大韓民国建国直後の政治的対立とは? わかりやすく解説

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大韓民国建国直後の政治的対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:23 UTC 版)

李承晩」の記事における「大韓民国建国直後の政治的対立」の解説

李承晩失脚瞬間まで独裁的に振る舞った韓国国内政治的対立揺れ続けた対立多く場合、「体制派と反体制派」「与党野党」の論争というよりもむしろ「議会政治家たち」の軋轢であった大韓民国建国直後1948年9月反民族行為処罰法制定され、この法律によって1949年1月反民族行為特別調査委員会創設され以後大韓民国では「親日反民族行為者」が法的に認定されている。また、1948年発生した麗水・順天事件契機に、大韓民国国内南朝鮮労働党員などの反李承晩左翼親北勢力除去目的として、1948年12月1日国家保安法制定している。 1949年1月5日朝日新聞通じた日本への新年メッセージでは過激な反日姿勢見せてなかった。そこでは「日本皆さん新年おめでとう。韓国人日本人韓国人抱いてるのと同様に善良な皆さんに対してては何の呵責もない」、「過去40年韓国人がうけた痛手日本軍国主義者の罪であって日本人もまた政府同様に被害をうけた。隣人両国民はお互いに仲良くなければならないことを日本人忘れてならない」としていた。 韓国政府内部最初対立大統領制を採り続けるか議院内閣制採用するかを巡って起きた大統領制維持目論む対し支えていた韓民党多数議院内閣制採用望んでいた。この両者の対立ほどなくして抜き差しならないものになった日本統治時代普成専門学校現在の高麗大学校湖南財閥一員教授をし、ソウル大学校教授兼務していた兪鎮午憲法起草委員会議長は韓民党意向を受け大統領形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案起草していたがにより覆され大統領中心制へと転換される初代内閣組閣時にも韓民党との対立起こった。韓民党金性洙国務総理推していたにも拘らず李承晩李允栄国務総理任命27120大差否決される。しかし、承晩は続いて李範奭国務総理任命、110対84可決初代内閣からは韓民党はほぼ排除され金度演財務部長官に任ぜられたのみとなった1949年には反承晩勢力団結して政界再編起き民主国民党民国党)が生まれた民国党には臨時政府出身者一部加わり申翼煕趙炳玉らがリーダーとなった民国党改憲案を上程したが、在席者中3分の2賛成得られず、改憲案は否決された。 更に、1949年6月26日には右派陣営李承晩最大政敵であった金九安斗煕によって暗殺されている。安斗煕反共団体西北青年会元会員で、思想的に近い人物だった。

※この「大韓民国建国直後の政治的対立」の解説は、「李承晩」の解説の一部です。
「大韓民国建国直後の政治的対立」を含む「李承晩」の記事については、「李承晩」の概要を参照ください。

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