大韓民国建国までとは? わかりやすく解説

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大韓民国建国まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:23 UTC 版)

李承晩」の記事における「大韓民国建国まで」の解説

第二次世界大戦勃発後、1945年8月15日日本降伏しその後連合国首脳によるヤルタ協定に基づき朝鮮半島北緯38度線境界に、北部ソ連軍南部アメリカ軍による連合国軍政に置かれることとなった朝鮮独立から2ヵ月後の1945年10月李承晩在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島戻り独立建国運動の中心人物となった。彼は他の運動家に比べて活動歴長いこと、大韓民国臨時政府初代大統領であったこと、「朝鮮建国準備委員会」(略称「建準」)に名を連ねたことがあること、30年にわたるアメリカでロビー活動によって、アメリカ人支援団体持ち米国内では関係者知られる存在であったことから、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}アメリカ国内においては大統領就任すべき正統性備えている」とみなされていたと言われている[要出典]。 中国国民党にも人脈育てており、マッカーサーに彼を強く推奨したのは蔣介石だった。マッカーサー専用機搭乗して帰国するアメリカ意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一掲げた朝鮮には他に有力な反共右派存在しなかったこともアメリカ支持受けた理由一つだったと思われる即時独立求め民族派金九中道派呂運亨左派朴憲永といった有力活動家アメリカ正面から対立する中で、アメリカ軍政をある程度容認していた事も大きい。 また、真面目なクリスチャンであったことも支持受けた理由とされる日本統治時代には朝鮮半島にいたことがほとんど無く地盤基盤も富も持ち合わせていなかった。これを支えたのが全羅道本拠としていた金性洙率い湖南財閥と、それが中心になって組織され韓国民主党韓民党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。また解放後新聞が行った各種世論調査において、は他の指導者に比べて圧倒的な支持受けていた。反日民族派金九による親日派粛清恐れをなした日本統治時代対日協力者支持基盤となったのである。 しかし、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁はおそらく当初の予定どおり支持し、彼と韓民党仲介した。臨政と韓国民主党信託統治反対運動路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党李承晩接近する両者連合は独自の勢力作り動き出しの下に政府準備組織独立促成中央協議会」(独促、後の大韓独立促成国民会)を発足させた。このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という3つの政府組織政府準備組織)が存在することになり、ソウル大混乱陥った韓民党連合は「建準」で勢力誇っていた左派と、その他の大韓民国臨時政府出身者対抗しアメリカ軍政開直後ソウル政界主導権握った全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議5.10単独選挙阻止するために開かれた4月19日から平壌牡丹峰劇場での連席会議南朝鮮41個の政党社会団体北朝鮮15個の政党社会団体から選出され695名の代表者参席するのだが、これは当時南北全ての左・右勢力大部分網羅していた。実際に南朝鮮からは南朝鮮労働党勤労人民党など左翼系列政党だけでなく韓国独立党民族自主連盟など右翼系列政党参加しただけではなく朴憲永白南雲金九金奎植趙素昻などの有名人などの左翼及び右翼参席した。在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が最も嫌った左派排除成功した李承晩韓民党は、1948年5月10日行われた国際連合監視下での総選挙臨んだ初代総選挙)。この選挙は「米ソ両軍撤退南北要人会談総選挙という順序政府樹立」の3段階の方案反しており、朝鮮半島南北分断固定化するとの理由から、民族派金九中道派金奎植らの有力者含めた反対の中で強行され、各地反対派による武装闘争展開された。 南朝鮮単独での初代選挙に至る過程起きた最も悲惨な事件が「済州島四・三事件」である。1948年4月3日には朝鮮南北分断固定するとの理由から南朝鮮単独での総選挙実施反対する過程でこの事件発生し少なくとも3万人島民南朝鮮国防警備隊その後身の大韓民国国軍南朝鮮民間右翼などによって虐殺された。この事件今後済州島だけは島民意思動こうとする運動を、北朝鮮介入見て南側軍部自警団島民虐殺したのである済州島は後に大韓民国領土になった。この事件によって日本逃れたことで、現在の在日韓国・朝鮮人となった者が多い。 総選挙によって韓民党制憲議会多数制した。そこで制定され第一共和国憲法議会大統領選出する定めていた。 1948年8月15日に、アメリカ合衆国後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国政府樹立宣言した議会多数支持得て初代大統領就任した政権地主資本家および大日本帝国統治下の朝鮮人官僚勢力基盤としていた。大韓民国建国翌月9月9日朝鮮半島北部実効支配していた北朝鮮人民委員会母体に、朝鮮半島北部朝鮮民主主義人民共和国建国された。 1948年8月15日大韓民国南朝鮮)と9月9日朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の建国後大韓民国李大統領は「北進統一」を、朝鮮民主主義人民共和国金日成首相は「国土完整」を唱えそれぞれ互いに互い併呑する形での朝鮮半島統一案を提示した

※この「大韓民国建国まで」の解説は、「李承晩」の解説の一部です。
「大韓民国建国まで」を含む「李承晩」の記事については、「李承晩」の概要を参照ください。

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