大韓民国臨時政府 承認問題

大韓民国臨時政府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/30 16:12 UTC 版)

承認問題

臨時政府は成立直後から政府としての国民党政府(中華民国)に承認を求めていたが、国民党政府は構成員の能力と資質の不足を理由に承認しなかった[10]。1941年に太平洋戦争が勃発すると、臨時政府は国民党政府だけではなく連合国に対しても承認を求める動きを活発化させた[10]。1942年、国民党政府は他の国より早く承認するという原則を定めたが、アメリカの承認拒否によって国民党政府による承認も結局行われなかった[11]

解体

1945年8月、ソ連対日参戦が起きると、ソビエト連邦軍は朝鮮半島に迫って来たが、アメリカは朝鮮半島問題についての取り扱いを全く考えていなかった[12]。ソ連軍は8月24日の段階で38度線に到達し、アメリカ軍が釜山に上陸したのは9月8日であった。朝鮮総督府はソ連ではなく米国に朝鮮半島の統治を委譲するために、朝鮮総督府政務総監遠藤柳作が有力な朝鮮独立運動家である呂運亨に協力を要請を行った。呂は宋鎮禹安在鴻などの独立運動家たちと朝鮮総督府から警察権や行政権を与えられた朝鮮建国準備委員会を経て、朝鮮人民共和国を樹立した。[13][14]。大韓民国臨時政府も新政府に参加をするが、朝鮮共産党などの各派閥と対立を引き起こして、新政府を短期間で瓦解で瓦解させる一因となった[15]。その後、朝鮮半島を統治する在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁により大韓民国臨時政府は解体された[16]

評価

現在の韓国政府は大韓民国臨時政府の正統性を主張しており、例として現在の大韓民国憲法の前文で「我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し…」とされているが、大韓民国臨時政府は連合国からも枢軸国からも第二次世界大戦の参戦国として認められず、サンフランシスコ講和条約への署名も認められなかった。大韓民国成立についても、国内の教育機関では1919年と教えているが、国際法上ならびに外交上では1948年と公式に認めており、政府が明らかに矛盾した2つの年号を状況によって使い分けていることがわかる。

現在の朝鮮民主主義人民共和国では臨時政府を「大衆的基盤がなく、誰からも承認されなかった政府」「親米事大的」「派閥争いと内閣改造劇を絶えず展開した亡命集団」と評される。また、臨時政府の要人たちは「独立請願運動」をしながら、海外の朝鮮人から「人頭税」「公債」などの名目で多くの金品を集め、腐敗堕落した生活を送ったという。さらに、臨時政府内では「反共」の思想が浸透したため、臨時政府は金日成が組織した抗日武装闘争を妨害し、共産主義者たちに対してテロ行為を行った集団であると位置付けられる[1]

アメリカは、金九の民族主義的勢力は認めなかったが、他方で、金奎植などの臨時政府の要人たちを多くはアメリカ軍政の下でも起用し、臨時政府の流れをくむものの金九の政敵であった李承晩[17]の政権が成立するように仕向けている。このように連合国によって独立を与えられたという事実に対して、韓国では矛盾する二つの姿勢が見られる。ひとつは「韓国は自ら独立を勝ち取った」という主張である。これは例えば国定教科書に見られ、対日宣戦布告等を過度に強調する傾向にある。もうひとつは「自らの手で独立する機会を永久に失った」という見方である。こうしたルサンチマンが、韓国の反日主義の原動力の一つとなっている。

小室直樹は「韓国の悲劇」として、カイロ会談が朝鮮の日本支配からの自立をうたうものの「しかるべき順序をとって」といった語句が付加されていることや、ヤルタ会談においては朝鮮解放後、米英中ソで信任統治を暫くの間続けるといった合意に、ルーズベルトがその期間を40年から50年と考えていたことなどを指摘し、アメリカ政府が朝鮮人民の自治能力について不信であったがゆえに、戦後の朝鮮統治を、旧朝鮮総督府に委任したと説明[18]し、1945年9月9日に米朝鮮占領軍司令官ジョン・R・ホッジ中将が朝鮮総督府の阿部信行大将ら日本人官吏の留任を発表して、その後、朝鮮民衆の反発を受けてアメリカ政府が留任を撤回したという経緯を指摘する。小室が指摘する「韓国の初期状態」[19]に対して、戦後の朝鮮統治をアメリカが旧朝鮮総督府に託したのは朝鮮統治に当たったアメリカ人たちが、日本についての教育だけを受けていたからであるという反論もある。つまり本来は日本統治に投入される予定だった約2,000名のアメリカ人民政官僚は日本の文化と言語に精通していたが、日本で軍政の代わりに天皇制を活用した日本政府自体を利用することと決定して彼らは不要になったので、急遽、予備知識の無い朝鮮半島に回されたというのである。そのため一時的に朝鮮でも旧朝鮮総督府を重用することになったという説明である[20]

李栄薫は、韓国の歴史教科書や研究書では、1920年代から満州・中国で独立戦争が繰り広げられ、1944年に大韓民国臨時政府のある上海で光復軍(大韓民国臨時政府の軍事部門)として統合再編され、連合軍と合同して朝鮮への進撃を準備したところ、アメリカが原子爆弾を投下し、機会を逸したと惜しむ叙述で書かれており、例えば韓国の国定教科書(1985年版)には、「連合軍が日本に原爆を投下し、一九四五年八月一五日に日本が無条件降伏を行ったことから、光復軍は同年の九月に国内への進入を実行しようとの計画を実現できないまま光復の日を迎えてしまった」とあるが、実際は、満州・中国で日本軍と独自の戦闘を行ったのは、3・1運動後の1920年の1年限りであり、「すべてが過大評価であり、実態とはかけ離れた叙述」として以下の理由を挙げており、「我が民族が、アジア太平洋ヘゲモニーをめぐって日本とアメリカが行った戦争のお陰で、アメリカによって解放されたというのは紛れもない事実」「我が民族は、アメリカが日本帝国主義を強制的に解体したはずみで解放されたのです。自分の力で解放されたのではありません。今日、韓国の若者たちは、こうしたことを言うと苦々しく思うかもしれませんが、この点を冷静に正面から見つめなければなりません」と述べている[21]

  1. 3・1運動後、金佐鎮将軍の北路軍政署と洪範図将軍の西路軍政署は合流して、鳳梧洞戦闘と青山里戦闘において戦果を挙げたが、その後日本軍の追撃を受け、沿海州のアレキセーフスクに退却したが、独立軍のヘゲモニーをめぐって内紛が勃発、ソ連軍が独立軍の武装解除を強要し、数百名が射殺される「自由市の惨事」が発生、それ以後、遊撃戦・陣地戦関係なく、独自の戦線を形成することはなかった。
  2. 1930年代に中国共産党統制下の東北抗日聯軍八路軍所属の朝鮮人の闘争が展開されるが、あくまで日本と中国の戦争の一環であり、例えば、金日成より上位の連隊長だった東北抗日聯軍の楊靖宇将軍は、瀋陽の歴史博物館に楊靖宇の抗日闘争の絵画が展示してあるが、そこに朝鮮出身という文字はない。
  3. アメリカ・ソ連・中国など連合国のいかなる政府も大韓民国臨時政府を承認せず、独自の軍事活動を認めず、大韓民国臨時政府の信任は国際的承認を受けるほど高くなく、独立運動は理念・路線をめぐってやたらと分裂していた。
  4. 大韓民国臨時政府を支援した中国国民党は、将来日本から解放される朝鮮における自らの損得勘定を行い、1941年に「韓国光復軍行動準備」を大韓民国臨時政府に強いて、光復軍を中国軍の参謀総長統制下に置き、これに関して大韓民国臨時政府の趙素昴外相は、駐華アメリカ大使に「中国が日本の降伏後に、再び韓国を中国の宗主権の下におこうとしているためかもしれない」という説明を行い、これらの立場は中国共産党もソ連も同じであり、将来日本から解放される朝鮮に、利害関係を持つ強国間の緊張関係が早期に形成され、解放前後にこれらの緊張関係に基づく国際秩序に率先的に参加或いは発言権を確保した朝鮮人政治勢力は存在せず、朝鮮はあくまでも日本の付属領であった。

浅羽祐樹は、国家の成立要件として、一定の領域、住民に対して実効支配を及ぼす政府の存在が挙げられ、大韓民国臨時政府はこの要件を満たさず、大韓民国臨時政府を承認した国は、大韓民国臨時政府を支援をした中華民国を含めて一つも存在せず、戦勝国としてサンフランシスコ講和会議に招かれることもなく、「朝鮮独立」はサンフランシスコ講和条約で初めて承認され、「『光復』は『臨時政府』の軍事部門にあたる『光復軍』などによる『抗日闘争』を通じて自ら勝ち取ったというよりは、日本の敗戦によって『盗人のように(何の前触れもなく)突然やってきた』というのが実態」と述べている[22]。また浅羽祐樹によると、韓国の進歩派・左派では「大韓民国は1919年に建国された」という歴史認識があり、実際の歴史事実では1919年は大日本帝国の一領域に過ぎなかったが、進歩派・左派の歴史認識では、この歴史的事実こそ「日帝強占」による「歪曲」であるため「正す」べきものであり、「正しい」歴史では、大韓帝国は国権を喪失することなく存続しなければならず、例えば李明博朴槿恵の保守政権が「1948年は憲法が制定され、大韓民国が建国」「1945年の光復」を祝うべきとしたところ、進歩派・左派が建国は1919年であり、1948年は政府樹立に過ぎないと反発、文在寅は政権交代後、1948年説を盛り込んだ国定「正しい歴史教科書」を廃止したが、それは朴槿恵政権による「歴史歪曲」を「正し」、「歪曲」を「正す」ことが歴史の「進歩」なのであり、自分たちはその闘いを先導しているという自負が進歩派・左派の「国家の正統性」であると指摘している[22]

浅羽祐樹は、現行の大韓民国憲法前文には「我ら大韓国民は3.1運動によって建立された大韓民国臨時政府の法統」を「継承」すると書かれているが、この文言は、民主化運動中での1987年に憲法改正時に盛り込まれたが、文在寅韓国大統領は、憲法改正により「1919年建国」を憲法前文に書き込むことを目指し、2019年を「建国100周年」にしたがっている、と指摘している[23]

読売新聞』2017年12月18日社説は、文在寅が2017年12月に中国を訪問した際に大韓民国臨時政府庁舎跡を訪問したことを「内陸部の重慶では、日本の朝鮮半島統治期に独立運動の拠点となった『大韓民国臨時政府』の庁舎跡を訪問した。植民地支配からの解放を勝ち取ったという独善的な歴史観を広めたいのだろうか」と述べた[24]。文在寅はこの訪問の中で重慶の大韓民国臨時政府について「韓国の根であり、建国の始まりだ」[25]と述べた。なお、前大統領の朴槿恵は上海の方の大韓民国臨時政府庁舎跡を訪問していた[26]

臨時政府旧址

交通
  • 新天地駅(大韓民国臨時政府旧址へは馬当路を北へ徒歩5分)住所:浦区馬当路306弄4号
  • 黄陂南路駅(旧址へは馬当路を南へ徒歩10分)



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  1. ^ a b c 《상해림시정부》- 우리민족강당
  2. ^ a b c d e f g 抗日戦争期における韓国臨時政府の政治活動と中国国民政府 権寧 俊 [1]
  3. ^ 中国の抗日戦争記念館、大韓民国臨時政府の史料充実”. 朝鮮日報. 2017年閲覧。...
  4. ^

    When Germany surrendered the Committee and the Regency Council, which had been set up by the Central Powers at Warsaw, got together and formed a Provisional Government of Poland which was recognized as such by the Powers before the Versailles Conference was convened. Poland had an army fighting in France even before 1917. The U.S. and other major powers, on the other hand, deliberately refrained from recognizing the "Provisional Government of Korea" as having any status whatsoever during World War II.

  5. ^ http://www.law.go.kr/lsInfoP.do?lsiSeq=61603&efYd=19880225#0000(大韓民国憲法)
  6. ^ [격동의 역사와 함께한 조선일보 90년 [2] 조선일보 인수해 혁신시킨 신석우 임시정부 때는 '대한민국' 국호(國號) 정해]朝鮮日報2010年1月8日配信記事。
  7. ^ 大韓民国臨時政府対日宣戦声明書 大韓民国臨時政府主席金九と 外務部長趙素昻名で大韓民国23年12月10日に宣言したが、日本政府ならびに連合国は現在も臨時政府を国家として承認していないため、国際法上の意味を持つに至っていない
  8. ^ “【軍事情勢】独立を眺めた韓国光復軍と勝ち取った印国民軍”. SankeiBiz (産経新聞社). (2014年2月16日). http://www.sankeibiz.jp/express/news/140216/exd1402160015000-n1.htm 2017年4月24日閲覧。 『米CIA(中央情報局)の前身で、レジスタンス運動を支援するOSS(戦略諜報局)が協力し、朝鮮半島内の拠点で潜入工作員(2000人説アリ)による破壊活動を実施する作戦を立てた』
  9. ^ アジア歴史資料センターのレファレンスコード: B03041572500 『8 旬報第四号 2(関東庁警務局 大正10年(1921年)11月12日)』によれば強引というよりも、恐喝強盗という犯罪に近い資金収集を行なっている資料もある(上記資料の48画像目)。
  10. ^ a b 李在鈴, pp. 14.
  11. ^ 李在鈴, pp. 21.
  12. ^ 鄭俊坤 1991, pp. 110.
  13. ^ 「南朝鮮解放の政治力学:米軍進駐と左右対立の構図」小此木政夫(慶應義塾大学法学研究会)
  14. ^ 鄭俊坤 1991, pp. 119.
  15. ^ 鄭俊坤 1991, pp. 116.
  16. ^ 鄭俊坤 1991, pp. 118.
  17. ^ 1920年代よりアメリカに亡命してアメリカ(ハワイ)で活動した親米派の筆頭格であった。
  18. ^ 『韓国の呪い』(光文社,1986)、『韓国の崩壊 太平洋経済戦争のゆくえ』(光文社1988)
  19. ^ 『韓国の崩壊 太平洋経済戦争のゆくえ』(光文社1988)p67
  20. ^ 池上彰、「そうだったのか!朝鮮半島」(2014、集英社)
  21. ^ 李栄薫 『大韓民国の物語』 文藝春秋2009年2月、198-203頁。ISBN 4163703101
  22. ^ a b “徴用工も蒸し返す、韓国人の歴史観とは”. 読売新聞. (2017年8月25日). オリジナル2017年8月25日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/WGjBl 
  23. ^ “徴用工も蒸し返す、韓国人の歴史観とは”. 読売新聞. (2017年8月25日). オリジナル2017年8月25日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/ElCgQ 
  24. ^ “中韓首脳会談 危うさが露呈した文在寅外交”. 読売新聞. (2017年12月18日). オリジナル2017年12月21日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/9rdIW 
  25. ^ “文大統領、中国への親近感アピール?独立運動の拠点訪問「韓国の根であり、建国の始まりだ」”. ZAKZAK. (2017年12月17日). https://www.zakzak.co.jp/soc/news/171217/soc1712170010-n1.html 2017年12月31日閲覧。 
  26. ^ “パク大統領 上海臨時政府庁舎再開館式に出席”. Korea.net. (2015年9月4日). http://japanese.korea.net/NewsFocus/Policies/view?articleId=129754 2017年12月31日閲覧。 






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