大韓民国建国まで
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第二次世界大戦勃発後、1945年8月15日に日本が降伏し、その後連合国首脳によるヤルタ協定に基づき、朝鮮半島は北緯38度線を境界に、北部はソ連軍、南部はアメリカ軍による連合国軍政に置かれることとなった。 朝鮮独立から2ヵ月後の1945年10月に李承晩は在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁直接統治下の朝鮮半島に戻り、独立建国運動の中心人物となった。彼は他の運動家に比べて活動歴が長いこと、大韓民国臨時政府の初代大統領であったこと、「朝鮮建国準備委員会」(略称「建準」)に名を連ねたことがあること、30年にわたるアメリカでのロビー活動によって、アメリカ人の支援団体を持ち、米国内では関係者に知られる存在であったことから、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}アメリカ国内においては「大統領に就任すべき正統性を備えている」とみなされていたと言われている[要出典]。 李は中国国民党にも人脈を育てており、マッカーサーに彼を強く推奨したのは蔣介石だった。李はマッカーサーの専用機に搭乗して帰国するやアメリカの意を受けて建準とも臨政とも距離をおき、反共統一を掲げた。朝鮮には他に有力な反共の右派が存在しなかったこともアメリカの支持を受けた理由の一つだったと思われる。即時独立を求める民族派の金九や中道派の呂運亨、左派の朴憲永といった有力活動家がアメリカと正面から対立する中で、李はアメリカ軍政をある程度容認していた事も大きい。 また、李が真面目なクリスチャンであったことも支持を受けた理由とされる。 李は日本統治時代には朝鮮半島にいたことがほとんど無く、地盤も基盤も富も持ち合わせていなかった。これを支えたのが全羅道を本拠としていた金性洙率いる湖南財閥と、それが中心になって組織された韓国民主党(韓民党)である。韓民党は建準に対抗して臨政を支持していた。また解放後に新聞が行った各種世論調査において、李は他の指導者に比べて圧倒的な支持を受けていた。反日民族派の金九による親日派粛清に恐れをなした日本統治時代の対日協力者が李の支持基盤となったのである。 しかし、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁はおそらく当初の予定どおり李を支持し、彼と韓民党を仲介した。臨政と韓国民主党は信託統治反対運動の路線などをめぐって対立しており、臨政と左派との合作が始まると、韓民党は李承晩に接近する。両者の連合は独自の勢力作りに動き出し、李の下に政府準備組織「独立促成中央協議会」(独促、後の大韓独立促成国民会)を発足させた。このことで、アメリカ軍政下には独促・臨政・建準という3つの政府組織(政府準備組織)が存在することになり、ソウルは大混乱に陥った。 李と韓民党の連合は「建準」で勢力を誇っていた左派と、その他の「大韓民国臨時政府」出身者に対抗し、アメリカ軍政開始直後のソウル政界で主導権を握った。 全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議は5.10単独選挙を阻止するために開かれた。4月19日から平壌の牡丹峰劇場での連席会議で南朝鮮の41個の政党・社会団体と北朝鮮の15個の政党・社会団体から選出された695名の代表者が参席するのだが、これは当時南北を全ての左・右勢力の大部分を網羅していた。実際に南朝鮮からは南朝鮮労働党・勤労人民党など左翼系列の政党だけでなく韓国独立党・民族自主連盟など右翼系列の政党も参加しただけではなく、朴憲永・白南雲・金九・金奎植・趙素昻などの有名人などの左翼及び右翼も参席した。在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓民党は、1948年5月10日に行われた国際連合監視下での総選挙に臨んだ(初代総選挙)。この選挙は「米ソ両軍撤退→南北要人会談→総選挙という順序で政府樹立」の3段階の方案に反しており、朝鮮半島の南北分断を固定化するとの理由から、民族派の金九や中道派の金奎植らの有力者も含めた大反対の中で強行され、各地で反対派による武装闘争が展開された。 南朝鮮単独での初代選挙に至る過程で起きた最も悲惨な事件が「済州島四・三事件」である。1948年4月3日には朝鮮の南北分断を固定するとの理由から南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程でこの事件は発生し、少なくとも3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、南朝鮮の民間右翼などによって虐殺された。この事件は今後済州島だけは島民の意思で動こうとする運動を、北朝鮮の介入と見て南側の軍部や自警団が島民を虐殺したものである。済州島は後に大韓民国の領土になった。この事件によって日本に逃れたことで、現在の在日韓国・朝鮮人となった者が多い。 総選挙によって李と韓民党は制憲議会の多数を制した。そこで制定された第一共和国憲法は議会が大統領を選出すると定めていた。 1948年8月15日に、アメリカ合衆国の後援の下、朝鮮半島南部のみを実効支配する大韓民国政府樹立を宣言した。李は議会多数の支持を得て初代大統領に就任した。李政権は地主・資本家および大日本帝国統治下の朝鮮人官僚を勢力基盤としていた。大韓民国建国の翌月、9月9日に朝鮮半島北部を実効支配していた北朝鮮人民委員会を母体に、朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国が建国された。 1948年8月15日の大韓民国(南朝鮮)と9月9日の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の建国後、大韓民国の李大統領は「北進統一」を、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相は「国土完整」を唱え、それぞれが互いに互いを併呑する形での朝鮮半島統一案を提示した。
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