江戸の火事 失火の処分

江戸の火事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/26 18:00 UTC 版)

失火の処分

幕府は放火に対し火焙りをはじめとする厳罰で対処してその抑制を図ったが、失火に対しては死罪などの厳しい処分を科すことがなかった。火元となっても、武士の場合屋敷内で消し止めれば罪には問われず、町人の場合も小火であれば同様であった。火事の予防を目的とした老中の評議で、大火となった場合は火元のものを死罪・遠島などの厳罰とする案の検討が行なわれたが、失火は誰でも起こす可能性があることや、老中自身に失火で切腹する覚悟があるのかという指摘などがあり、採用されなかったという逸話が残されている[注釈 32]

武士の失火

大名屋敷の失火では、敷地内部の屋敷が燃えても門が焼け残っていれば責任を問われず、門の焼失が焦点となった。そのため、門の防火を重視し、延焼しそうな場合は門の扉を取り外して避難することも行われた。また、駆けつけた町火消を門を閉じて屋敷内に入れず、自身の消防組織だけで消火して、火事の煙を焚き火による煙であると主張することも行なわれた。失火した場合は大目付へ屋敷換えの差控えを伺い出る必要があり、屋敷外へ延焼した場合は進退伺いを提出した。明確な規定はなかったものの、失火3回で朱引外(江戸の外縁部、町奉行管轄外)へ屋敷換えとなった[43]

町人・寺社の失火

町人の失火に対しては、享保2年(1717年)の『御定書百箇条』で小間10間(約18メートル)以上焼失の場合、火元が10日・20日・30日の押込と定められた[注釈 33]。将軍御成日に失火した場合は罪が重くなり、小間10間以上の焼失で火元が手鎖50日となった。また、平日であっても火事の被害が3町(約327メートル)以上に達した場合は火元以外にも罪が及び、火元の家主・地主・月行事は30日の押込、五人組が20日の押込となった。さらに、火元から見て風上の2町と風脇の左右2町、計6町の月行事も30日の押込と定められている[注釈 34]

寺社の失火に対しては幕府の配慮があり、火元となっても罪は7日の遠慮のみであった。将軍御成日の失火や大火となった場合も、10日の遠慮で済まされている。寺社門前町の失火では小間10間以上の焼失で3日の押込となり、門前町以外に比べて軽い処分であった。


注釈

  1. ^ 西山松之助により、「江戸町人総論」の中で江戸の都市的特色の1つとして、「男性都市」「火災都市」「強制移転の町」と規定された[1]
  2. ^ 祝融と回禄は古代中国の火神の名である[3]
  3. ^ 回数は魚谷増男の研究による[4]
  4. ^ 回数は吉原健一郎の研究による[5]
  5. ^ 大火については『江戸の火事』『東京災害史』「江戸災害年表」などによる。
  6. ^ お七の一家がこの火事で焼け出され、避難場所となった寺で見初めた寺男に対する生娘の恋心から、また大火事で焼け出されれば男に会えると後日自ら放火に及んだ(この放火による火事はぼやで消し止められたとされる)ことからこの通称がついた。この大火の原因がお七の放火にあるのではない。
  7. ^ 通称・別称は、上野寛永寺根本中堂に掲げる東山天皇勅額が江戸に到着した日に発生したため。
  8. ^ 通称は、火元に牛車の運送を扱うものが住んでいたため。
  9. ^ 神田佐久間町は幾度も大火の火元となったため、口さがない江戸っ子はこれを「悪魔(アクマ)町」と呼ぶほどだった。
  10. ^ 『』内の文章には、『火災都市江戸の実体』 pp.85 - 90の記述から三条件の文章を引用した。
  11. ^ 幕府の調査による享保6年の町方人口50万に、武家人口の推定である50-70万とその他(出家者・山伏・吉原関連など)の人口を考慮した推定値[14]
  12. ^ 内藤昌の研究によれば、明治2年(1869年)の時点で江戸の総面積に占める割合は、武家地68.58%、寺社地15.61%、町人地15.81%であった[14]
  13. ^ 江戸時代後期に編纂された『徳川実紀』では、使用例がない時代の記述も「火賊」の表記で統一している[15]
  14. ^ 東京市史稿』による。この2年間が突出して多く、捕らえられた102人には無実のものが含まれていた可能性も高い[16]
  15. ^ 天和3年(1683年)正月の放火で捕らえられた「はる」という下女の供述。火焙りとなった。『御仕置裁許帳』によれば『(前略)到検議候処ニ、眞木之燃杭を持、雪隠え火を付申候、同類も無之、主え意恨有之候て付候にても無之、物取候ニても無候、不斗火付申所存、付候由申ニ付、籠舎、右之者、亥二月九日於浅草火罪』とある[17]
  16. ^ 消火活動の際、本来なら焼けるはずのない場所へ、火をまわして火事を拡大する行為をさす。
  17. ^ 1月の平均湿度は、東京49%であり、日本海側の金沢75%は措くとしても、三都の京都66%、大阪61%と比較しても、著しく低い。強い北西季節風(伊吹おろし)で有名な名古屋64%と比較しても、低いことが分かる[19]
  18. ^ のちに定火消は10組の編成となり、江戸城北西以外にも配置されていく。
  19. ^ 現在では春一番と呼ばれることもある、春先の強い南風・南西風は、江戸時代の江戸では、むしろ気象学的に的を射て「富士南風」と呼ばれた。この富士南風も、大火の原因の一つとされている[20]
  20. ^ 原因として、江戸時代初期にはまだ戦国時代の遺風が強かったことがあげられる[23]
  21. ^ 「消防組織」節以下に含まれる記述は、「江戸火消制度の成立と展開」『江戸の火事』『江戸の火事と火消』などを参考としているが、ページ表記などの脚注は省略した。より詳しい記述のある火消の項目を参照。
  22. ^ 戸田茂睡の『御当代記』に、中山勘解由による取り締まりでは多くの無実のものが自白させられたと記され、当時から冤罪の多さが知られていた[24]
  23. ^ 町触が出されるまでは、街路両側の建物から庇が京間1間(約1.97m)ずつ突き出ている例もあった[29]
  24. ^ 明暦の大火以前にも、慶安2年(1649年)の地震後に、家屋が倒壊したのは屋根が瓦葺で重いためであるとして、禁止されたことがある[31]
  25. ^ 屋根に牡蠣貝殻を敷き並べたもの。飛び火を防ぐ効果があった。
  26. ^ 自宅に浴室を設置すれば熱源が増え、それだけ失火の危険性が高まる。世間からも火元と疑われるため、避けられていた[33]
  27. ^ ただし、暮六つ以降でも湯が冷めるまでの間は入浴が認められていた[34]
  28. ^ この凧が江戸城への放火を狙ったものだったのかは不明である[35]
  29. ^ 火事場にいてよいのは、火消と親類家中のみと定められていた。明暦の大火後には、制止を聞かないものは斬り捨てて構わないとされている[36]
  30. ^ 『絵本江戸風俗往来』の記述による[39]
  31. ^ 加藤曳尾庵『我衣』による。喜多村信節『嬉遊笑覧』では否定されている[40]
  32. ^ 『地方凡例録』による[42]
  33. ^ 押込日数の差は焼失面積による。小間10間以内の火事であれば、火元以外が焼失しても罪にはならなかった[44]
  34. ^ 罰せられたのは、町火消設置令で火事への駆けつけが義務付けられている範囲の月行事。火事の拡大に対する罰であった。
  35. ^ なかでも明暦の大火後には、1升が40文から1000文に、1升が3文から2400文になったという記録が残されている[45]
  36. ^ 当時の将軍徳川家綱が受け取った、家康以来の遺産は423万両であったとされる[47]

出典

  1. ^ 「江戸町人総論」P.5-P.20
  2. ^ 「火災都市江戸の実体」P.84
  3. ^ a b 『江戸学事典』P.572
  4. ^ 『江戸の火事』P.3
  5. ^ 『江戸の火事』P.4
  6. ^ 『江戸三火消図鑑』P.198
  7. ^ a b 東京市(編)『東京市史稿 変災篇』第4巻、東京市刊、大正6(1917)年、p.65
  8. ^ a b コトバンク「桶町の大火」2024年1月20日閲覧
  9. ^ 『東京災害史』P.33
  10. ^ a b 村田あが「江戸時代の都市防災に関する考察(1)」『跡見学園女子大学マネジメント学部紀要』第15号、跡見学園女子大学、2013年3月、87-110頁、ISSN 1348-1118NAID 110009579146  p.104 より
  11. ^ 山本博文『見る、読む、調べる 江戸時代年表』小学館、2007年10月6日、120頁。ISBN 9784096266069 
  12. ^ 『東京災害史』P.54、「江戸災害年表」P.439
  13. ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 p.221.
  14. ^ a b 『江戸の火事』P.18
  15. ^ 「火災都市江戸の実体」P.16
  16. ^ 「火災都市江戸の実体」P.28
  17. ^ 『江戸の放火』P.283より引用
  18. ^ 『江戸の放火』P.63
  19. ^ 気象庁1981-2000年統計
  20. ^ 「江戸災害年表」P.440
  21. ^ 『江戸の火事』P.14
  22. ^ 「江戸火消制度の成立と展開」P.164
  23. ^ 「火災都市江戸の実体」P.15
  24. ^ 「火災都市江戸の実体」P.22
  25. ^ 『江戸の火事と火消』P.247
  26. ^ 「火災都市江戸の実体」P.18
  27. ^ 『江戸の放火』P.146
  28. ^ 『江戸の火事』P.201
  29. ^ 『江戸の火事』P.195
  30. ^ 『江戸の火事』P.209
  31. ^ 『江戸の火事と火消』P.210
  32. ^ 『江戸の火事』P.197
  33. ^ 「江戸町人総論」P.16
  34. ^ 『江戸の火事』P.137
  35. ^ 『江戸の放火』P.29
  36. ^ 『江戸の火事と火消』P.167
  37. ^ 『江戸の火事と火消』P.12
  38. ^ 『江戸の火事と火消』P.144
  39. ^ a b 『江戸の火事と火消』P.16
  40. ^ 『災害都市江戸と地下室』P.17
  41. ^ 『江戸の火事』P.198
  42. ^ 『江戸の火事と火消』P.261
  43. ^ 『江戸の火事と火消』P.226
  44. ^ 『江戸の火事』P.130
  45. ^ 『江戸の火事』P.167
  46. ^ 『江戸の放火』P.14
  47. ^ 『江戸の放火』P.18






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