島原藩 重臣

島原藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 04:50 UTC 版)

重臣

深溝松平家の家臣について記載する。

大老

・板倉八右衛門家(1700石、大老)

 善明堤の戦いで、松平好景(深溝松平家)とともに戦死した板倉好重の子孫。家臣筆頭。当主は代々、八右衛門を称する。

 板倉好重 - 忠重 - 利尹 - 房勝 - 勝貞 - 俔方 - 勝相 - 勝周=勝健(勝相の子)=勝彪(勝周の子)=勝直(勝彪長男勝皖の子) - 勝武

・松平勘解由家(1200石、大老)

 深溝松平家の草創期を支えた松平康定(松平好景の弟)の子孫。当主は代々、勘解由を称する。多くの分家を創出したが、当主のみが松平姓を許され、その他は奥平姓を称した。

 松平康定 - 定広 - 広次 - 房次 - 次章 - 広連=定方(次章の子、後に本家・松平忠雄の養子) - 広教(後に旗本・松平忠位の養子)=芳擎(次章の子)=定朋(分家・奥平定堅の子、芳起と同一人物か) - 定村=定陽(本家・松平忠馮の子)=広業(分家・奥平広隆の子) - 定勝

幕末の領地

藩邸

深溝松平家時代の島原藩の江戸屋敷は、上屋敷が有楽町数寄屋橋交差点付近に、中屋敷が三田綱坂にあった。

上屋敷は明治維新後に最後の藩主松平忠和が後援していた明治法律学校(1881年開校。後の明治大学)に提供され、1886年に神田駿河台(後の明治大学駿河台キャンパス)へ移転するまで同校の校舎として使用された。後に同地には「明治大学発祥の地」の碑が建立されている[1]

一方、三田にあった中屋敷は政府に接収された後、慶應義塾に払い下げられ、後に慶應義塾大学の三田キャンパスになっている[2]

肥前島原松平文庫

深溝松平家は、代々、好学と篤学の家柄として知られていた。松平忠房は、その家風もあり文学・歴史・兵法・絵図など広く天下の貴重本・希有本を蒐集した。歴代藩主も学問を好み古典を愛し、これらの遺風が継承されていった。文庫の構成は文学・歴史・宗教・政治・経済・教育・風俗・自然科学・医学・産業・芸術と多岐にわたる。質・量ともに充実しており極めて貴重な資料であるといえよう。調査研究の対象として幅広く活用されており、全国各地からの来庫がある。文学書では日本で唯一の伝本である『伊勢物語聞書抄』や、最古の写本の一つである『夜寝覚』などがある。また、歴史資料でも甲斐武田氏の分国法の写本である『甲州式目』は最古の写本として知られている。『栄花物語』のように木製活字で印刷されたものや、その他にも色彩豊かに描かれる『鳥獣図鑑』は、島原藩の本草学の成果を示すものである[3][4]




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