青函連絡船時代
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1947年(昭和22年)3月26日 - 三菱重工神戸造船所にて起工 1948年(昭和23年)3月13日 - 進水10月25日 - 竣工 11月27日 - 就航 12月16日 - 洞爺丸型による1等寝台車(マイネ40形)航送開始 1950年(昭和25年)12月 - レーダー装備(飯野産業舞鶴造船所) 1951年(昭和26年)5月18日 - 浮流機雷流入のため洞爺丸型による寝台車航送休止 1953年(昭和28年)12月1日 - VHF無線電話運用開始(出力25W) 1954年(昭和29年)1月31日 – 葛登支、浦町、石崎の無線標識所廃止3月31日 – 久根別、沖館の無線標識所廃止 9月26日 - 洞爺丸台風に遭遇 17:25 - 乗客と車両を降し函館第2岸壁を離岸 17:40 - 防波堤内に錨泊。 19:16 - 防波堤内は輻輳しており、防波堤外への脱出を決定、抜錨開始。抜錨中日高丸に接近。 19:20 - 右舷錨が第六青函丸の左舷中央部に接触 19:31 - レーダー頼りで防波堤外へ脱出 19:40 - 防波堤外に投錨 19:58 - 走錨激しく北防波堤に接近 20:07 - 機関停止したが1分ほどで回復。抜錨完了後、涌元を目指し前進 21:10 - 葛登支岬灯台並航、風速40m。 21:40 - 操舵機室浸水のため操舵不能、以後両舷機の種々使用で針路維持。 22:00 - 潤滑油ポンプ故障、約5分間主機械停止。 9月27日 0:10 - 木古内湾知内沖に投錨。航行不能となる。 15:40 - 補助汽船「かつとし丸(初代)」の助けで操舵機室排水完了。 9月28日 6:05 - 抜錨、人力油圧ポンプ操舵で函館港外まで航海し、以後補助汽船「かつとし丸(初代)」と「おいわけ丸」に曳航され8:35函館港内投錨。 10月8日 - 3002便(函館第2岸壁3:50発 青森第2岸壁8:30着)から復帰 1955年(昭和30年)12月 - 下部遊歩甲板 水密丸窓化 重力型ボートダビット装備(新三菱重工神戸造船所) 1956年(昭和31年)6月1日 – 1等船室を2等A寝台に格下げし、2等寝台は2等B寝台とした。 1958年(昭和33年)4月 - 2等B寝台撤去し2等婦人雑居室とし、右舷下部遊歩甲板の3等椅子席の船尾部分を2等雑居室に改装。 1960年(昭和35年)3月 - 船尾水密扉設置 ボイラー重油専燃化 6缶から5缶に 塗装変更(川崎重工神戸工場)5,855.01総トン 。 7月1日 - 国鉄が、従来の2等を1等に、従来の3等を2等に呼称変更し、3等の呼称を廃止した。 1961年(昭和36年)6月 - 第2レーダー装備 7月2日 - 1等出入口広間から喫煙所にかけての広間に1等指定椅子席として背ずりが65度まで傾くリクライニングシートを60席設置。 10月1日 - 特急接続便の1便4時間25分運航 2便4時間30分運航。 1964年(昭和39年)8月31日 - 13便(青森第2岸壁6時20分発 函館第2岸壁10時50分着)を以って青函航路終航
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青函連絡船時代
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1964年(昭和39年)7月7日 - 三菱重工業横浜造船所にて起工 10月30日 - 進水 1965年(昭和40年)4月20日 - 竣工 4月25日 - 函館港回着 4月29日 – 7210便(函館4岸14時40分発 青森2岸19時20分着)より試運航 5月9日 – 主機カップリングボルト焼損にて試運航休航 5月11日 – 変7210便(函館1岸14時10分発 青森2岸19時20分着)で試運航復帰 5月16日 – 4便(函館2岸18時30分発 青森2岸22時20分着のところ22時51分着)より就航 1966年(昭和41年)8月17日 – 青森2岸2時20分発の9153便として航行中、5時38分濃霧の中、函館港防波堤灯台より260度0.5海里で貨物船「だいせん丸」(1,233トン)と接触、船首ブルワークに軽微な損傷、函館2岸6時10分定時着 1970年(昭和45年)5月25日 – 総トン数5,375.99トンに減トン 1972年(昭和47年)1月20日 - 33便(青森1岸5時05分発 函館2岸8時55分着)札幌オリンピックの聖火を輸送 1973年(昭和48年)12月28日 - 旅客定員通年1,330名 1974年(昭和49年)4月1日 – 荒天航行中、右舷アンカーリセス部破口生じ海水浸入 1977年(昭和52年)3月7日 - 国鉄青函航路開設70年目を記念し各連絡船の「シンボルマーク」を発表。大雪丸は「大雪の熊」 7月 – 遊歩甲板室後壁へのシンボルマーク取り付け 1978年(昭和53年)3月 - 船楼甲板室両舷へのシンボルマーク取り付けレーダー情報処理装置(CAS)装備 3月31日 -「サロン海峡」営業開始、(グリーン自由椅子席44席撤去)旅客定員1,286名 1981年(昭和56年)2月 - 後部普通船室左舷椅子席と右舷雑居席の間の壁を撤去し、両舷通しの大部屋雑居席とし、映写用スクリーンと放送設備を設置 1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化に伴い北海道旅客鉄道に継承される。同時に船籍港が東京港より函館港に、ファンネルマークが赤のJNRから黄緑のJRに変更された。 1988年(昭和63年)1月6日 - 検査期限切れのため、変151便(青森1岸5時35分発 函館2岸9時30分着 乗用車航送と貨物便)で終航、青函航路終航(同年3月13日)に先立つこと約2ヵ月であった。以後、売却まで有川桟橋(函館3岸)に係留。
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