大韓民国建国直後の政治的対立
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「李承晩」の記事における「大韓民国建国直後の政治的対立」の解説
李承晩は失脚の瞬間まで独裁的に振る舞った。韓国国内は政治的対立で揺れ続けた。対立は多くの場合、「体制派と反体制派」「与党と野党」の論争というよりもむしろ「李と議会政治家たち」の軋轢であった。 大韓民国建国直後の1948年9月に反民族行為処罰法が制定され、この法律によって1949年1月に反民族行為特別調査委員会が創設され、以後大韓民国では「親日反民族行為者」が法的に認定されている。また、1948年に発生した麗水・順天事件を契機に、大韓民国国内の南朝鮮労働党員などの反李承晩左翼・親北勢力除去を目的として、1948年12月1日に国家保安法を制定している。 1949年1月5日に朝日新聞を通じた日本への新年メッセージでは過激な反日姿勢を見せてなかった。そこでは「日本の皆さん新年おめでとう。韓国人は日本人が韓国人へ抱いてるのと同様に善良な皆さんに対してては何の呵責もない」、「過去40年、韓国人がうけた痛手は日本の軍国主義者の罪であって、日本人もまた政府の同様に被害をうけた。隣人の両国民はお互いに仲良くしなければならないことを日本人は忘れてはならない」としていた。 韓国政府内部の最初の対立は大統領制を採り続けるか議院内閣制を採用するかを巡って起きた。大統領制の維持を目論む李に対し、李を支えていた韓民党の多数は議院内閣制の採用を望んでいた。この両者の対立はほどなくして抜き差しならないものになった。日本統治時代に普成専門学校(現在の高麗大学校で湖南財閥の一員)教授をし、ソウル大学校教授を兼務していた兪鎮午・憲法起草委員会議長は韓民党の意向を受け大統領を形式的な元首とする、議院内閣制に近い憲法草案を起草していたが李により覆され、大統領中心制へと転換される。 初代内閣組閣の時にも韓民党との対立は起こった。韓民党は金性洙を国務総理に推していたにも拘らず李承晩は李允栄を国務総理に任命、27対120の大差で否決される。しかし、承晩は続いて李範奭を国務総理に任命、110対84で可決。初代内閣からは韓民党はほぼ排除され、金度演が財務部長官に任ぜられたのみとなった。 1949年には反承晩勢力が団結して政界再編が起き、民主国民党(民国党)が生まれた。民国党には臨時政府出身者の一部も加わり、申翼煕、趙炳玉らがリーダーとなった。民国党は改憲案を上程したが、在席者中3分の2の賛成を得られず、改憲案は否決された。 更に、1949年6月26日には右派陣営で李承晩最大の政敵であった金九が安斗煕によって暗殺されている。安斗煕は反共団体の西北青年会の元会員で、思想的は李に近い人物だった。
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