五行思想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/18 03:50 UTC 版)
中国の王朝と五行相生・相剋
中国の戦国時代末期の書物『呂氏春秋』は五行の相剋の説を使って王朝の継承を解釈した。それぞれ王朝には五行のうちの一つの元素に対応した「徳」が充てられた。そして、その王朝の正色もそれに対応して、元素としてその「徳」の色になった。例えば、殷王朝の徳は金徳で、その正色は白だった。前の王朝が衰え、新しい王朝が成立した時、新しい王朝の徳が前の王朝の徳に勝ったことにより、前の王朝から中国の正統性を受け継いだ。例えば、周王朝の火徳は殷王朝の金徳に勝ったとされた。これは鄒衍の五徳説から発展した思想である。五徳説は、周の世を基準として黄帝の世までを五行で解釈したものである。色を配したのは管子幼官篇からだとされる[9]。また、この五徳に準じて王朝ごとに歳首を変更していた。例えば、殷王朝は夏王朝の12月を、周王朝は夏王朝の11月を正月とした[10]。 後漢王朝以降、中国の王朝は五行の相克の代わりに相生の説を使って王朝の継承を解釈した。例えば、隋朝の火徳は唐朝の土徳を生み出したとされた。
時令と五行
四季に中央の「土」を加えた五季時令は、『管子』幼官篇、四時篇、五行篇の他、『呂氏春秋』十二紀、『礼記』月令などがあげられる。四時篇から十干の配当がなされ、「土」が夏と秋の間に置かれるようになった。また、五行篇では各季節を七十二日間としている。五季時令は『淮南子』天文訓、『史記』天官書、『漢書』律暦志に受け継がれ、発展していく[11]。
日本神話における五行
日本では中世以来、記紀の伝える神話を五行説で解釈しようとする動きがあり、それら諸説の中でも比較的有名なのは『神皇正統記』の説で、水徳の神が国狭槌尊、火徳の神が豊斟渟尊、木徳の神が泥土瓊尊・沙土瓊尊、金徳の神が大戸之道尊・大苫辺尊、土徳の神が面足尊・惶根尊だとしている。水戸学などの儒学者や陰陽師の間で議論された。
参考文献
- 中村璋八『五行大義』、明徳出版社、中国古典新書、1973年、ISBN 978-4896192681
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火 |
- ^ 《台日大辭典》、小川尚義
- ^ 小柳司気太『道教概論』世界文庫刊行会、1923年、26頁。
- ^ 井上聰『古代中国陰陽五行の研究』翰林書房(原著1996-3-15)、200-203頁。ISBN 4906424805。
- ^ 江連隆『諸子百家の事典』大修館書店、2000年。ISBN 978-4469032109。136-167頁。
- ^ "五行説". 安居香山 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2023年3月29日閲覧。
- ^ 井上聰『古代中国陰陽五行の研究』翰林書房(原著1996-3-15)、191-195頁。ISBN 4906424805。
- ^ 黄帝内経による。
- ^ 山田慶児『中国医学の思想的風土』潮出版社、1923年、109頁。
- ^ 島邦男『五行思想と禮記月令の研究』汲古書院(原著1972-3)、18-20頁。
- ^ 島邦男『五行思想と禮記月令の研究』汲古書院(原著1972-3)、103頁。
- ^ 井上聰『古代中国陰陽五行の研究』翰林書房(原著1996-3-15)、206-207頁。ISBN 4906424805。
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