大韓民国政府成立とは? わかりやすく解説

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大韓民国政府成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:14 UTC 版)

大韓民国」の記事における「大韓民国政府成立」の解説

第二次世界大戦勃発日本連合国敵対するうになると、連合国首脳1943年発表したカイロ宣言の中で大戦後朝鮮に「自由且独立ノモノタラシムル」ことを宣言した1945年2月ヤルタ協定にて連合国首脳戦後朝鮮アメリカ・イギリス中華民国・ソ4か国による信託統治下に置くことを決定ヤルタ会談米軍との秘密協定基づいてソ連軍8月9日対日参戦速やかに朝鮮半島侵攻開始した1945年8月15日日本ポツダム宣言受託宣言したことで朝鮮離脱決定的となった朝鮮北緯38度以北北朝鮮)をソ連軍に、以南南朝鮮)をアメリカ軍それぞれ占領された。アメリカ軍司令部9月7日朝鮮における軍政占領統治実施を宣言し、独立運動家らが自発的に樹立した朝鮮人民共和国大韓民国臨時政府政府承認否定した9月9日アメリカ軍降伏文書署名を受け、南朝鮮では新設され在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁統治機構一部復活させて直接統治実施したアメリカ軍軍政下の朝鮮半島南部には幾つかの政治勢力存在したこのうち李承晩中心とする右派グループアメリカもっとも近い関係にあった。しかし、李承晩アメリカ本国との直接パイプ見せながらアメリカ軍軍政に対して接したため、軍政当局からは厄介な存在として扱われていた。ただ李承晩には長年本国離れていたため国内組織的な支持勢力持っていないという弱点もあった。右派政治勢力には李承晩グループとともに大韓民国臨時政府中心となっていた金九グループがあった。さらに右派には宋鎮禹金性洙など韓国民主党韓民党)を結成した政治勢力がおり、韓民党財政的基盤では他よりも優位にあった。一方左派政治勢力には朴憲永グループがあった(朴憲永はのちに北朝鮮へ越北)。このほか呂運亨中心とする中道左派グループ金奎植中心とする中道右派グループ存在した第二次世界大戦後朝鮮半島南部では左右対立激しく無償農地改革主張していた左派勢力のほうが優勢だった。しかしソ連提案した朝鮮半島国際信託統治案めぐって左派が「賛託」と呼ばれる賛成派につき、右派が「反託」と呼ばれる反対派についたことを契機状況変化した連合国1945年12月モスクワ三国外相会議にて朝鮮半島信託統治協定し、翌1946年1月から京城府信託統治実施向けた米ソ共同委員会開催した。しかし、共同委員会信託統治受け入れ反対する李承晩金九大韓民国臨時政府系の右派扱いめぐって紛糾し米ソ対立から1947年7月決裂したアメリカ朝鮮問題国際連合持ち込み国連1947年11月14日国連監視下で南北朝鮮総選挙統一政府樹立を行うことを決定した。翌1948年1月国連国連朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮派遣し総選挙実施可能性調査行ったソ連がUNTCOKの入北を拒否したため、アメリカ主導国連2月26日にUNTCOKが活動可能な南朝鮮単独での総選挙の実施決定金九金奎植大韓民国臨時政府重鎮北朝鮮人民委員会による南部単独での総選挙反対押し切って5月10日南部単独総選挙実施したアメリカ軍軍政は、李承晩金九絶対的に支持していたわけではなく中道派を軸に左右勢力取り込んだ政権実現しようとしたが挫折左右合作運動)。結局李承晩韓民党連携による政権樹立目指された。憲法案では大統領制採用する内閣責任制採用するかが争点となり、強大な権力理想とする李承晩金九大統領制主張したのに対し議会基盤置いていた韓民党内閣責任制主張した制憲憲法その折衷案として大統領国会議員間接選挙により選出する大統領間接選挙制採用した選挙によって成立した制憲議会7月12日制憲憲法制定7月20日には李承晩大韓民国大統領選出し独立国家として準備性急に進めた。この制憲憲法には進歩的な条文含まれていたが、自由に関して法律での制限広範に認め内容で、国内多く政治勢力意向汲んだ妥協点反映されたものだった3年後1948年8月15日李承晩大韓民国政府樹立宣言同日独立祝賀会が行われ、実効支配地域北緯38度線以南朝鮮半島のみとしたまま大韓民国独立国家となった南朝鮮単独大韓民国建国され翌月1948年9月9日大韓民国実効支配が及ばなかった残余朝鮮半島北部金日成首相の下で朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)として独立した双方政権ができてからも南北分断回避主張する南北協商論は強く金九金奎植平壌金日成会談したが、決裂した南北連席会議)。南北間には隔たりがあり、金日成はこの会議朝鮮半島全体指導者として印象づけるために利用したという評価もある。 1948年時点では、南北分断はまだ強固強靱制度化されたものとはみられていなかったが、冷戦背景南北で非常に対照的な憲法制定されたことで、南北分断次第固定化された。互いに朝鮮半島全土領土であると主張する分断国家それぞれの朝鮮統一論を掲げ朝鮮民主主義人民共和国金日成首相建国翌日9月10日最高人民会議演説で「国土完整」を訴え他方大韓民国南朝鮮)の李承晩大統領軍事力行使をも視野入れた北進統一」を唱えた互い併吞ようとする政府1950年6月25日勃発した朝鮮戦争によって、実際に干戈を交えることになる。

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