動を行っていた相馬藩主・相馬義胤が事故で重傷。防火体制の見直しが行われ、大名火消設置の契機となった。
1657年/明暦3年1月18日、19日
1657年3月2日、3日)
明暦の大火
振袖火事
107000/死者は最大で
10万7000と推計
山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼。江戸の大半が被災し江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害を出した大火であり、江戸の都市計画消防制度に大きな影響を与えた。
1682年/天和2年12月28日
1683年1月25日)
天和の大火
八百屋お七の火事[注釈 6]
003500/死者830–3500 駒込大円寺から出火し、北西風により延焼。焼失した武家屋敷241・寺社95。
1698年/元禄11年9月6日
1698年10月9日)
勅額火事
中堂火事[注釈 7]
003000/死者3000 京橋南鍋町から出火し、南風により延焼。焼失した町326・武家屋敷308・寺社232・町家1万8700。
1704年/元禄16年11月29日
1704年1月6日)
水戸様火事 /(死者数不詳) 小石川水戸屋敷から出火し、火事の途中で風向きが変わった(南西風から北西風)ため被害が拡大した。焼失した武家屋敷275・寺社75・町家2万。この6日前の11月23日に起きた元禄地震に伴い市内各地で発生した火災と合わせると、焼失面積では明暦の大火を上回るものになるという[7]
1717年/享保2年1月22日
1717年3月4日)
小石川馬場火事 000100/死者100以上か 小石川馬場の武家屋敷から出火し、西北風で延焼した。
1745年/延享2年2月12日
1745年3月14日)
六道火事 001323/死者1323[8] 千駄ヶ谷から出火し、北西風により延焼。焼失家屋2万8678。
1760年/宝暦10年2月6日
1760年3月22日)
宝暦の大火
明石屋火事
/(死者数不詳) 神田旅籠町の足袋屋・明石屋から出火し、北西風で延焼。日本橋、木挽町、さらに深川から洲崎まで焼失。460町、寺社80ヶ所焼失。
1772年/明和9年2月29日
1772年4月1日)
明和の大火
行人坂の火事
014700/死者1万4700
行方不明者4060
目黒行人坂大円寺から出火し、南西風により延焼。焼失した町904。
1806年/文化3年3月4日
1806年4月22日)
文化の大火
車町火事
牛町火事[注釈 8]
001200/死者1200 芝車町から出火し、南西風により延焼。焼失した町530・大名屋敷80・寺社80。
1829年/文政12年3月21日
1829年4月24日)
文政の大火
神田佐久間町の火事[注釈 9]
002800/死者2800 神田佐久間町から出火し、北西風により延焼。焼失家屋37万。
1834年/天保5年2月7日
1834年3月16日)
甲午火事 004000/死者4000 神田佐久間町から出火し、北西風により延焼。以後2月13日まで火事が連続して発生した。
1845年/弘化2年1月24日
1845年3月2日)
青山火事 000900/死者800–900 青山から出火し、北西風により延焼。焼失した町126・武家屋敷400・寺社187。消火活動の際、町火消の新門辰五郎率いる「を組」と久留米藩有馬家の有馬頼永率いる大名火消とが乱闘になり、死傷者が出た。
1855年/安政2年10月2日
1855年11月11日)
地震火事 026000/死者4500–2万6000 この日に起きた安政江戸地震にともない江戸市内の各所から出火して大火となった。

このように、大火では大きな被害が発生し、記録にも残されている。一方、小火が連続し、結果的に大火以上の範囲に被害をもたらした例もあった。1716年正徳6年)・1717年享保2年)・1721年(享保6年)・1771年(明和8年)などの火事があげられる[9]

江戸城の火災

  • 1639年(寛永16年) - 本丸御殿を焼失、所々火消編成の端緒となる
  • 1657年(明暦3年) - 振袖火事(上述)、天守、本丸、二の丸、三の丸の各御殿を焼失
  • 1747年(延享4年) - 二の丸御殿焼失
  • 1844年(弘化元年) - 本丸御殿、大奥を焼失
  • 1852年(嘉永5年) - 西の丸御殿を焼失
  • 1859年(安政6年) - 本丸御殿を焼失
  • 1863年(文久3年)- 本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
  • 1867年(慶応3年)- 二の丸御殿を焼失(この年、大政奉還

火事の原因

火事の原因には、調理や照明用に火を使用することによって発生する失火、様々な動機による放火などがあった。江戸の大火が他の大都市に比べて多かった理由としては、膨大な人口が居住することによる建物の密集や困窮した下層民の存在、江戸の独特な気象条件などがあげられる。

西山松之助は火事の原因について、「江戸には、大火を喜ぶ住民がかなりたくさんいたのではないかと思われることについて」「大都市江戸の統一的政治体制の欠如が多くの大火を頻発させた理由の一つであることについて」「江戸町人は、火事は当然で、江戸生活では、類焼は致し方のないこと、自火でなく類焼でよかった、と考えたことについて」と三条件をあげて考察している[注釈 10]

斎藤修(比較経済史)は、江戸は「裏店の世界」であり、独身男性の長屋暮らしが多く、の寝煙草により火元管理が難しかったことを挙げた上で、大阪は「商家の世界」であり、商家に住み込む丁稚手代らに厳しく火の用心をたたきこんでいたため、火事が少なかったと指摘している[10]

人口増加

徳川家康

徳川家康江戸幕府を開くと、江戸城周辺には大名旗本の屋敷が設けられ、多くの武士が居住するようになった。やがて武士の生活を支える商人・職人が町人として流入し、江戸の人口は急速に増加していく。寛永17年(1640年)ごろに約40万であった人口は、元禄6年(1693年)には約80万、享保6年(1721年)にはおよそ110万に達していた[注釈 11]

広大であった武家地に対し町人地の面積は狭く、人口の増加により町人地の人口密度は極めて高くなっていった[注釈 12]。町人の住居は狭い地域に密集して立ち並ぶようになり、住人1人あたりの広さが6(台所や押入を含む)ほどしかない長屋も多かった。そのうえ家屋が木造で、木と紙という燃える材質で構成されている。さらに調理の熱源はであり、照明は行燈蝋燭のような裸火である。つまり失火の可能性が高くなるのも必然であった。

放火

江戸の火事の原因としては、放火(火付け)が多く記録されている。当事の放火犯は、「火付」「火附」「火を付候者」「火賊」などと記された[注釈 13]。捕らえられた放火犯には、江戸の物価の高さや保証人がなく奉公に出られないことなどにより、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かった。火事で焼け出されたとしても、失うものが少ないことが背景にある。享保8年(1723年)から翌9年(1724年)の2年間では放火犯が102人捕らえられているが、そのうち非人が41人・無宿者が22人と、下層民が多く含まれていた[注釈 14]

放火の動機としてまずあげられたのは、風の強い日に火を放ち、火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒である。奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、人間関係に起因する放火も多い。他には商売敵の店へ放火・子どもの火遊び・「ふと火をつけたくなった」という供述が残る放火[注釈 15]なども記録されており、放火の動機は現代と同じく様々であった。

火事が起きると、大工左官鳶職人などの建築に従事するものは復興作業により仕事が増えるため、中には火事の発生や拡大を喜ぶものもいた。火消人足(消防夫、火消人足の中核は鳶職人)の中にも、本業である鳶の仕事を増やすため・消火活動を衆目に見せるためなどの理由で、呼火や継火[注釈 16]をするものが現れている。幕府も町触で警告し、捕らえた火消人足を死罪にした例もあった[15]。捕らえられた放火犯は、見せしめとして市中引き回しのうえで火焙りにされた。しかし、幕府の厳罰方針にも関わらず、江戸時代を通じて放火による火事がなくなることはなかった。幕末には、幕府の権力低下による治安の悪化に伴って放火による火事も大幅に増加している。

江戸の放火犯としては、八百屋お七火事(天和の大火)に名を残すお七が、井原西鶴の『好色五人女』や鶴屋南北の『敵討櫓太鼓』で題材として取り上げられたため知られている。お七の放火は盗みなどが目的ではなく、別れた恋人に再会したいという思いがつのったあげくの行動であった。

気象条件

江戸の独特な気象条件として、冬の季節風である、北または北西方向からの、極めて乾燥した強風(からっ風)があげられる[注釈 17]。江戸の火事のうち大火となったものの多くは、冬から春にかけて雨が降らず、北西風や北風が吹き続け乾燥したときに発生した。このため、幕府により万治元年(1658年)に4組が設けられた定火消の火消屋敷は、すべて江戸城の北西方面に置かれている。この配置は、冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものであった[注釈 18]

また、関東南部は、地形の関係から、春から秋にかけて日本海低気圧が通過する際に、中部山岳雨陰に入り、フェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風が吹くことが多い。とりわけ春先の強い南風もまた、しばしば大火の原因となってきた[注釈 19]

月別に大火の発生をみると、現行のグレゴリオ暦に換算して3月が最も多い。2月・4月・1月の発生がこれに続き、1月から4月までの4ヶ月で全体の7割を占めている[18]。江戸の歴史上最大の被害を出した明暦の大火(明暦3年1月18日)も、グレゴリオ暦に換算すると1657年3月2日の発生であった。このことは江戸の町人たちにもよく知られており、冬には女性たちを江戸近郊の実家などに避難させ、火事の季節が過ぎてから呼び戻すといった対応策が取られていた。このため、享保10年(1725年)には、梅雨時期の旧暦6月の町方人口が、梅雨入り前の同4月に比べて1万人以上も増加し、増加した人口の9割以上が女性であったという記録が残っている[19]


注釈

  1. ^ 西山松之助により、「江戸町人総論」の中で江戸の都市的特色の1つとして、「男性都市」「火災都市」「強制移転の町」と規定された[1]
  2. ^ 祝融と回禄は古代中国の火神の名である[3]
  3. ^ 回数は魚谷増男の研究による[4]
  4. ^ 回数は吉原健一郎の研究による[5]
  5. ^ 大火については『江戸の火事』『東京災害史』「江戸災害年表」などによる。
  6. ^ お七の一家がこの火事で焼け出され、避難場所となった寺で見初めた寺男に対する生娘の恋心から、また大火事で焼け出されれば男に会えると後日自ら放火に及んだ(この放火による火事はぼやで消し止められたとされる)ことからこの通称がついた。この大火の原因がお七の放火にあるのではない。
  7. ^ 通称・別称は、上野寛永寺根本中堂に掲げる東山天皇勅額が江戸に到着した日に発生したため。
  8. ^ 通称は、火元に牛車の運送を扱うものが住んでいたため。
  9. ^ 神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどだった。
  10. ^ 『』内の文章には、『火災都市江戸の実体』 pp.85 - 90の記述から三条件の文章を引用した。
  11. ^ 幕府の調査による享保6年の町方人口50万に、武家人口の推定である50-70万とその他(出家者・山伏・吉原関連など)の人口を考慮した推定値[11]
  12. ^ 内藤昌の研究によれば、明治2年(1869年)の時点で江戸の総面積に占める割合は、武家地68.58%、寺社地15.61%、町人地15.81%であった[11]
  13. ^ 江戸時代後期に編纂された『徳川実紀』では、使用例がない時代の記述も「火賊」の表記で統一している[12]
  14. ^ 東京市史稿』による。この2年間が突出して多く、捕らえられた102人には無実のものが含まれていた可能性も高い[13]
  15. ^ 天和3年(1683年)正月の放火で捕らえられた「はる」という下女の供述。火焙りとなった。『御仕置裁許帳』によれば『(前略)到検議候処ニ、眞木之燃杭を持、雪隠え火を付申候、同類も無之、主え意恨有之候て付候にても無之、物取候ニても無候、不斗火付申所存、付候由申ニ付、籠舎、右之者、亥二月九日於浅草火罪』とある[14]
  16. ^ 消火活動の際、本来なら焼けるはずのない場所へ、火をまわして火事を拡大する行為をさす。
  17. ^ 1月の平均湿度は、東京49%であり、日本海側の金沢75%は措くとしても、三都の京都66%、大阪61%と比較しても、著しく低い。強い北西季節風(伊吹おろし)で有名な名古屋64%と比較しても、低いことが分かる[16]
  18. ^ のちに定火消は10組の編成となり、江戸城北西以外にも配置されていく。
  19. ^ 現在では春一番と呼ばれることもある、春先の強い南風・南西風は、江戸時代の江戸では、むしろ気象学的に的を射て「富士南風」と呼ばれた。この富士南風も、大火の原因の一つとされている[17]
  20. ^ 原因として、江戸時代初期にはまだ戦国時代の遺風が強かったことがあげられる[20]
  21. ^ 「消防組織」節以下に含まれる記述は、「江戸火消制度の成立と展開」『江戸の火事』『江戸の火事と火消』などを参考としているが、ページ表記などの脚注は省略した。より詳しい記述のある火消の項目を参照。
  22. ^ 戸田茂睡の『御当代記』に、中山勘解由による取り締まりでは多くの無実のものが自白させられたと記され、当時から冤罪の多さが知られていた[21]
  23. ^ 町触が出されるまでは、街路両側の建物から庇が京間1間(約1.97m)ずつ突き出ている例もあった[26]
  24. ^ 明暦の大火以前にも、慶安2年(1649年)の地震後に、家屋が倒壊したのは屋根が瓦葺で重いためであるとして、禁止されたことがある[28]
  25. ^ 屋根に牡蠣貝殻を敷き並べたもの。飛び火を防ぐ効果があった。
  26. ^ 自宅に浴室を設置すれば熱源が増え、それだけ失火の危険性が高まる。世間からも火元と疑われるため、避けられていた[30]
  27. ^ ただし、暮六つ以降でも湯が冷めるまでの間は入浴が認められていた[31]
  28. ^ この凧が江戸城への放火を狙ったものだったのかは不明である[32]
  29. ^ 火事場にいてよいのは、火消と親類家中のみと定められていた。明暦の大火後には、制止を聞かないものは斬り捨てて構わないとされている[33]
  30. ^ 『絵本江戸風俗往来』の記述による[36]
  31. ^ 加藤曳尾庵『我衣』による。喜多村信節『嬉遊笑覧』では否定されている[37]
  32. ^ 『地方凡例録』による[39]
  33. ^ 押込日数の差は焼失面積による。小間10間以内の火事であれば、火元以外が焼失しても罪にはならなかった[41]
  34. ^ 罰せられたのは、町火消設置令で火事への駆けつけが義務付けられている範囲の月行事。火事の拡大に対する罰であった。
  35. ^ なかでも明暦の大火後には、1升が40文から1000文に、1升が3文から2400文になったという記録が残されている[43]
  36. ^ 当時の将軍徳川家綱が受け取った、家康以来の遺産は423万両であったとされる[45]

出典

  1. ^ 「江戸町人総論」P.5-P.20
  2. ^ 「火災都市江戸の実体」P.84
  3. ^ 『江戸学事典』P.572
  4. ^ 『江戸の火事』P.3
  5. ^ 『江戸の火事』P.4
  6. ^ 『江戸三火消図鑑』P.198
  7. ^ 『東京災害史』P.33
  8. ^ 山本博文『見る、読む、調べる 江戸時代年表』小学館、2007年10月6日、120頁。ISBN 9784096266069
  9. ^ 『東京災害史』P.54、「江戸災害年表」P.439
  10. ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 p.221.
  11. ^ a b 『江戸の火事』P.18
  12. ^ 「火災都市江戸の実体」P.16
  13. ^ 「火災都市江戸の実体」P.28
  14. ^ 『江戸の放火』P.283より引用
  15. ^ 『江戸の放火』P.63
  16. ^ 気象庁1981-2000年統計
  17. ^ 「江戸災害年表」P.440
  18. ^ 『江戸の火事』P.14
  19. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.164
  20. ^ 「火災都市江戸の実体」P.15
  21. ^ 「火災都市江戸の実体」P.22
  22. ^ 『江戸の火事と火消』P.247
  23. ^ 「火災都市江戸の実体」P.18
  24. ^ 『江戸の放火』P.146
  25. ^ 『江戸の火事』P.201
  26. ^ 『江戸の火事』P.195
  27. ^ 『江戸の火事』P.209
  28. ^ 『江戸の火事と火消』P.210
  29. ^ 『江戸の火事』P.197
  30. ^ 「江戸町人総論」P.16
  31. ^ 『江戸の火事』P.137
  32. ^ 『江戸の放火』P.29
  33. ^ 『江戸の火事と火消』P.167
  34. ^ 『江戸の火事と火消』P.12
  35. ^ 『江戸の火事と火消』P.144
  36. ^ a b 『江戸の火事と火消』P.16
  37. ^ 『災害都市江戸と地下室』P.17
  38. ^ 『江戸の火事』P.198
  39. ^ 『江戸の火事と火消』P.261
  40. ^ 『江戸の火事と火消』P.226
  41. ^ 『江戸の火事』P.130
  42. ^ 『江戸学事典』P.572
  43. ^ 『江戸の火事』P.167
  44. ^ 『江戸の放火』P.14
  45. ^ 『江戸の放火』P.18






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