大韓民国国内での評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:20 UTC 版)
「大韓民国臨時政府」の記事における「大韓民国国内での評価」の解説
1948年に成立した大韓民国は1948年憲法(第一共和国憲法)の前文で「己未三一運動で大韓民国を建立して世界に宣布した偉大な独立精神を継承し」と臨時政府の精神を継ぐと表記し、その後の改正でも継承され、現在の第六共和国憲法の前文でも触れられている。だが、その大韓民国成立について、国内の教育機関では1919年と教えているが、国際法上ならびに外交上では1948年と公式に認めている。また、詳細は後述するが、韓国の進歩派・左派は「大韓民国は1919年に建国されており、主権国家の樹立は1948年にあたる」と認識している。 李栄薫は、韓国の歴史教科書や研究書では、1920年代から満洲・中国で独立戦争が繰り広げられ、1944年に大韓民国臨時政府のある上海で光復軍(大韓民国臨時政府の軍事部門)として統合再編され、連合軍と合同して朝鮮への進撃を準備したところ、アメリカが原子爆弾を投下し、機会を逸したと惜しむ叙述で書かれており、例えば韓国の国定教科書(1985年版)には、「連合軍が日本に原爆を投下し、一九四五年八月一五日に日本が無条件降伏を行ったことから、光復軍は同年の九月に国内への進入を実行しようとの計画を実現できないまま光復の日を迎えてしまった」とあるが、実際は、満州・中国で日本軍と独自の戦闘を行ったのは、3・1運動後の1920年の1年限りであり、「すべてが過大評価であり、実態とはかけ離れた叙述」として以下の理由を挙げており、「我が民族が、アジアと太平洋のヘゲモニーをめぐって日本とアメリカが行った戦争のお陰で、アメリカによって解放されたというのは紛れもない事実」「我が民族は、アメリカが日本帝国主義を強制的に解体したはずみで解放されたのです。自分の力で解放されたのではありません。今日、韓国の若者たちは、こうしたことを言うと苦々しく思うかもしれませんが、この点を冷静に正面から見つめなければなりません」と述べている。主な要点を列記すると下記の通りとなる。 3・1運動後、金佐鎮将軍の北路軍政署と洪範図将軍の西路軍政署は合流して、鳳梧洞戦闘と青山里戦闘において戦果を挙げたが、その後日本軍の追撃を受け、沿海州のアレキセーフスクに退却したが、独立軍のヘゲモニーをめぐって内紛が勃発、ソ連軍が独立軍の武装解除を強要し、数百名が射殺される自由市惨変が発生、それ以後、遊撃戦・陣地戦関係なく、独自の戦線を形成することはなかった。 1930年代に中国共産党統制下の東北抗日聯軍と八路軍所属の朝鮮人の闘争が展開されるが、あくまで日本と中国の戦争の一環であり、例えば、金日成より上位の連隊長だった東北抗日聯軍の楊靖宇将軍は、瀋陽の歴史博物館に楊靖宇の抗日闘争の絵画が展示してあるが、そこに朝鮮出身という文字はない。 アメリカ・ソ連・中国など連合国のいかなる政府も大韓民国臨時政府を承認せず、独自の軍事活動を認めず、大韓民国臨時政府の信任は国際的承認を受けるほど高くなく、独立運動は理念・路線をめぐってやたらと分裂していた。 大韓民国臨時政府を支援した中国国民党は、将来日本から解放される朝鮮における自らの損得勘定を行い、1941年に「韓国光復軍行動準備」を大韓民国臨時政府に強いて、光復軍を中国軍の参謀総長統制下に置き、これに関して大韓民国臨時政府の趙素昴外相は、駐華アメリカ大使に「中国が日本の降伏後に、再び韓国を中国の宗主権の下におこうとしているためかもしれない」という説明を行い、これらの立場は中国共産党もソ連も同じであり、将来日本から解放される朝鮮に、利害関係を持つ強国間の緊張関係が早期に形成され、解放前後にこれらの緊張関係に基づく国際秩序に率先的に参加或いは発言権を確保した朝鮮人政治勢力は存在せず、朝鮮はあくまでも日本の付属領であった。
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